2011年度書評はこちら

2010年12月

青沼 陽一郎私が見た21の死刑判決』文芸春秋

私が見た21の死刑判決

私が見た21の死刑判決

価格:840円(税込、送料別)

 

青沼さんはジャーナリストとしてちょっと思い出しただけでも両手の指に余る数の死刑判決を見てきたそうです。例え司法担当の記者でも死刑判決だけを優先して追いかけて取材しているわけではありませんので、これはかなり多い方だと思われるそうです。本書ではオウム真理教関連の事件が多数を占めるように、犯行自体を否認している否認事件や冤罪が疑われる事件は取り上げられていません。

最初に見た死刑判決はオウム真理教関係の裁判で最初に死刑判決が確定した岡崎一明被告のもの一審判決(1998年の東京地裁)だそうですから、昔から、という訳ではないようです。

本書は死刑廃止とか死刑存続とかの強い主張に基づいて書かれた本ではありません。むしろ、死刑判決を受ける被告人たちを多数描くことによってそのような犯罪の裏にある多種多様な人間模様を描こうとしたのだと思います。また、死刑囚(死刑が確定するまでを含め)が書いた文章や書簡なども多数紹介されています。それらを読んで感ずるのは、マスコミや判決などを通じて読まれるのはそれらの中の一部分にすぎないこと、そしてそのような文章や書簡は決して首尾一貫したものではなく、裁判自体の批判や自己弁護の繰り返し、そして真摯な反省まで入り混じった死刑囚の複雑で混沌としたな内面を表していることです。徹頭徹尾首尾一貫して合理的な人間なんていないと思いますし、もしいたとしたら絶対に友達にはなりたくはない魅力のない人間ですよね。でも、裁判では首尾一貫した真摯な反省が求められています。もしかしたら裁判官や検察官ってのは首尾一貫した魅力のない人間の集まりなのでしょうか。

私も死刑廃止を支持するものではありますが、心のどこかでこんな奴死刑にした方が世の中のためだ、と思うことが全くないわけではありません(ましてや自分の肉親が被害者であったら……)。しかし、人間が他人の心の中を正確に理解できないことも事実だと思います。だからこそ私には死刑という究極の刑を科すことにはためらいがあります。ところで、こんなことを言うと裁判員には選ばれないのかな。

死刑を考える一つのヒントとしてお読みください。

 

 

読売新聞社会部死刑』中央公論社

死刑

死刑

価格:1,575円(税込、送料別)

 

2008年8月から2009年6月にかけて読売新聞紙上に掲載された死刑に関する連載記事をまとめたものです。上記青沼さんの本が死刑囚に焦点を当てているのに対して、本書は死刑そのものに焦点が当てられており、死刑に関する様々な事象を取り上げているのが特徴です。青沼さんの著作とは異なり否認事件や冤罪が疑われる事件なども取り上げられていますし、あまり知られることのない教誨師(刑務所などにおいて収容者・受刑者の徳性の育成や精神的救済を目的とする宗教活動を行う宗教者)の活動、実際に死刑を執行する刑務官の苦悩、諸外国における死刑事情なども取り上げられています。

新聞連載ということで、死刑にまつわる諸々をコンパクトにまとめてある本書ですが、読後感もコンパクト、という訳ではありません。死刑制度を理解するためにもご一読を。

 

 

霞っ子クラブあなたが猟奇殺人犯を裁く日』扶桑社新書

あなたが猟奇殺人犯を裁く日

あなたが猟奇殺人犯を裁く日

価格:777円(税込、送料別)

 

二人の女性ライターからなる裁判傍聴ユニット霞っ子クラブが裁判員制度の発足を前に、二人が裁判員になったらどのような判断を下すのだろうか、というシミュレーションを本にしたものです。

本文で取り上げられているのは裁判員裁判の条件に該当する10件の重大事件で、裁判員裁判制度開始以前に行われたものです。全て裁判員裁判と同様な公判前手続きが採られ、争点が明らかになっているものばかりで、完全に事件を否認しているものや冤罪が疑われる事件は取り上げられていません。そして霞っ子クラブが判決(量刑)を予想、実際の判決と比べる、という構成になっています。

いかにもギャルっぽいキャプションが付けられていますが、何年も裁判の傍聴をしてきたわけですから、そこらの素人さんとは一味違っています。まず、その裁判における量刑判断のポイントを的確に指摘し、次に裁判の場で明らかになったことを基に量刑を決定します。裁判所の判断とは全く違うとか見当はずれ、なんてのはありません。ご立派。

私は日本の裁判員制度は裁判員に対しての守秘義務が重すぎるとか、裁判員裁判の対象が狭すぎるなどの問題があると思っていました。おまけに誰の思惑(アメリカからの年次改革要望書とかが影響しているとかいないとか)で始まったか良く分からないし。でも、本書を読んで、少なくとも一定数の今まで裁判などとは全く縁もゆかりもなかった人たちがまじめに裁判や法律というものに向き合うことになるのですから、これはこれでありなんじゃないか、と思うようになりました。あとはこの制度をより良い方向へと改善を重ねること。そのためにもあまりにも重い守秘義務は改善への取り組みを困難にする役目しか果たさないように思えますがいかがでしょうか。

あなたも裁判員になるかもしれません。その時になってあわてるのではなく、ひとつこの本でシミュレーションしてみませんか?

 

 

一ノ宮 美成自白調書の闇』宝島社

自白調書の闇

自白調書の闇

価格:1,300円(税込、送料別)

 

本書で取り上げられているのは2004年に起きた大阪地検裁判所長襲撃事件です。裁判所長の襲撃などと言うと何やらきな臭いにおいがしますが、実際はいわゆる「オヤジ狩り」事件でした。

当時大阪は33年連続「ひったくり」ナンバーワンとして悪名をとどろかせていました。そこに地方の司法組織のトップである地裁裁判長が襲われたわけですから大阪府警にとっても犯人逮捕は至上命題でした。

幸いにして襲撃された地裁裁判長の命には別条がなく、犯人も目撃していましたので、犯人逮捕は簡単だと思われました。ところが、はかばかしい成果がない、ということででっち上げ事件へとまっしぐらに突き進んでいくわけです。本件で問題になったのは自白調書。本件では犯人とされた成人二人が否認を貫きとおしたため、その他に犯人とされた少年たちも無罪が確定しましたが、もしそうでなかったら……。なにしろ否認を貫いた岡本さんは弁護士から「大阪府警っていうのは、全国で一番取り調べがきつい。ヤクザでも音を上げるほどきつい取り調べやのに、岡本君も、藤本君も、最初から最後まで否認できたっていうのは、ホンマにすごいんや」って誉められたそうです。

本書で一ノ宮さんは裁判員制度の欠陥も指摘しています。もし、この事件の裁判が裁判員制度の下で行われ、公判前手続きが取られていたらどうなっていたのか。ほとんど警察のでっち上げと言っても良い自白調書だけを読まされた上、二日か三日の公判で冤罪を見抜く可能性は限りなく低いのではないか、と。

郵便不正事件における証拠改竄疑惑で大阪地検特捜部の検事が逮捕されましたが、犯罪を無理やりでっち上げるために嘘でもいいから自白させる、有利な証拠は隠すとか証拠を捏造するなんて問題が大阪と言う地域性に基づくものでないことは明らかです。そうではなく、警察とか検察の捜査の在り方に、それを許容する組織の在り方に問題があるのではないでしょうか。それだけではなく、自白調書を偏重する裁判の在り方にも問題が見出せるでしょう。

証拠改竄疑惑がとかげのしっぽ切りに終わることなく検察の、そして法曹界の改善につながることをしぶとく見守っていこうではありませんか。

 

追記

本件に関する賠償命令が大阪地裁から出されました。

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少年への警官暴行認定=府に1500万賠償命令−全員無罪の地裁所長襲撃・大阪地裁

 大阪市で2004年、大阪地裁所長が路上で襲われ重傷を負った事件で、無罪などが確定した会社員男性2人と元少年3人が、国や大阪府などに総額約6800万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が20日、大阪地裁であった。吉田徹裁判長は「元少年の取り調べで警察官による一定程度の暴行があった」などとして、府に対し5人に計約1500万円を支払うよう命じた。
 国への請求は「裁判での立証活動などは違法ではない」として棄却。事件当時13歳だった元少年が、児童相談所の対応が不適切だったとして大阪市に請求した賠償も「対応に問題はなかった」として退けた。
 吉田裁判長は、刑事裁判と同じく13歳少年のアリバイ成立の可能性を認定。証言や日記などから、元少年3人が自白したのは「取り調べで警察官が髪の毛をつかんだり、大声で怒鳴り机をたたいたりするなどの暴行を加えたほか、不当な誘導があったため」と判断した。成人男性2人についても、被疑者ノートの記述などを基に「不相当に威圧的で違法な取り調べがあった」と指摘。任意捜査の違法な取り調べで得た自白を基に4人を逮捕、送検したことも違法とした。
 その上で、長期間の勾留や中等少年院送致で精神的苦痛を受けたとして、1人当たり300万〜900万円の慰謝料支払い義務を認定。無罪確定で補償を受けた分を差し引いて賠償額を算定した。
 検察官による家裁送致や起訴、控訴などは「自白が誘導によるものと認識するのは困難だった」などとして違法性を否定した。
 事件では、強盗致傷罪で起訴された男性2人が一、二審で無罪判決を受け確定。元少年2人も、無罪に当たる不処分などが確定した。(2011/01/20-19:24 時事通信社 http://www.jiji.com/jc/zc?key=%c2%e7%ba%e5%c3%cf%ba%db&k=201101/2011012000492)

 

2010年11月

三井 環検察の大罪』講談社

検察の大罪

検察の大罪

価格:1,575円(税込、送料別)

 

本書の著者である三井さんは元大阪高検公安部長。検察内の裏金作りをテレビ上で告発しようとしたところ、何と収録当日に口封じのために逮捕されてしまいました。こんなことはまともな世の中であれば到底信じられない、トンデモ本か陰謀史観の本にしか登場しない荒唐無稽なお話に思えます。が、鈴木宗男さんと佐藤優さんの強引な逮捕、日歯連の献金事件での不明朗な起訴、ライブドア事件における強引な世論の誘導、強引な証言作りがばれた厚労省の村木厚子局長の郵便不正事件(奇跡的に無罪になりましたね、なにしろ刑事事件における有罪率は99%以上とか)などを見ると、さもありなんと思えてきます。公正であり、時の権力におもねらない権力であるはずの司法が時の権力に擦り寄ってしまったと考えると、戦慄を思えざるを得ません。

三井さんは最高裁まで争いましたが敗訴、1年8カ月の実刑判決を受け収監、2010年1月に満期出所してきました。佐藤優さんと同じでもう怖いもんなし。何でも言える立場になったわけです。地獄を見た人間は強いぞ。

本書にも出てくる検察首脳の名前を久々に新聞記事に発見しました。検察官にとって反省なんて言葉は他人に対して使うものであって自らを律するために使うものではないということが良く分かる事件でした。

 

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6管本部長を更迭に追い込んだ「検察裏金」口封じ事件の主任検事

【政治・経済】

2010年9月4日 掲載

海保ヘリ墜落

●責任を感じることなく…
 第6管区海上保安本部広島航空基地のヘリコプター「あきづる」の墜落事故で、海上保安庁は3日、6管の林敏博本部長(54)と中村清次長(56)を更迭する人事を決めた。司法修習生向けに実施した「デモ飛行」の事実を隠したことが理由らしいが、事故は「デモ飛行」とパトロールの合間で起きた。直接関係のないサービス飛行の結果がクビとは何とも哀れだ。

 そもそも広島航空基地が「デモ飛行」の実施を決めたのは、水島海上保安部が、岡山地検から司法修習生の巡視艇の体験航海の依頼を受けたからだ。地検が体験航海を依頼しなければ、6管本部長のクビが飛ぶ事態は起きていなかったことになる。それでも6管は、体験航海の事実を隠した。

「墜落事故はデモ飛行から45分後に起きた。このため、6管は因果関係ナシと考え、あえて公表しなかった。ただ、幹部が会見で『司法修習生に迷惑をかけない方がいいと思った』と釈明しているから、隠すというよりも、検察に配慮したのでしょう」(海保事情通)

 そんな6管の親心にも、岡山地検は「司法修習生と事故の関連の有無は承知していない」(岩崎吉明次席検事)と知らぬふり。更迭人事の責任も感じていないらしい。

 そこで、あらためて岡山地検に聞いてみると、「検察庁としては特にコメントはありません」と素っ気ない返事。実は岡山地検のトップは大仲土和検事正。検察の裏金問題を告発しようとして逮捕された元大阪高検公安部長・三井環氏の口封じ事件の主任検事だ。

 6管幹部の悲劇は、組織防衛のために「正義の告発」を闇に葬り去った男がトップを務める地検にサービスした時点で始まっていたのだ。

(日刊ゲンダイ2010年9月4日 掲載 http://gendai.net/articles/view/syakai/126262

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三井 環「権力」に操られる検察』双葉新書

「権力」に操られる検察

「権力」に操られる検察

価格:860円(税込、送料別)

 

上記に続いて三井さんの著作です。本書では検察が時の権力におもねったとされる鈴木宗男事件(2010年9月8日最高裁は上告棄却、実刑確定)、日歯連事件(村岡兼造元官房長官のみ起訴され208年7月14日最高裁は二審の有罪判決を支持、有罪が確定)、朝鮮総連ビル詐欺事件、小沢一郎事件、郵便不正事件(2010年9月10日大阪地裁は無罪判決、大阪地検は控訴断念)を取り上げ、検察の暴走を暴いて行きます。

最後には鈴木宗男さん、堀江貴文さんとの検察に狙われた男たちの鼎談も収録されています。

三井さんは検察官出身で検察に喧嘩を売っている最中ですので本書および前掲書でも批判は主として検察に向けられています。しかしながら、三井さんの批判に見られる独善性、権威主義、形式主義、倫理観の欠如、権力へのおもねり、自己保身優先などの傾向は多かれ少なかれ法曹界全体に見られるのではないでしょうか。日本の司法システムは裁判所、警察と検察、弁護士などが切磋琢磨しながらも一体となって形作られるもののはずです。ところが現状では切磋琢磨は抜きでお仲間化、おまけに第三の権力であるはずのマスコミまでお仲間。表向きのコンプライアンスの形式は整っているのですが、機能していないのです。

どうも日本という国、あるいは日本人はこのお仲間主義が大好きですね。でも、今や世界はアセンションの一歩手前。仲間内の論理でごそごそやってる暇はないんじゃないですか。自分の目と耳でしっかりと情報を収集、自分の頭で考えてから決断を下すようにしようではありませんか。マスコミに載っている意見ばかり繰り返して口に出していると、頭の中身まで乗っ取られちゃいますよ。

 

 

郷原 信朗特捜神話の終焉』飛鳥出版社

特捜神話の終焉

特捜神話の終焉

価格:1,575円(税込、送料別)

 

郷原さんは20年以上に亘る検察生活を経て現在は名城大学教授、コンプライアンス研究センター長として、コンプライアンス問題の第一人者として活躍されています。私を雇ってくれないかな。郷原さんが検察を辞めるきっかけとなったのはライブドア事件だったそうです。詳しいいきさつは本書をお読みください。

本書は三井さんの著作でも取り上げられていた堀江貴文さん、佐藤優さんに加え、キャッツという害虫駆除会社の株価操縦や粉飾決済に関わったとされる細野祐二さん(2010531位日上告棄却により有罪確定)の3人との対談集となっています。

検察の仕組みそのものは強盗や殺人、放火と言った刑事事件の代表例みたいな犯罪を前提として組み立てられているようです。こんな事件ですと何が正義で誰が処罰されるべきか、なんてことは割合と明確に分かります。ところが、現在では事件の対象が政治だ経済だと広がっています。だもんでいささか無理がある立件とかがされちゃうわけです。金融界にいたころ、弁護士は経済を知らない、なんてことがささやかれていましたが、郷原さんによれば検察官とか裁判官だって(郷原さん自身を含めて)あまりよくは分かっていないようです。堀江さんとの対談なんて思いっきり噛み合っていませんからね。

郷原さんは現在の専門の組織のコンプライアンスに絡めて検察という組織の問題点を暴いています。ま、指摘されている諸問題については私も2001年に発表した論文「コンプライアンスを機能させるための組織なんぞでも書かせていただいるとおりです。ホッホッホッ。ご興味のある方はご一読を。

今までの常識ですと逮捕・起訴されただけで社会人としての人生はジ・エンド、たとえ無罪を勝ち取ったとしてもとんでもない年月と労力を取られてしまうのが普通でした。ましてや有罪が確定したとしたらどうでしょう(本書に登場する対談相手3人のうち本書出版時点で判決が確定していないのは堀江さんのみ)。以前だったら社会的には抹殺されていたであろう3人ですが、本書でも分かる通り実に生き生きと活躍されています。それを世間も許容している。それが何よりの検察批判なのではないでしょうか。

 

 

國廣 正それでも企業不祥事が起こる理由』日本経済新聞出版社

それでも企業不祥事が起こる理由

それでも企業不祥事が起こる理由

価格:1,680円(税込、送料別)

 

検察の不祥事が検察という組織のコンプライアンス上の問題であるともとらえられることは郷原さんも指摘しているとおりです。それでは、どのような病理に基づいてコンプライアンス違反というものは生まれるのでしょうか。コーポレート・ガバナンス、コンプライアンス体制の構築などを得意とする弁護士の國廣さんが企業不祥事発生のメカニズムを解き明かして行きます。

國廣さんが指摘していることのひとつに、本当の意味での「コンプライアンス」が単なる「法令遵守」ではなく「リスク管理」だというものがあります。企業においてコンプライアンスの実務を担当していると、新商品の開発時などに「コンプライアンス上問題はないか」といった質問を受けることがあります。大体の場合、リーガル上の問題はないか(違法性はないか)を意味しています。通常、違法性の有無などは弁護士に相談して決めますが(リーガル・オピニオンを取る)、明確に法令に違反している商品を販売するなどということは表社会で生きている会社である限りあり得ません。しかし、その時点で問題がなかった場合でも、販売後に問題が起きることもあります。例えば、商品企画時に想定していなかった使用方法をされるなどは大いに考えられる事態でしょう。

このような事態が起きた場合には、新たなリスク管理対策としてそのような事態をも包含した新しいスキームが作られなくてはいけないはずですが、最初の段階における「コンプライアンス上問題なし」という意見が独り歩きして、「法律上問題がないんだから」ということでそのまま突っ走ってしまう事例が多く見られます。コンプライアンスとは一つ一つ独立して結論が出るものではなく、終わることのないプロセスなのです。

また、コンプライアンスを非常にせまい意味での「法令遵守」と捉える例も多々見られます。つまり、明確な法令違反でなければ許される、というような考え方です。私が前掲書でも取り上げられている堀江さんに違和感を持つのは、この点です。法律で禁じられていないことだからと言って何でもやっていいわけではありません。法律とは最低のモラルだ、とは昔誰かが言った言葉だそうですが、その通りだと思います。功利主義の牙城であるアメリカにおいても、低所得者向け高金利住宅ローン(サブプライムローン)関連の資産を裏付けとした債権担保証券(CDO)を組成したゴールドマン・サックスに対し、あの「TIME」誌ですら法律で禁止されていないからと言って何をやっても良いわけではないだろうと痛烈な批判を展開しています(http://www.time.com/time/business/article/0,8599,1983747,00.html)。

不況でコンプライアンスなんぞを気にする余裕はない、という会社があるとも聞きます。しかし、人間というものは苦しい時にこそ本性が現れるものです。また、苦しいときの友が本当の友なのだ、とも言います。苦しい時にも本当の意味でのコンプライアンスを実現できる会社こそ「社会的に受け入れられる」「存続する」「良い」会社なのではないでしょうか。景気のいい時に偉そうなこと言ってるだけじゃだめですよ。

 

2010年10月

バーバラ・エーレンライク 中島由華訳『スーパーリッチとスーパープアの国、アメリカ』河出書房新社

 

以前『ニッケル・アンド・ダイムド アメリカ下流社会の現実』、捨てられるホワイトカラー』をご紹介したエーレンライクさんの最新作です。

本書の原題は“THIS LAND IS THEIR LAND”です。つまり「金持ちが一層裕福になって天高くそびえる山のてっぺんに陣取る一方、貧乏人はいっそう困窮し、永遠に日の当らない谷底に這いつくばった」と書かれているように、アメリカが金持ちの、金持ちによる、金持ちのための国になってしまったことを告発しています。

オバマ政権になり米国で医療保険改革法案が可決されたとのニュースが流れました。国による医療保険の導入の試みはセオドア・ルーズベルト大統領の時代に始まるといいます。アメリカにおいては歴史的偉業と捉えられていますが、国民全員が加入する医療保険の導入は先進国ではもはや常識、導入されていないのは先進国ではアメリカだけだと言われていました。これでアメリカもやっと先進国、ってことでしょうか。

最近日本でもGDPなどの経済指標に国民の幸福度も加味しようという議論がなされているようです。私たちが毎日毎日汗水たらして働いているのはよりよい暮らしがしたいから、そして幸せになりたいから、でしょ。ところがちっともそうはならない。

はたらけど
はたらけど猶わが生活(くらし)樂にならざり
ぢつと手を見る  (石川啄木『一握の砂』より

なんてね。

では、エーレンライクさんの提唱する解決方法は何なのでしょうか。本書の最後にピリリとスパイスが利いたレシピが載っています。ぜひご一読を。

 

 

原田 泰日本はなぜ貧しい人が多いのか』新潮社

日本はなぜ貧しい人が多いのか

日本はなぜ貧しい人が多いのか

価格:1,260円(税込、送料別)

 

本書は大和証券エコノミストの原田さんがNIKKEI NET BIZ+PLUSや『エコノミスト』などに連載していたコラムをまとめたものです。基本的な姿勢は統計などの事実を基に世に流布している思い込みに基づいた言論に対する反論を展開しています。原田さんが本書を書いたのは「誤った事実認識から正しい政策は生まれないが、正しい事実認識からは正しい政策対応が生まれる可能性がある」からだそうです。取り上げられたテーマは日本の現状、グローバリゼーションと格差、経済状況をいかにとらえるか、などの問題です。

本書において原田さんが暴きだした真実は、

「日本の高校生の科学的応用力の低下は限定的かもしれないが、教育関係者のそれは深刻である」

「人口減少は怖くないが、高齢化は怖い。ただし、それは、高齢者が、自分たちが生み育ててはいない若者の負担で、老後の生活を維持しようとしているからである。現在及び近過去の高齢者は、子供を産まなかったし、育てなかった。しかも、生まれてきた若者に良い職を与える事も出来なかった。だから、数が少なく、貧しくもなった若者に依存して、高齢者が、高い年金を得たり、良い医療を受けたりすることはできない。これは当たり前のことではではないか。高齢者が、自分たちが悪いから仕方がないと諦めてくれれば、なんの問題もない。諦めてくれないから問題になるだけだ」

大恐慌を最終的に終わらせたのは第二次世界大戦だ、という解説もよく聞かれますが、原田さんはこれも間違いだとしています。では、なぜこのような言辞がまかり通っているのかというと、「第1に、実際に大恐慌を起こした人々にとっては都合が良い」「第2に、資本主義を批判する左派にとっても都合が良い」「第3に日本の右派にとっても望ましい」方なのだそうです。例えデータがあっても、人は見たいようにしか物を見ない、のでしょう。

一方的な思い込みだけに基づいた、勇ましくて声がデカイだけの議論に流されないためにも冷静な議論が行われなくてはなりません。その一助となる本書でした。

 

 

小野 善康不況のメカニズム』中公新書

不況のメカニズム

不況のメカニズム

価格:819円(税込、送料別)

 

ケインズ経済学は大恐慌の経験から生まれただけあって、不況のメカニズムを理解するには格好のツールになるはずでした。ところがケインズの経済学、あるいは『雇用・利子および貨幣の一般理論』という著書は記述が不完全であったり、論理的に飛躍していたり、またケインズという上流階級人の書く文章があまりにもぺダンチックだったりしたため、いささか的外れの理解しかされてこなかったのではないかと小野さんは考えました。で、どこが不完全であったのか、何が足りなかったのかと考えた末に到達した結論が、「消費関数を捨てて、流動性選好と消費を直接関連づける消費の利子率という概念を導入すると、不況の説明に物価と賃金の固定性もいらなくなるし、乗数効果も消え、流動性の罠とも投資の限界とも利子の理論ともかみあい、新古典派的な消費者行動理論ともつながる。それによってケインズ的な非自発的失業の性質を満たす需要不足が現れ、ケインズ的な政府の役割も復活する」のだそうです。

ケインズと言えば、需要がないなら穴を掘って埋めるだけの事業でも行え、という処方箋が有名ですが、これについて小野さんは、「たとえば1000万人の労働者がいるとき、100万人を解雇して残りに900万人を効率的に働かせることと、1000万人全員を何とか働かせることを比べたとき、前者の方が効率が良いということにはならない。それよりも、900万人分の生産物やサービスしか売れない状況を改善して、余った100万人も働かせるようにした方が経済効率は高まる」としています。「この政策の真意とは、無駄な需要でもいいから増やしさえすればよいということではなく、余った人材を少しでも活用するにはどうしたらよいか、ということなのである。ここには倫理的、情緒的な判断は一切入っていない」、つまりイデオロギー的な考えからこのような政策提言が行われているのではなく、純粋に経済効率を考えた提言なのだとしています。

小野さんの理論を完全に理解する能力もなさそうな私ではありますが、新古典派の理論からは需要不足という概念は生まれないのだ、という記述にはなるほどと思いました。だから小泉改革では構造改革だとか何だとか言ってスパルタ的な政策ばっかり推し進めたんですね。新古典派の理論によれば、「需要不足がなく完全雇用が維持されているならば、生産能力を引き上げることこそが効率化につながる。そのため、余った人材を切り捨て、業績の悪い企業を退出させて、一所懸命働くインセンティブを与えれば、企業も労働者も効率よく働く。さらに、それによって増えた生産物やサービスは売れ残ることなくすべて受容されるから、生産性の向上こそが経済全体の効率化になる」はずなんです。実際には、「政府当局が供給側の非効率こそ経済停滞の原因と固く信じこんでいれば、大変悲惨な状態が起こってくる。企業やそこで働く人々はまだまだ努力が足りないと非難され、効率化と人員整理が続いて失業がますます悪化するから、需要はさらに減少し、景気後退とリストラの連鎖が起」きてしまいました。まさに小泉改革時代に大々的に行われ、大失敗した政策を見事に描写しているではないですか。

不況の中、必死で働いて同僚の分まで働くと、同僚はクビ。自分にも多少のリターンはあるのでしょうが、全体としては失業者が増え、不況が拡大するだけ。あー、まじめに働くのは止めようかな。まじめに働いてもいないけど。

実は需要不足については私も似たようなことを答えた覚えがあります。量的緩和政策の採用が話題になったころ、ある外資系情報会社のケーブルテレビ(ロイ×ーテレビ)に出演した時、キャスターの女性に非不胎化介入政策を採用すべきではないか、と聞かれました。私はそんなことをしてもブタ積みが増えるだけで、アナウンスメント効果以上は期待できないと答えました。違う言い方でもう一度聞いてきましたから、違う答えを期待してたんでしょうね。残念でした。当時、民間の資金需要は弱く、逆に資金需要のある企業はアブナイ企業ですから金融機関は貸したくない。単なる貨幣供給では意味がないわけです。ま、こんな答えをしたもんだから二度と呼ばれませんでしたけどね。

ケインズ理論に今までとは違った角度から光を当てる本書。現在の日本、そして世界経済が苦しんでいる不況を理解するには格好の一冊でした。非自発的失業者の一人として本書を推薦いたします。ぜひご一読を。

 

 

デイビッド・ウェッセル 藤井清美訳『バーナンキは正しかったか?』朝日新聞出版

バーナンキは正しかったか?

バーナンキは正しかったか?

価格:2,625円(税込、送料別)

 

ベン・バーナンキは2006年アラン・グリーンスパンの後任としてFRB議長に選任されました。就任から2年半の後、リーマン・ブラザースの破綻を頂点とする世界的金融危機(「フレートパニック」)を迎えました。

本書はその時バーナンキはFRB議長としてどんな決定をしたのか、FRBとしては何ができて何ができなかったのか、何を実行し何を実行しなかったのか、何をなすべきであり何をなすべきではなかったかを検証しています。

本書は2009年8月にアメリカで出版されたようです。その時点では前年の「グレートパニック」はほぼ収束したかに思えたようですが、果たして本当なのでしょうか。この書評を書いているのは2010年の7月ですが、EU圏内でもギリシャ問題などがあり、世界経済はふらついています。これは、リーマンショックとは全く別個の経済危機なのでしょうか、それとも何らかの関連があるのでしょうか。私は世界経済の危機、資本主義の危機は続いているように思います。

バブル崩壊後、信用の収縮による景気後退に見舞われた日本は諸外国によって散々ヘリコプター・マネーでもなんでもいいから景気を刺激しろと言われ続けました。やらないから失われた10年だか20年になったのだと。ところが、同じような信用収縮に見舞われた最近のG20諸国も、ギリシャ危機にビビッたのか、ヘリコプター・マネーとは逆の財政赤字削減の方向に一斉に舵を切ったようです。結局バブル後の日本と同じことをやろうとしているのではありませんか。全ての人を満足させる魔法のような解決策なんて存在しないってことでしょう。やることが一緒なら、結果だって似たようなもんになるんじゃじゃないですか。

先進国では高齢化が進み、人口増加が頭打ちになる傾向が顕著に見られます。今までのような成長を前提とした経済運営では乗り切れない時代になるのではないでしょうか。私は、欧州にもアメリカにも(中国にも)失われた10年だか20年だかが訪れるような気がしますがいかがでしょうか。

 

2010年9月   

バーバラ・オークレイ 酒井武志訳『悪の遺伝子』イースト・プレス 

悪の遺伝子

悪の遺伝子

価格:1,890円(税込、送料別)

オークレイさんの御主人はこんなことをおっしゃっていたそうです。「トップに立つには二つの道がある。一つは最良の人物になること。もう一つは最低の人物になることだ」オークレイさんが興味を持ったのは最低の人物の方。ということで、本書は最低の人物、邪悪な成功者に焦点を当てています。

邪悪な成功者とは、

「1      他人に感情移入することなく、操るべき「物体と」考える」

「2      世間一般の道徳をかえりみない。嘘、ごまかし、その他の策略も容認される行動と考える」

「3      明らかな精神病的症状はない。おそらく精神的に健全な人部の典型例とはちがうだろうが、客観的な現実認識の能力は通常の範囲内にある」

「4      イデオロギーには深入りしない。理想主義にたった融通の利かない戦いよりも、実現可能な目的を達成するための戦術に関心をいだく」

といった特徴を有するそうです。なるほどねえ。大物ではヒットラーとかスターリン、毛沢東なんてのから昨今の政治家、何か勘違いしている芸能文化人、そこらのいけすかない成り上がり者、あなたの会社の社長なんてのに共通する特徴ではありませんか。

で、問題はこのような人格がどのように形作られるか、です。遺伝なのか環境要因なのか。「問題をはらんだ口論の絶えない結婚生活は、そのような家庭で育つ子供の問題行動の原因となる」と考えられてきましたが、最近の研究では「問題行動の原因となるのは家庭の不和ではなく、問題をかかえた両親から受け継いだ遺伝子である」と考えられるようになったのだそうです。ただし、同じ遺伝子の型を持っていてもそのような性質が顕在化する場合もあればそうでない場合もあるようです。幸いにしてそのメカニズムは完全には解明されていないようです。現状では「遺伝子はリスクであっても運命ではなく、それ一つで人格すべてを予言する遺伝子なない」そうです。そうじゃなきゃ新たな優生学になっちゃいますもんね。

ただし、脳科学の分野は『マインドウォーズ――操作される脳で御紹介したとおり日進月歩。何年かしたら遺伝子検査で犯罪的傾向のある人間は隔離、なんてことにならないとも限りません。そう言えばそんな映画があったな。怖い。

DNAを調べれば人格が分かっちゃうってのも嫌ですが、「邪悪な成功者」によって人生をかき乱されるのも嫌ですよね。私もかつての職場で自己を正当化するために平気でうそをつき、何でも人のせいにし、自分の思い込みだけであちこちに告げ口する部下に唖然とさせられた経験があります。あなたの周りにもいる「邪悪な成功者」を見抜き、邪悪な企みに振り回されないようにするためにも御一読を。    

 

Sandra Ingerman & Hank Wesselman Awakening to the Spirit World” Sounds True  

Awakening to the Spirit World: The Shamanic Path of Direct Revelation[洋書]

Awakening to the Spirit World: The Shamanic Path of Direct Revelation[洋書]

価格:2,520円(税込、送料別)

あるブログ(ヤスの備忘録 歴史と予言のあいだ)にアメリカでベストセラーになっていると書かれていたのでアマゾンで取り寄せて読んでみました。まだ日本語訳は出ていないようです。

本書の副題が“The Shamanic Path of Direct Revelation”となっているように、数あるスピリチュアル世界の中から本書はシャーマニズムを取り上げ、スピリチュアルな旅(瞑想とか体外離脱とか何とかですね)をするためのテクニックを紹介しています。ただし、シャーマンという言葉そのものはツングース語起源の言葉で、世界中に「シャーマン」と呼ばれる人たちがいるわけではありませんし、またシャーマニズムという言葉にしても、学術的に明確な定義があるわけでもないようです。従って、本書でも「これこそがシャーマニズムだ」と大上段に振りかぶった議論がされているわけではなく、2名の主著者と4名の寄稿者が経験した様々なシャーマニズムの世界を紹介するという形をとっています。

主著者のインゲルマンさんはシャーマニズムに関するワークショップを世界各地で開催しているシャーマニズムの伝道師です。もう一人の主著者ウェッセルマンさんはフィールドワークを得意とする人類学者ですが、世界各地で不思議な体験を繰り返すことによりスピリチュアルな世界へも足を踏み入れていった方です。以上の2名に加え、その他4名のスピリチュアル関係の学者/実践家の協力のもと本書は書かれています。

世界各地に伝わるシャーマニズムには多くの共通点が見出せるそうです。例えば人間のみならず動物や植物、果ては岩や山、火、水、風などの自然の存在にも魂(spirit)があると考えることなどは世界共通のイメージだそうです。ま、こう言われてアメリカ人ならOh! Fantastic!なんて言うのかもしれませんが、日本人にとっては「だから何?」ですよね。思いっきり普通。スピリチュアルな世界に目覚めるって言うんだったら、もうちょっとエキゾチックな主張をしてくれないとねえ。

逆に考えれば、日本人が当たり前だと思っていることは実は人類が普遍的に(DNAに組み込まれた本能として)持っている考え方だってことなんですね。一神教徒はスピリチュアルな考え方を否定してきましたが、自分たちの思想の破綻に気がついて誤りを正そうとしている、ってとこなんじゃないですかね。また、最近では量子力学とシャーマニズムの主張間の類似性なども指摘されているそうです。お互い別々の方向から真理を探っていったら意外な所でバッタリ出くわした、ってとこでしょうか。

本書にはスピリチュアル世界への覚醒を促す音楽CDが付録で付いています。いわゆる単調なパーカッション・サウンドですが、このパーカッション・サウンドを瞑想に用いるなんてのも世界共通だそうです。仏教でも木魚とか使うでしょ。ま、生物としての人類の成り立ちは世界共通なわけですから、使える精神安定剤も一緒だってことですか。人類はみな兄弟!ってか。

本書はアメリカ人によってアメリカ人に向けて書かれているようですので、どうもアメリカ(あるいは欧米)中心主義が鼻につくところがあります。「世界中で精神的に最も覚醒しているのは北米と西ヨーロッパであるが、西洋文明の影響力の大きさから考えて、この覚醒は世界中に広がっていくだろう」みたいなことが書いてありました。ウソだろ。

とは言え、徒手空拳でスピリチュアル世界に足を踏み入れるのは不安なものがあります。本書では無理やり型にはめるようなことはせず、自分に合った方法でスピリチュアル世界に触れることを勧めていますし、また、さまざまなアプローチを紹介しています。スピリチュアルな世界に触れるための最初の一歩としてご一読を。CD付きですのでお買得。  

 

竹内 洋学問の下流化』中央公論社

 
学問の下流化

学問の下流化

価格:1,995円(税込、送料別)

社会学を専門とする京都大学名誉教授の竹内さんがここ数年来発表してきたエッセイや書評、評論をまとめたものです。学者にとっては物を書くことが商売ですが、中には論文を書くことは上手でもエッセイとか専門外のことを書くとなるとからっきしダメな専門バカみたいな方もおられます。その点竹内さんは学生時代から映画雑誌、小説、評論と何でも読む雑読系だったようです。さらに、学者先生にしては珍しくサラリーマンも経験されているそうです。だもんで文章は読みやすく書かれています。

今は昔の英国ジェントルマンは有閑階級ではありましたが、教養人、読書人でもありました。このような人々を竹内さんは「雑誌系読書人」などと命名しています。竹内さんはジェントルマンの生き方にある種の理想像を見ているようです。うーん、私も理想とする生き方ではありますねえ。竹内さん本人は「雑誌系未満読書人」と謙遜されていますが、学者としても一流だったわけですから、雑誌系を横軸とすると縦軸である専門誌なども極められた方であることは間違いないでしょう。そんな竹内さんが最近の世相をつらつらと鑑みて書かれたエッセイをまとめたものです。

英国流の教養主義を体現したのがジェントルマンであるとすると、日本流の教養主義を体現したのが旧制高校の出身者たちということになるのでしょう。いまどきの学生は昔みたいに哲学書だか詩集だかを小脇にはさんだりしなくなりました。いまどき、というよりは戦後でしょうか。その裏には、教養主義者たちが勇ましい国粋主義者・軍国主義者との戦いに無残にも敗れ、その国粋主義者・軍国主義者たちすらアメリカとの戦いにおいてあっけなく破れ去ってしまったという記憶があるのではないでしょうか。いまさら教養主義でもないだろうって。

メディアに登場する学問は軽薄化する一方でアカデミズムはオタク化する一方。とっくに捨てられてしまったかに思える教養主義ですが、今まさに求められているのはオタク的に細分化した学問ではなく、本当に人間の役に立つ学問、人生を明るくしてくれる学問、結果として人類に幸福をもたらす学問なのではないでしょうか。そんなことを考え察せられる一冊でした。

 

ピーター・L・バーンスタイン 山口勝業訳『アルファを求める男たち』東洋経済新報社

アルファを求める男たち

アルファを求める男たち

価格:2,940円(税込、送料別)

 

私も読んだことのある「リスク―神々への反逆」の著者バーンスタインさんの最新著作にして遺作です。

本書は1993年に出版された「証券投資の思想革命」の続編として企画されましたが、翻訳者の山口さんが大きくかかわっていたそうです。そこら辺は「訳者はしがき」に書かれています。

「証券投資の思想革命」では1952年から1973年までに展開されたファイナンス理論(本書ではキャピタル・アイデアと書かれています)を中心に取り扱っています。1952年にはハリー・マーコヴィッツがポートフォリオ選択理論を発表し、1973年にはフィッシャー・ブラックとマイロン・ショールズがオプションの価格理論を、ロバート・マートンはCAPMの理論を発表しています。で、これらに共通するのがリスク指標である「ベータ」を取り扱っていたことでした。

あまり広くは認識されていませんが、上記のようなファイナンス理論を利用したからと言って儲かるわけではありません。例えば、ブラック・フィッシャー・モデルを使ってオプションの動的ヘッジを行うと、理論的には収益(より正確には期待超過収益でしょうか)はチャラになります(所与の条件は不変だとか条件が付きますが)。

なぜかというと、これらの理論はいわゆる新古典派の経済学を基にしており、登場するのは数学と大変良くなじむ合理的経済人ばかり。皆大変な情報通で最適な行動しか取りませんので、抜け駆けのチャンスなんかないからです。

しかしながら、昨今様々な形で市場の失敗が明らかになり、ファンド・マネジャーとかトレーダーとかの金融の専門家なんぞも意外と大したことなくて合理的な行動なんか取らないことがばれてしまいました。そこで、昨今の経済学者は投資家とつるんで「アルファ」を求めるようになりました。「アルファ」とはベンチマークを超過する「超過収益率」の事です。完全市場仮説のもとでは「アルファ」はないはずですが、市場が不完全であれば「アルファ」を求める事は可能になります。

「皆が同じように考えたら競馬が成り立たないだろう」というようなことをヘミングウェイが言っていたと思います。競馬ファンは常に「アルファ」を求めているわけですが、継続的に「アルファ」が得られるわけではありません。いくら勝ち馬に賭けた所でオッズが低くては、リターンも限られてしまいます。実は、競馬とか賭けごとで本当に儲けているのは胴元だけ(悪いことやってるやつも儲かるけどね)。そう言えば、宝くじ協会が仕分けされてたな。胴元の得ていた「アルファ」もちっちゃくなっちゃったのかな。  

本書はこの「アルファ」を主題に展開されています。

私が大学で勉強していたころは経済学者なんてのは典型的な象牙の塔に住む人種で、理論はお得意でしたが実務にはとんと疎い方たちばかりだと思っていましたが、今では経済学者とディーリングルームでスクリーンとにらめっこしているディーラーとの垣根は限りなく低くなっているそうです。学問の下流化か?

 

2010年8月   

神野 直彦「分かち合い」の経済学』岩波新書

「分かち合い」の経済学

「分かち合い」の経済学

価格:756円(税込、送料別)

 

神野さんは民主党や社民党のブレーンとされる経済学者です。民主党は参議院選挙で敗れ、社民党は政権与党から離脱してしまいましたが、今後しばらくは民主党を主軸とする政権が続くものと思います。民主党がどのような経済政策を採るか占う上でも神野さんの著作を読む価値はありそうです。

本書の冒頭で神野さんはスウェーデン語の「オムソーリ(omsorg)」という言葉を紹介しています。「「オムソーリ」とは「社会サービス」を意味するけれども、その原義は「悲しみの分かち合い」である。「オムソーリ」は「悲しみを分かち合い」、「優しさを与え合い」ながら生きている、スウェーデン社会の秘密を解き明かす言葉だといってもいいすぎではない」としています。

人の幸せを奪っても自分が幸せになれるとは限りません。むしろ恨みを買うだけ幸せの芽を摘んじゃってるんじゃないですか。そうではなくて幸せをシェアする。世界中の人がお金持ちになることはできません。なぜなら、お金持ってのは貧乏人がいて初めて成り立つ概念だからです。でも、人類全員が幸せになることは可能です。過激な競争を勝ち抜いた勝者だけが幸せを手中に収める事が出来る社会ではなく、皆が幸せになれる社会。良いんじゃないでしょうか。

神野さんは予言しています。「自然資源多消費型の産業構造の限界は既に経験済みである。スタグフレーションが生じてしまう。まして、地球の人口の三分の一にも及ぶ中国とインドが、自然資源多消費型産業構造を走らせれば、なおさらである」と。簡単に言えば、このままだと地球規模の不況(もしくは社会的クラッシュ)が来るぞってことです。

神野さんが提唱するのは競争原理から脱却し協力原理をベースとした社会に移行すること。モデルは北欧型社会(本書で多く採り上げられているのはスウェーデン)です。私の提唱する「共創社会にも通じる概念ではありませんか。私の言うこともまんざらではないわけですね。ワッハッハ。

やはり成長神話をベースにした経済運営、米国型新自由主義や市場原理主義からの決別が求められているのだと思います。失われた10年だか20年を他の先進国より先に経験した日本だからこそ分かる英知を世界に示そうではありませんか。

 

天木 直人さらば日米同盟!』講談社

さらば日米同盟!

さらば日米同盟!

価格:1,575円(税込、送料別)

 

普天間基地をめぐる迷走劇をきっかけとして鳩山内閣が崩壊しました。鳩山内閣の追い落としがアメリカの陰謀であったかどうかはともかく、この迷走劇を通して日米同盟、日米安保体制などというものがまやかしであることが図らずも明らかになってしまいました。なぜ日本にかくもたくさんの米軍基地があるのか。理由は日本がアメリカの植民地だから。他に何か理由ある?

鳩山内閣を継いだ菅内閣は一応対米従属に舵を切りました。しかし、いくら鈍感な日本人でも日本国内にかくも多くの米軍施設がわがもの顔に居座り、やりたい放題やっている現状に違和感を覚えたのではないでしょうか。いったん開けてしまったパンドラの箱は決して元には戻らないのです。今後の日米関係は今までと同じ、という訳にはいかないと思います。

元外務省の高官である天木さんがポスト安保条約の安全保障政策を提言しています。天木さんが提唱するのは憲法九条を堅持し、自衛隊は専守防衛に専念させ、東アジアにおいて集団安全保障体制を築くことです。とは言え、集団安全保障体制の構築までには幾多の困難がありそうです。なにしろアメリカは日本がまともな独立国になっちゃうことを座視しているとは思えません。だって日本はアメリカにとって都合のよい植民地なのですから。日本の政治家がちょっとでもアメリカ離れを示唆することを言おうものなら、外務省や親米政治家、マスコミに御用学者まで総動員していちゃもん付けてくるもんね。それにアジアには世界の覇権国になろうとしている中国もいます。前門の虎、後門の狼。私はかわいいウサギちゃん!

のび太・日本はジャイアン・アメリカをうまく説得できるでしょうか。何たって、ジャイアンのモットーは「俺の物は俺の物、お前の物も俺の物」ですからねえ。それにジャイアン・中国もいます。ドラえもんのいないのび太クンは二人のジャイアンのバランスを取りながら事態をコントロールできるのでしょうか。しかし、そうしない限りのび太・日本にはチャンスはありません。そのためには決して偏狭な愛国主義ではない日本人としてのアイデンティティーを確立しなくてはなりません。そのために必要なのは教育。私も日本人の一人としてできる限りのことをしようと思います。

 

副島 隆彦、佐藤 優小沢革命政権で日本を救え』日本文芸社

小沢革命政権で日本を救え

小沢革命政権で日本を救え

価格:1,680円(税込、送料別)

 

本書で副島さんと佐藤さんは鳩山政権崩壊は霞が関官僚によるクーデターだと喝破しています。そしてその手先として暗躍、テレビ・大手新聞で反民主党キャンペーンを繰り広げて国民を洗脳したのがマスコミ。その黒幕は宗主国アメリカ。おー、いわゆる陰謀論ですね。でも、案外本当なんじゃないですかね。

官僚は

「官僚は国民を無知もうまいな有象無象とみなしている」

「有象無象の国民から選ばれた国会議員は、無知蒙昧のエキスのようなもので、こんな連中の言うことをまともに聞く必要はない」と思っているのだそうです。そうと思えばあの取り付く島もない役人の受け答えなんぞも納得がいきますよね。

官僚は主権者である国民全体への奉仕者であるべきであるはずですが、ここで規定されている「国民全体」というのはあくまでも抽象的概念。あなたや私ではありません。

本書は題名からも明らかな通り政治家小沢一郎を高く評価しています。それだけでなく、鳩山由紀夫前首相も日本で初めて偏微分が分かる政治家であったと高く評価しています。偏微分というのは色々な変数が含まれる数式を全体として理解するのは難しいのでその中の変数の一つだけをちょこっと動かしてみるとどうなるかを調べる方法です。これを政治にも利用していると。さらに、鳩山前首相はOR(オペレーションズ・リサーチ)でスタンフォード大学の博士号を取得しています。ORというのは戦争で発達した理論ですが、最大の特徴は複雑すぎて簡単に数式化できないような問題においても何とかして最適解を見つけ出そう(あるいは、少しでも最適解に近づこう)とする点にあります。戦時下、最適解とは何か、どうやって算出するかといった神学論争を長々としていても始まりません。とにかく敵の攻撃に対して何らかの手を打たなくてはならないのです。実にアメリカ的、プラグマティックな学問であることが分かります。鳩山さんは極めて頭脳明晰な方ですので、アメリカ人の考え方何ぞ手に取るように分かる、という訳です。

副島さんも佐藤さんもこの二人がまだまだ活躍することを期待しているようです。日本のためにもぜひ小沢・鳩山両氏の優れた頭脳を生かしてほしいものです。

本書が真実を描いているのか単なるトンデモ本であるのかの判断はご自身で判断していただきたいと思います。重要なのは自分の頭で考え、自分で判断すること。思考停止していると、どんどんどこぞの頭の良い悪人に取り込まれてしまいますよ。刺激的な一冊でした。

 

 

マイケル・サンデル 鬼沢忍訳『これからの「正義」の話をしよう』早川書房

これからの「正義」の話をしよう

これからの「正義」の話をしよう

価格:2,415円(税込、送料別)

 

2010年の4月からNHK教育チャンネルでハーバード大学行政学部教授のサンデルさんが実際に大学で行った「Justice」の講義が放送されていましたので、ご覧になった方もおられるのではないでしょうか。私も毎週見ていました。ただ、日曜の夕方6時からですからねえ、いささか酔眼になっていたことは否定できません。で、その講座をもとまとめたのが本書です。早速買って読んでみました。

いま日本人が悩んでいる「前の世代が犯した過ちについて、私たちに償いの義務はあるのだろうか」などという問題は優れて哲学の問題なのだそうです。ただし、そこにただ一つの正解があるわけではありません。しかし、私たちはこのような問いに対して何らかの決断を下さなくてはなりません。

サンデルさんは様々な問題を提起、過去の哲学者たちがどのように考えていたかを紹介、そののち現代に生きる我々がどのように考えていくべきかを検討します。ただし、この問題はこう考えるべきだ、これが正解だ、などという議論はしていません。ただし、サンデルさんは倫理、道徳、哲学なんぞを論じる学者ですから、何でもかんでも功利主義的な考え方で片をつけようとする米国的なやり方に賛成しているわけではないようです。

冒頭で挙げられているのはハリケーン・チャーリーでメタメタにやられたフロリダ。このとき、街のあちこちでは便乗値上げのラッシュ。家の屋根から2本の木を取り除くだけで23,000ドル。普通は250ドルの家庭用発電機は2,000ドル。不満の声が上がるのも当然でしょう。阪神淡路大震災ではこんな話はあまり聞かなかったな。民度の差か?

ですが、このとき世の経済学者たちは、便乗値上げと言うが価格は世の需要と供給によって決まるもので需要が集中した商品の価格が上がることには何の問題もないし、そのような価格水準を目指して全国から供給が集まるのでフロリダの復興が早まるのだ、アメリカは自由の国だ!と主張していたそうです。確かに、そうかもな、とは思いますが、何かおかしくはないですか?

しかし、何かおかしい、という素朴な疑問を持っているだけではあなたの意見何ぞブルドーザーに押しつぶされてしまいます。おかしい、と主張するのであれば、それはなぜなのか、どのようにその主張は正当化されうるかを論理的に明らかにしなくてはなりません。そのような議論をどのように進めたらよいのか、そして先哲たちはどのように考えてきたのかを説き起こしてくれるのがサンデルさんの講義です。本書の目的は、「読者にこう勧めることである。正義に関する自分自身の見解を批判的に検討してはどうだろう―――そして、じぶんが何を考え、またなぜそう考えるのかを見極めてはどうだろうと」

考えて考えて考え抜くこと。軍事力も何もない日本が、そして日本人が生き抜くには考える力、考える事が出来る力を最大限に発揮するしかありません。ぜひご一読を。

 

2010年7月 

イルッカ・タイパレ編著 山田真知子訳『フィンランドのソーシャル・イノベーション』公人の友社

フィンランドは人口530万人の小国です(面積は33.8万㎢もありますが国土の1/4が北極圏です)が、世界でもトップクラスの一人当たりGDPを誇り、教育水準も世界でトップクラス。さらに、トランスパレンシー・インターナショナルが発表する政治の清潔度も常に世界のトップクラス。北欧諸国は一般的に政治の清潔度が高いとされていますが、寒いからって汚職がなくなるわけではありません。やはり、それなりの体制を整えているわけです。ここら辺については本書評においてもあなた自身の社会 スウェーデンの中学教科書』で取り上げました。

本書はそのようなフィンランドを作り上げるために採用されたソーシャル・イノベーションのうち113の施策についてそれぞれのイノベーションの専門家が解説しています。

フィンランドで成功したソーシャル・イノベーションとは言え、一つ一つを見ていくと驚くほど斬新だとか革新的なイノベーションなどというものは出てきません。恐らく日本でも類似、あるいは同じ目的の施策が実施されているのではないでしょうか。

フィンランドのすごいところは、それらが理念通りに実施されているところ。日本だって理念は立派なんです。郵政民営化だって何だって。問題は理念と実際が違っちゃっていること。そして、多少違っていようが何だろうが一度始まったものは既得権ですから二度と変わらない。

さらに、フィンランドでは政府や政治体制を国民が信頼しているし、政府もそれに応えている。それに対して、日本人は何か問題があるとお上の御出馬をお願いしちゃうくせして、政府なんて丸っきり信頼していない。

一つ感心したのは教育に関する理念。教育なんて日本でも当然やっているわけですが、その目的が違う。フィンランドで教育が重視されているのは、それが民主主義を成り立たせる礎になるから。国民は政府を信頼しているし、政府も国民を信頼している。こんな考え方、日本の文部省(最近は文部科学省か)を逆さにして振っても出てこないんじゃないですかね。

違ってますね。従って、フィンランドのイノベーションをそのまま日本に移植しても全てが解決するといったものではないでしょう。

さあ、どうしましょうか。

小林 朝夫大人のためのフィンランド式勉強法KKロングセラーズ

フィンランドつながりでもう一冊。

著者の小林さんは作曲家の小林亜星さん(寺内貫太郎一家の主人公のデブもやってましてけど)の息子さんで、長年進学塾で御三家(どこだか分かりますか?)志望の子供たちの指導に取り組み、「国語の神様」の異名を持つ方だそうです。どんな授業をしているのでか、本書ではその一端が披露されています。

上記『フィンランドのソーシャル・イノベーション』でも触れたとおり、フィンランドは国際学習到達度調査(略称PISA)で長年トップの実績を誇っています。さぞかし受験競争とか激しいんだろうと思うとさにあらず。塾なんか無いそうです。学校でしか勉強していない。じゃ、学校での勉強時間が長いのか、というとそうでもないのだそうです。小林さんによればフィンランドの年間平均授業時間数は小学校高学年で815時間だそうです。日本では評判の悪かった「ゆとり教育」時代でも875時間、ゆとり教育撤廃後は955時間にもなると予想されています。そしてプラス塾での勉強時間。PISAの成績が悪かったのは勉強時間のせいではなさそうではありませんか。教育関係者や国会議員のフィンランド詣では盛んですが、一体全体何を見てきているんでしょうか。

そもそもフィンランドでは教育は重要な人権であり、民主主義を実現するためには欠くことのできない条件であると考えられています。翻って日本では教育とはいまだに殖産興業の手段か兵隊育成機関だとしかとらえていない面々が居られるのではないでしょうか。だから折に触れてアナクロな愛国主義教育なんてものが亡霊のごとく蘇ってくる。そんなものがうまく機能しないのはソ連の崩壊を見ても明らかではないかと山岸先生も指摘しています。

子供だけでなく大人にも役に立つフィンランド式学習。さあ、脳の活性化に取り掛かりましょう。  

吉田 沙由里小さな国の大きな奇跡WAVE出版

フィンランド程ではありませんが、キューバも世界的には小さな国です。日本の本州の半分ほどの広さのキューバ島に、1100万人ほどの人口が暮らしています。

1902年にスペインからの独立を果たしますが、それは同時に米国の支配を意味していました。その後さらに有名な1959年のキューバ革命を経て米国の頸木から脱出しますが、その後も米国からの度重なる嫌がらせを受け、おまけに後ろ盾だったはずのソ連も崩壊、と苦難の歴史を辿ってきました。だもんで経済的には今でも貧乏。

米国からたったの145qしか離れていないところに存在する社会主義政権ですから、米国にとっては目の上のたんこぶ、というか、場所的には喉元に突き付けられた匕首、といったところでしょうか。米国は武力侵攻からカストロ暗殺、野球選手とかエリートをガンガン亡命させちゃう、なんてことまでしてカストロ政権を潰そうとしてきましたが、いずれも失敗。何しろフィデル・カストロっていわゆる政治的な腐敗なんかからは無縁で、それゆえ国民から絶大な支持を受けている。アメリカお得意のネガティブ・キャンペーンなんかも効かなかったみたいですね。キューバは人権を抑圧しているとして、米国の音頭の下国連でも毎年キューバに対する非難決議が採択されていましたが、2007年、「米国の対キューバ経済・通商・金融封鎖解除の必要性」決議が、加盟国192カ国のうち、賛成184カ国、反対4カ国、棄権1カ国、欠席3カ国という圧倒的大差で採択されちゃいました。世界中でネガティブ・キャンペーンだってことはばれちゃってたわけですね。

キューバも小国ではありますが、教育には力を入れているそうです。貧乏国ですが小学校から大学院まで基本的にタダ。だもんで高等教育を受けている人間は多い。学なんぞがあると政府に楯突く奴が増える、なんて狭い了見はなし。医者なんてのもお金をかけなくてもなれるので、たくさんいる。で、医者の輸出もしているそうです。と言っても、米国で開業させて多額の仕送りをさせる、なんてことではなくて貧しい国に医師を派遣する人道的国際貢献。最近では世界各国から医大に留学生を集め、これも基本的に無償で教育を施すなんてことまでしているそうです。入学条件は卒業後に貧しい地域で医療活動を行うこと。立派ですね。

本書には経済的には貧しくても幸せに暮らしている人々の生活が描かれています。米国の洗脳から逃れるためにもご一読を。

 

NHKスペシャル取材班インドの衝撃(続)』文藝春秋  

インドは旅行先として人気があります。なにしろ日本では考えられないような体験ができますからね。そこらへんで人が死んでたり。衝撃体験の結果、「インドを好きになるか嫌いになるか」で終わると言います。好きになった人は一生インドで暮らしたくなるし、嫌いになるとカレーまで嫌いになる、のかな。

ところがビジネスでインドと関わると、「かなりの高率でインドを「嫌い」になるようである」って本書には書かれています。私はインドに行ったことありませんが、仕事ではインド人(あるいはインド系)と何度も一緒になったことがあります。確かに彼らはアグレッシブでしたね。外資系の企業で母国出身でない人間が出世するには並々ならぬ苦労が伴います。当然人種差別だってあるし。そんな中でちゃんと出世しているのはほとんど中国系かインド系。日本人なんて日本法人の支配人レベル。国外で本社の経営陣に参加している日本人なんて日系企業以外ほとんど居ませんよ。そんなとこで出世する奴ってのはちゃんと一流の大学(大学院かも)を出ている上に頭の回転が速くて押しが強い。「どーせ勉強ばっかやってたんだろ」なんて強がりを言ってみますが、意外にも歴史、文学、音楽、スポーツなんかにも造詣が深かったりする。うーん、私が出世しなかったのも当然か。

本書で主に紹介されているのは、IT分野などで成功したインド企業ではなく、どちらかというと従来型の商品/サービスを提供する企業が如何にしてインドで成功したかが紹介されています。商品もさまざまならその取り組みもさまざま。ただひとつ共通しているのは、それらの企業がインドの貧困層とWin−Win関係を築くのに成功したこと。収奪型の植民地企業経営ではうまくいかないということですね。でも、本書に出てくるインド企業はいずれもアメリカ人もびっくりの超アグレッシブ。インド市場もいずれは飽和市場になると思うのですが、いつまでも同じことを続けていられるのでしょうか。一抹の不安があります。

21世紀に発展するのはBRICs諸国。ひとつエマージング諸国ファンドでも買ってみますか。アグレッシブなインド人の下で働くのは大変かもしれませんが、投資対象としては良いかもしれませんからね。

 

2010年6月2日

櫻井 よしこ民主党政権では日本が持たない』PHP

タカ派の論客として名高い櫻井さんが民主党政権に厳しい評価をつきつけました。本書は2009年中に出版される予定でしたが、諸般の事情から遅れ、2010年6月2日に私の手元に届きました。何と、鳩山首相が辞任を発表した当日でした。来る参議院選挙での投票行動にも影響を与えそうですので、番外編としてアップしてみました。まだ次期首相が決まっていませんので、ここでは鳩山首相と表記しておきます。

櫻井さんは鳩山首相が靖国参拝をしないと表明したことに対し、「国家のために、あるいは家族や故郷のために戦い、命を落とした人々の魂を、慰め鎮め、感謝の祈りをささげることを、他国に気兼ねして行わないと言明したわけだ。国に殉じた人々の犠牲を心から悼み感謝するという大事な価値観をここまで失ってしまえば、もはや日本は国家として存続できはしまい」と批判しています。私は国家のために戦った兵士たちを弔う施設は必要だと思いますし、他国にも同様な施設が多く設けられています。

ただ、過去の経験から言えば、国家というものは都合が良い時だけ国民を大事にするとか何とかいいますが、国民なんて鉄砲玉とかと同じ使えば減る消費財の一種ぐらいにしか思ってないんじゃないですか。そもそも亡くなった兵士の鎮魂施設なんて発想はナポレオン以来の国民皆兵、徴兵制度の下で生まれてきたものです。ここら辺は本書評でも高橋哲哉『靖国問題で取り上げました。タダで死んでもらう見返り、ですね。

櫻井さんの民主党批判は舌鋒鋭いものがありますが、同じ批判は実は歴代自民党政権に対しても当てはまります。櫻井さんが求める日本の未来図は日本もちゃんとした軍隊を持て、再軍備しろ、というものだと思います。ただしここのところはぼかし気味に書かれています。しかし、米国は決して日本が同盟国であるなどとは思っていません。単なる属国か植民地であるとしか認識していませんし、米国の政策は徹底して米国の国益を追求しています。日本が日本の国益を第一に考える政策を実行するなどということは米国の国益には合致しません。従ってそのような行動は米国に対する敵対行為でしかないとみなされます。まあ、だから鳩山さんは米国に嫌われたんでしょうね。

櫻井さんの経歴から見ても櫻井さんが親米的なスタンスであることは伺えます。しかし、米国はアジアで日本が覇権を握るようなことを容認するとは思えません。日本の再軍備は相当用意周到に行わないと中国ばかりか米国からも目の敵にされる恐れがあります。ここら辺の詰めは本書では触れられておらず、いささか観念的であるような気がします。

参議院選挙も間近ですし、衆参同時選挙にならないとも限りません。日本では若い人たちが選挙に行かないので、若い人向けの政策はムダ、政党は右から左まで老人向けの政策しか力を入れないのだと聞いたことがあります。世界が混乱している今こそ百年の計を実現する好機です。今の若い人たちが活躍できる時代を作るには今から種をまいておかなきゃ。よーく考えてから投票に行こうではありませんか。

 

2010年6月

野中 広務・辛 淑玉差別と日本人』角川書店

野中さんは自民党幹事長まで務められた著名な政治家、辛さんはテレビなどにも辛口コメンテーターとして登場する人材育成コンサルタントです。あまり接点がないようにも思えるお二人ですが、野中さんは部落出身、辛さんは在日朝鮮人という日本では差別を受ける出身であるという共通点があります。

そのお二人が日本における差別を語る、という硬派のテーマの対談ですが、お二人の差別に対する取り組み方にはかなり違いがあるようです。野中さんは部落出身であることを隠していたわけではないようですが、かといってそれを錦の御旗にして政治活動を行ってきたわけでもありません。それよりも野中さんはバリバリの自民党の政治家、それも今流行りの二世議員とかではなく地方議員からの叩き上げ。正に清濁を飲み込んじゃう現実主義の政治家。悪魔とまで罵倒した小沢一郎とも必要とあらば手を組んじゃうし石原慎太郎とだってご飯を食べに行っちゃう。麻生太郎は許さないみたいだけど。でもその割には自分のポリシーは曲げなかったようですね。「東京でも地元でも資金集めのパーティーを一度もしなかった」んだそうです。知らなかったわ。

それに対して辛さんは本名を名乗るだけでその出自が明らかになります。ただ、本名を名乗ることは自分だけでなく家族にも影響が及びます。最後の方で、テレビで目にする強気の辛さんとは違う悩みに悩んだ辛さんが語られています。

最近の若い方は日本では差別などないと無邪気に考えている方もいるようですが、差別は日本だけでなく人類に共通する感情でもあるようです。本書をどのように捉えるかは人さまざまだと思います。しかし、知らなかったとか、考えたこともなかった、というのではすまされない問題だと思います。

野中さんはこうも書いておられます。日本人は「つい七十年ほど前に「鬼畜米英」「八紘一宇」といったスローガンを掲げてまっしぐらに戦争に突入した民族である」って。やはり人間、知らないってのは罪ですよ。歴史を学ばなくてはいけませんね。

ぜひご一読を。

山岸 俊雄日本の「安心」はなぜ消えたのか』集英社

 

私がコンプライアンスに関する論文を書くに際して、大変多くの示唆を受けた山岸さんの著作です。

なぜ人間が利他的な行動をとるのか、という疑問は多くの社会科学者や生物学者にとって現在でも大きな謎なのだそうです。山岸さんは「情けは人のためならず」ということわざに大きなヒントがあるのではないかとしています。利他的な行動が報われるようなしくみが人間社会には組み込まれているのではないかと。ただし、そのような利他的な行動を支える社会的なしくみが壊れてしまうと、誰も利他的な行動を取らなくなってしまいます。そのような仕組みを担保するのが人々の間に存在する他人に対する一般的信頼感。

コンプライアンスの実現にも信頼社会を築くことが必要になります。詳細は拙稿。山岸さんは巧みな実験で日本人の心の内を解き明かしています。そして日本人の特質とされる「和の心」なんてものがまやかしであることを容赦なく暴いて行きます。

経済学の父であるアダム・スミスも道徳感情論)においてこんなことを言っています。

「人間社会の全成員は、相互の援助を必要としているし、同様に相互の侵害にさらされている。その必要な援助が、愛情から、感謝から、友情と尊敬から、相互の提供されるばあいは、その社会は繁栄し、そして幸福である。」

「しかし、必要な援助がそのように寛容で利害関心のない諸動機から提供されないにしても、その社会は、幸福さと快適さは劣るけれども、必然的に解体することはないだろう。社会は、さまざまな人びとのあいだで、さまざまな商人のあいだでのように、それの効用についての感覚から、相互の愛情または愛着がなくても、存立しうる。」

「社会は、しかしながら、互いに害をあたえ侵害しようと、いつでも待ちかまえている人びとのあいだには、存立しえない。」

日本人の行動原理として山岸さんは「武士道」ではなく「商人道」を取るべきだとしています。最近武士道がもてはやされていますが、山岸さんは「武士道とは人間性に基づかない、いわば理性による倫理行動を追求するモラルの体系であり、そうしたモラルを強制することで社会を維持していくのは、たとえ不可能ではないにしても、極めて大きなコスト―――心理的なコストや経済的なコスト―――を必要とする」としています。商人道とは正に「情けは人のためならず」。倫理的に行動することが自分も利する。ゲームの理論のWin-Win理論では当事者双方ですが、近江商人道では売り手よし、買い手よし、世間よしという「三方よし」を理想としています。うーん、コンプライアンスの理想ですね。

そもそも武士道なんてのは為政者が統治のために必要な人間(武士)に求めたものです。だから江戸幕府は一般庶民にまで武士道なんて求めなかったでしょ。商人道は商業活動の知恵として生まれてきたもの。求める対象や分野が違います。

ひとつ気になるのは、山岸さんの研究ネットワークの関係でしょうが、実験対象が日本人とアメリカ人に限られていることでしょう。実験ではアメリカ人の方が社会に対する信頼度が高いとされていますが、今のアメリカ人をお手本にしろって言われてもねえ。山岸さん、ぜひ社会的な透明度が高いといわれている北欧でも同様の実験をしていただけないでしょうか。どんな結果が出るか楽しみですね。

心の専門家が分析した日本に対する処方箋。示唆に富む一冊。ぜひご一読を。  

荒井 修・いとう せいこう『江戸のセンス』集英社新書

著者の一人荒井さんは扇子職人で浅草の文扇堂のご主人。荒井さんの話があまりにも面白いのでいとうさんの発案で連続講義をしてもらいました。その講義をもとに本書は生まれたのだそうです。荒井さんが、扇子のデザインから江戸流の「洒落」を語りつくします。

ところで、荒井さんのお話の中に、職人の使う道具の話が出てきます。詳しく触れられているのは「さしがね」と「ぶんまわし」、いわゆる曲尺とコンパスのことだそうです。「さしがね」は、中国人がいくつか定規を持ってきて、どれが良いか聖徳太子に選ばせたときに選んだものだ、というお話があるのだそうです。「さしがね」を持った聖徳太子の絵まであるそうです。「さしがね」の利便性を一発で見抜いたってことでしょうか。でもですね、曲尺とかコンパスってそのまんまフリーメイソンの象徴ではありませんか。聖徳太子もフリーメイソン?なんか気になるなあ。

荒井さんの語るのは職人、江戸時代の町人の流れを汲む人々の世界です。間違っても表向きのお侍さんの世界ではありません。お侍も裏ではどうだか分りませんが。で、この町人の世界というのは明治以後急速に消えてしまった世界です。明治の世では町人には絶対なれなかった武士の世界が、市民にも手が届く軍人の世界になりました。日清・日露の両戦争をきっかけとして軍人ブームが沸き起こり、軍人的なもの、武士的なものがもてはやされ、洒落だ何だなんて軽佻浮薄なものはぶっ飛ばされてしまいました。何でもかんでもしゃくし定規のお固い世界。従わない奴は非国民だ!日本の伝統、なんて言っていますが、町人の世界だって農民の世界だって日本の伝統でしょう。忘れないでくださいね。

私は軟弱の徒ですので、武張ったものより江戸の洒落を追い求めたいと思います。センスを磨かなくては。

斎藤 孝由緒正しい日本の教養』メディア・ファクトリー 

私たちは現在日常的に国際的な競争社会に否応なく向き合わされています。国際的な競争社会という荒波を乗り越えていくためには自己のアイデンティティーを確立する必要があります。自己を確立しないと国際的な競争社会の荒波に呑み込まれてしまいますからね。アイデンティティーを確立するために斎藤さんが勧めるのが「教養」を深めること。

確かに外国人と話をしていると、「なぜ?」と聞かれることが多々あります。これは欧米人だけでなく、中国人やインド人と話をしてもよく聞かれることです。聞かれる対象が日本人とか日本文化に関する事柄だと返答に詰まることもよくあります。あいつら理屈っぽいからな。しかし、現在のような国際化した社会では「あんな理屈っぽい人たちとは付き合いたくありません」なんて泣き言は通用しません。なるほどこんな場合には「日本人としての教養」なんてものを身に付けていると答えやすいわけですね。

ただし、一般的に「なぜ?」と聞かれた場合に求められているのは単なる断片的な知識の受け売りではありません。なぜそうなっているのかの背景の理解、そしてあなた自身の意見が求められているのです。まさにアイデンティティーが求められているのです。もっともそのためには基礎となる約束事を知らないといけないのも事実です。何も知らないであれこれ言うのはただの生意気な知ったかぶり。また、ある程度の約束事を知っていないと楽しめない。でも単なるお勉強になっちゃうと元の黙阿弥。塩梅が難しいですねえ。

単なるお勉強としての教養ではなく、「人生を切り開くためのツール」、生きる力としての教養を身につけたいものです。

  

2010年5月 

ダン・ブラウン 越前敏弥訳『ロスト・シンボル  角川書店

ご存じダン・ブラウンさんの最新作。本書ではフリーメイソンの伝説が取り上げられています。

今回も主人公は宗教象徴学を専門とするハーヴァード大学教授のロバート・ラングトン。いい男で美女付きのお話。うらやましいな。そのラングトン教授がフリーメイソンの指輪をはめた恩師でもあり友人でもあるピーター・ソロモンの切断された右手首を見つけるところからフリーメイソンの謎解きの旅、“古の神秘”を求める旅が始まります。げ、ますい。私もフリーメイソンの指輪持ってるもんね。アクセサリーだけど。下手にフリーメイソンの指輪なんかしてると手首切られちゃうかしら。

いつものダン・ブラウン節が冴えわたる大変読みやすい小説に仕上がっています。フリーメイソンの蘊蓄もこれでもかというぐらい詰め込まれていますので、本書を読めばあなたもいっぱしのフリーメイソン通になれることは請け合い。

休日のお供にぜひご一読を。  

ニナ・バーリー 鳥見真生訳『神々の捏造』東京書籍  

イスラエルでイエス・キリストの弟ヤコブの骨箱が発見されセンセーションを巻き起こしました。事実であればイエス・キリストの実在を示す史上初の物的証拠となるからです。ところがイスラエル警察はこの骨箱が捏造品であることを突き止めました。こうして「世紀の詐欺事件」が明るみに出ることになったのです。大富豪、考古学者、イスラエルの国家保安機関、イスラエル警察など、骨箱にまつわる登場人物が複雑に絡み合った物語を展開して行きます。

こう書いてしまうとインディー・ジョーンズが出てくる小説のようですが、何と本書はノンフィクション、つまり本当にあったお話なのです。何でこんなことが起きるのか、と言うと、単なる物欲や金銭欲だけではなく、宗教や国際政治まで絡んだ権力争いが背景にあるからなのです。エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地ですから、それぞれの思惑が複雑に入り組んだ利害関係を醸し出しているのです。キリスト教だって一枚岩というわけではなく、例えば、イエス・キリストに兄弟が居たとすると聖母マリアの処女性にこだわるカトリックには具合が悪いなんてこともあるようです。だもんで本書の原題は“Unholy Business”です。聖なる宗教のあまり清くも正しくもない一面を垣間見ることができます。

皮肉なことに、政治の世界ではいがみ合っているユダヤ人、キリスト教徒、イスラム教徒ですが、古美術品とか歴史的遺物を取り扱うマーケットではお互いの文化慣習や伝統を尊重し合って取引をしているんだそうです。パレスチナの地なんて、そこらを掘れば何かしら出てくるんだそうです。そのまま正規ルートに、と思ってもいろいろうるさいし、第一カネにならない。戦争やってんですからね。ところが、パレスチナ側で違法に発掘したものでも、いったんイスラエル側の流通ルートに乗ってしまえばローンダリングが完成しちゃうんだそうです。逆方向とか、その他の迂回ルートなんかもきっと存在するんでしょうね。古美術品マーケットの世界ではパレスチナとユダヤだってお互いに持ちつ持たれつ。だもんで共通の利害は尊重しているんだそうです。

本書に登場するヤコブの骨箱が本物だとして大々的に発表されたのが2002年10月。そしてブッシュ大統領によるイラク侵攻が始まったのは2003年3月。政治の世界は究極の建前の世界ですから、融通無碍なやり方は通用しないのかもしれませんが、利害の衝突に実弾が飛び交うよりはましだと思うんですがいかがでしょうか。

佐藤 優日本国家の神髄』産経新聞社 

本書は産経新聞社から出版されている雑誌『正論』に連載された「日本哲学の考究“回帰と再生と”」をまとめたものです。

本書の副題が「禁書『国体の本義』を読み解く」となっているように戦後狂信的国家主義のバイブルとして戦後封印された『国体の本義』を読み直し、その精神を現代に蘇らせようというものです。『国体の本義』そのものは旧文部省によって昭和12年に刊行され全国の学校に配布されたパンフレットです。佐藤さんは精神論だけでは戦争に勝てないことに危機感を持った官僚たちが西洋的な科学技術思想と矛盾しない国体思想(国体とは日本国家を成り立たしめる根本原理のことだそうです。国民体育大会ではありません)を作らなくてはならないと考えた官僚が作った文書で、「『国体の本義』は精神論を説きながら実は科学精神が大事なんだと言っている」としています。

私も我慢して全文を読んでみました。大分端折っちゃったけど。いやあ、読みにくかった。

佐藤さんは「国体は発見するものだ」「国体を構築することはできない」と指摘しています。国体とは理論的に理解されるものではない、ということでしょうか。逆に「理性を基本とする思想は左翼思想である」としています。

佐藤さんは先ほども引用した通り国体思想も大事だけれども科学精神も大事だという立場のはずです。国体はただ単に直感的に理解されるのではなく、考えに考え抜いた後に人間の理性では理解しえないものがあると悟る、とならなくてはならないのではないでしょうか。であるとすれば、左翼と右翼を統合・止揚する思想が求められるはずです。しかし、私が『国体の本義』を読む限り、世の中には国体思想と理性主義がありますが、国体思想が当然のこととして優先します、国体思想を忘れるものは日本人ではありません、と書いてあるようにしか読めませんでした。

佐藤さんは「日本の政治エリートが、『国体の本義』の立場にきちんととどまっていれば、少なくとも負け戦に突入するようなことはなかった」とも書いています。しかし、現実には狭量な国粋主義者たちの極端な精神論が幅を利かせることになってしまいました。佐藤さんの言うような『国家の本義』の神髄が理解されず、アナクロなナショナリズムが吹き荒れる時代にならないことを祈るのみです。

井上 章一伊勢神宮』講談社

神社の中の神社、伊勢神宮の起源は記紀の時代にさかのぼります。日本書記に「倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が天照大御神をお祀りする場所を日本中巡幸してさがし、伊勢の五十鈴川が最もかなった場所として選定された」と書かれているそうです。この話自体は神話かもしれませんが、有名な式年遷宮(20年毎に神宮を建替える)を行うきまりはすでに七世紀には確立していたそうです。

式年遷宮によって仏教伝来以前の古の日本(“やまと”でしょうか)の姿を今に伝えるといわれる伊勢神宮ですが、式年遷宮そのものは何百年にもわたる中断をはさんでおり、必ずしも昔の姿そのままというわけではないようです。とは言え、千木や勝男木といった神社独特の建築様式を保っていることも事実です。千木とは屋根の両端に角を生やしたように立てられた交叉させた木のことで、勝男木は屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べたちょんまげのような木のことです。

千木については、伊勢神宮の内宮と外宮で形が違うことから、陰陽に従って女体と男体を示しており、勝男木は星座を写した形だなどという神秘的な解釈がなされていました。これに対し、千木や勝男木は古風な藁ぶき屋根の家屋には普通に見られる構造物で、その目的は屋根が風で飛ばされないように置かれた重石が原型だ、という合理的な解釈がなされるようになった、ということが縷々本書の冒頭で説明されています。このような“発見”は独立した形で複数の国学者たちによって見出されたようですが、その時期はなんと1710年代。どっぷりと江戸時代です。そのころすでに何でもかんでも神聖な神話(しかも後からこじつけた)を信じるのではなく、実証的に考えるべきだという気風が国学者たち(一人ではなく)の間にあったというのは注目すべきことではないでしょうか。

しかし、神明造を日本固有の美意識の表れとする考え方は根強いものがありました。というより、明治・大正・昭和という時代の流れの中でかえって強まって行ったこともあるのでしょう。神宮は「神ながらの材料で、神ながらの構造で、神ながらの形式で」建てられたものであり、「万世一系の天皇という国体であって、初めて企画し、実行しうる様式である」となんとも神がかった書き方が昭和期においてもなされていたそうです。アジア諸国に神宮造と似た作りの建物があるからと言って、どこぞの土人が造ったものと誇り高い日本民族が創造した無双の神宮造と一緒にするな、って訳ですね。やれやれ。

何でもかんでも日本は素晴らしい、と考えるのは何でもかんでも日本のやり方はだめだ、という卑屈な考え方と表裏一体をなしているように思えます。そうではなく、道理と論理に基づいて考えなくてはいけないのではないでしょうか。思考停止していると声がでかいだけの奴らに好いようにやられちゃいますよ。

建築を通していろいろなことを考えさせられる一冊でした。

 

2010年4月  

若泉 敬他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』文芸春秋 

1945年の日本の敗戦後、27年間の米国による占領を経て1972年沖縄は本土復帰しました。沖縄の本土復帰の交渉における密使を務めたのが本書の著者である当時37歳、気鋭の国際政治学者であった京都産業大学教授の若泉さんです。

昨今日米外交交渉における裏約束などが問題になっていますが、沖縄返還時にも有事の際には再持ち込みを認める日米の秘密合意議事録に両国首脳がサインしていました。さらに、当時問題になっていた日本からの繊維製品輸出についても、明らかにはされませんでしたが、ほとんどバーターで交渉が進められていたのでした。

交渉の詳細を知る若泉さんは、しかし、密約の存在を長く「回答を拒否するか、事実関係を全面的に否認してきた」。そうまでして守ってきた秘密を告白する気になったのはなぜなのでしょうか。本書冒頭の「謝辞」で、「それは、多分に運命のなせる業とはいえ、国家の外交の枢機に与ってしまった私が歴史に対して負わなければならない「結果責任」である」と書いています。ほとんど遺書と言ってよいのではないでしょうか。

若泉さんは本書出版の2年後の1997年に67歳で亡くなられました。病死とされていますが、自殺ではないかとの噂もあったようです。

それはさておき、本書を読んで強く感じたのは、外交とは交渉であるということです。交渉事には必ず相手がいます。当たり前だ、と思われるかもしれませんが、日本人はこの交渉や交渉につきものの駆け引きがあまり上手ではないと言われています。何しろ以心伝心の国ですからね。自分が正しければ、自分の論理さえ正しければ、と思ってしまいがちですが、交渉では相手も同じことを考えています。自分にとっての最優先事項と相手にとっての最優先事項が異なるのであれば、交渉の余地があることになります。何が譲れるのか、何が譲れないのかを冷静かつ迅速に判断しなくてはいけません。時には冷徹な切り捨ても必要とされるかもしれません。あなたにはその決断を下す自信と覚悟はありますか。自分の願望にだけ基づいた「正論」とか勇ましい「行け行けどんどん」の掛け声をかけるのは簡単ですが、声の大きいヤツに限って何にも考えてないんだよな、まったく。

米国では交渉のテクニックは大変重視されており、ビジネス・スクールでも交渉術が正式な授業科目として取り上げられており、私も論文で取り上げました。本書でも、一方の当事者であるキッシンジャーが各種のテクニックを臆面もなく駆使しているように思えるのに対して、著者の若泉さんはあまりにもナイーブに個人的勘と友情に頼りきっているような気がしますがいかがでしょうか。ただし、敗戦から25年しか経っていない当時、米国が圧倒的に有利なネゴシエーション・パワーを持っていたことを斟酌する必要もあるとは思います。なんたって宗主国様ですからね。

本書の題名『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』は、日清戦争当時の外務大臣であった陸奥宗光の回想録『蹇蹇録』から引用されたものだそうです。その局面においては誰もが選択した、あるいは選択せざるを得なかったベストだと信じるが、全ての責は私が負う、という覚悟が感じられます。何の痛痒も感じずに平然と密約なんか知らないもんねとうそぶいていた外務省官僚にも是非読んでいただきたい本書でした。

田中 宇日本が「対米従属」を脱する日』風雲舎

田中宇の国際ニュース解説を運営されているネットジャーナリストとして有名な田中さんの最新著作です。田中さんの情報収集の方法は一風変わっていて、インターネットを通じて主として英語情報を取り入れ、それを裏読みしていく、というものです。決して横のものを縦にしているのではなく、田中さんの頭の中で再構成していく、というものです。私も長らく田中さんのメールマガジンを拝読させていただいてきましたが、大変ブレが少ないという印象を持っています。

本書で田中さんが予想しているのは、

l        多極化する新世界秩序

l        ドルは崩壊する

l        イギリスも崩壊する

l        中国の台頭

l        日本は「対米従属」を脱する

と言ったところでしょうか。

こうして書くと、ブッシュ政権の単独覇権主義に散々振り回されてきた諸国民にとってはやっと正義の味方オバマが現れ、ようやく明るい日差しが差してきたようにも思えますが、田中さんはブッシュ政権自体が実は世界の多極化を推進してきたのであり、オバマはその路線をなぞっているだけだとしています。ドル崩壊などと聞くと、アメリカがそのような戦略を採ることはありえないような気もしますが、バックにいる金融資本はその方が儲かるのならアメリカという国を多くの国民ごとポイしちゃうのも厭わないようです。と言うより、彼らはそのような戦略を数百年にわたり実践してきたのです。

田中さんは中国のマスコミから出てくるニュースがプロパガンダであるのは当然だとしている一方で、欧米のマスコミにしても、長い情報操作の歴史を持ち、情報戦略のうまさでは中国(あるいは日本)などとは段違いに洗練されているとしています。つまり、書いてあることを正面から信用したってダメってことです。英語でintelligenceっていう単語は知性や知力を表すと同時に諜報も意味しているぐらいです。情報は賢く取り扱わなきゃ。インターネットで取ってきた情報を切り貼りしているだけじゃだめですよ、ちゃんと自分の頭で考えなきゃ。思考停止しているとむしられるだけですよ。

そもそも田中さんは現代の世界を牛耳る勢力を、金融資本をバックとする「多極主義派」(資本をあっちこっちに転がした方が儲かる)といわゆる産軍複合体やイスラエルをバックとする「英米中心主義派」(彼らが冷戦を演出したのはその方が儲かるから)に二分されているとしています。基本的にはこの二者のパワーバランスによって冷戦になったり今のような多極化が演出されたりするわけです。

ただ、この両者のバックにはユダヤ勢力がいることは田中さんも指摘しています。ここから先は、田中さんははっきりとは触れてはいませんが、この両者、きっと裏ではつるんでますよ、絶対。

上下、左右、前後から揺さぶって不安定を演出、儲けをかすめ取る。多極化すると損する勢力がいることは確かですが、そんなこと分かってりゃ対策の取りようもあるではないですか。中枢にいる方々は損しません。結局損するのは日本人とか中国人などのその他大勢。

その他大勢と一緒にポイされないためにも本書を一読、どうするのがベストかご自分の頭で考えてみてください。

宮台 真司日本の難点』幻冬舎新書 

「現代とは「社会の底が抜けた時代」である。相対主義の時代が終わり、すべての境界線があやふやで恣意的(デタラメ)な時代となっている。そのデタラメさを自覚したうえで、なぜ社会と現実へコミットメント(深い関わり)していかなければならないのか。本書は、最先端の人文知の成果を総動員して、生きていくのに必要な「評価の物差し」を指し示すべく「現状→背景→処方箋」の3段ステップで完全解説した「宮台版・日本の論点」である」と本書の背表紙に書かれています。こんなことが書かれていたらビビっちゃいますよね。でも、「本書はこれ以上あり得ないほどいう、噛み砕いて書かれています」「本書の全体を読みとおすと、叙事詩やギリシア悲劇を通読したような、あえて言えば文学的な印象を与えるはずです」と宮台さんはあとがきに書かれています。めちゃくちゃにぺダンチックな書き方をされている個所もありますが、とっても砕けた書き方の個所もあります。忍耐強くお読みください。

いくつか私でも分かる書き方をされた部分を引用してみましょう。「「ゆとり教育の失敗」は、「ゆとり教育」の取り違えと、それをいまだに修正できない硬直性、それをもたらす利権構造に由来します。こうした失敗をもたらした時代遅れの集権制を維持するための手段が、「愛国心問題」と「未履修問題」であることも、最後に付け加えておきましょう」ゆとり教育に問題があるのは確かですが、その問題がなぜ、どのようにして起こったかなどを深く考えることもなく、「勘違いオヤジ」と「自意識をこじらせた青年」からなる「馬鹿保守」が大騒ぎしてるってことでしょうか。分かりますよね。

また、現在の格差社会についても特徴的なスタンスを取っています。そもそも戦後日本では社会が「郊外化」(旧住民に対して新住民が増える動き)してきました。隣三軒両隣の関係が鉄筋コンクリートで遮られるようになってきたわけです。そこに持ってきて米国が日米構造協議によって大規模店舗規制法の改正、建築基準法の緩和、学校完全週休二日制実施、郵政民営化、裁判員制度導入、農産物輸入自由化、果ては文部省から学校への日本製OSトロン(TRON)の配布中止などを強制、米国流の制度が無批判にもたらされました。その結果として社会が「包摂性」を失うことになったのです。

宮台さんはレーガン政権やサッチャー政権のもと大々的に導入された新自由主義ですが、実は市場原理主義とは異なった概念であるとしています。確かに新自由主義は「小さな政府」を希求しているわけですが、それは家族や地域や宗教的結社の相互扶助をベースにした「大きな社会」で包摂する、という前提とセットになった概念であったとしています。ところが小泉構造改革によってもたらされたのは小さな政府と小さな社会。

宮台さんも指摘していますが、「神の見えざる手」という概念を提唱したアダム・スミスも損得勘定だけで尊敬されるような社会が存立するわけではないとしています。このことは私も論文で取り上げたことがあります。この社会の「包摂」に関して、宮台さんは「信頼」というキーワードにも言及されています。これも私の論文で取り上げたとおりです。あれま、私が言ってきたこともまんざら嘘でもないんだわ。

ただ、この信頼はどのようすれば醸成されるののでしょうか。宮台さんも最後の章で触れていますが、それまでの宮台節とはずいぶんと違った理想主義的な、悪く言えばメルヘンチックなことが書かれています。コンプライアンスの実現と同じで、理念では分かるのですが、現実問題としてはなかなか実現困難な問題なのです。私も考え続けていますがどうすれば実現できるのか、結論を得るには至っていません。ま、そんなもんが簡単に見つかりゃ苦労しないよな。

宮台さん、頭良いんだから、ひとつお願いしますよ。

ジョージ・フリードマン 櫻井祐子訳『100年予測』早川書房 

ジョージ・フリードマンは、「ホロコーストを生き延びた両親のもとにハンガリーで生まれ」、アメリカ移住。「コーネル大学で政治学博士号を取得した後」「1996年に情報機関「ストラスフォー」を立ち上げる。ストラスフォーは特に1999年のコソボ空爆、2001年の同時多発テロ事件とそれに続くアフガニスタン侵攻など、アメリカ外交の天気に的確な分析や予測、提言を通して指導力を発揮したことから、「影のCIA」の異名を取り、多国籍企業、ヘッジファンド、各国政府、軍機関などを顧客に抱え、各界に絶大な影響力を誇っている」のだそうです。ま、裏ではどんな人たちがつるんでいるのか想像はつきますよね。

フリードマンさんの結論を先に言ってしまうと「アメリカの支配はまだ始まったばかりであり、21世紀はアメリカの世紀になる」ということのようです。というか、そのような結論に至るためにアメリカはどのような認識を持って何をすれば良いのかを分析したのが本書、と言えるかもしれません。うーん、なんかイヤな気配がするなあ。何しろ、「アメリカは若く、粗野な国だ。すぐに感情的なり、物事を歴史的にとらえることができない」ってフリードマンさんも書いているぐらいですから。ジャイアンが暴れると、本人が覚えているかどうかには関わりなく、周りは常に迷惑を被っちゃうんです。でも、伝統を誇る我が国でも「すぐに感情的なり、物事を歴史的にとらえることができない」ってとこは似たようなもんじゃないですかね。

フリードマンさんの予測は地政学を基本としています。地政学とは現実を所与として合理的な行動主体がどのように行動するかを分析する手法です。ゲームの理論の応用ですね。フリードマンさんはチェスを例えにしています。チェスで最初に動かせる駒の動き方は20通りあるそうですが、実際に指される手はそれよりずっと少ないそうです。なぜならば、チェスの長い歴史において定石とされる手以外は悪手であることが知られているからです。チェスの素人でない限り、つまり合理的行動主体であれば、指す手は限られてくるのです。同じことが国際政治とか外交の場面でも期待されます。従ってある程度の予測は可能になるのです。

地政学では現実の状況を所与としていますので、一国の指導者がいくら尊敬されていようが天才であろうが、実現可能なことは限られているということになります。つまり、カストロとかカダフィとか金正日がいきなり世界の指導者になるなんてことはありえない、ということです。ま、ヒトラーはそれに近いことをやったわけですが。

フリードマンさんの分析で興味深い点の一つは、世界的傾向として少子化、人口減少が見込まれることから、人口というファクターに大いに注目しているところでしょう。私も以前「コンプライアンスとリーダーシップという論文において人口構成の変化とコンプライアンスの関連性について論じたことがあります。私の目のつけどころもまんざらではなかった、ということでしょうか。

本書は、21世紀はアメリカの世紀だって結論から始まっていますので、全てがアメリカに都合良く行くように書かれています。アメリカはジャイアンですから、自分を脅かすような国の存在を許しません。現在もアメリカは世界各地の紛争にちょっかいを出していますが、これはすべて「何かを達成することではなく、阻止することにあった。アメリカは強国が出現しそうな地域の安定を乱そうとした」とフリードマンさんは書いています。地域の民主化とか民族自決とか言っていますが、そんな美辞麗句は単なる宣伝。究極の目的は相手地域を混乱させ、アメリカに盾突かないようにすること。日本の占領政策も究極的には日本を二度とアメリカに盾突かないようにすることが目的だったわけです。だもんで右翼にも左翼にもお金をばらまいちゃう。そりゃ混乱するわな。

ということですので、本書を読む際には日本人として何ができるか、何をしたらよいのか、と問い直しながら読めば、また別の結論が見えてくるのではないでしょうか。さあ皆さんも地政学を学んで考えてみましょう。

 

2010年3月

中野 京子怖い絵怖い絵2怖い絵3 朝日出版社

取り上げられているのは古今の西洋絵画。一見すると何の怖さもない作品ですが、その裏に隠された物語は私たちの心に恐怖を呼び覚まします。中野さんは「特に伝えたかったのは、これまで恐怖と全く無縁と思われていた作品が、思いもよらない怖さをしのばせているという驚きと知的興奮である」と書いています。

本書冒頭で取り上げられているのはドガ。踊り子を多く描いたことで有名ですが、彼の描く踊り子たちは人格を持った一人の個人ではなく、踊り子A,踊り子Bといった個性のない存在として描かれています。そこには裕福な銀行家の家庭に生まれたドガとオペラ座という娼館に所属していてほとんど娼婦と同じとみなされていた踊り子の社会的地位の隔絶が背景としてあったのです。そんな目で見るとドガの絵からはぞっとするほど冷たい視線が感じられます。もっとも、画家の地位なんてのがものすごく低かった時代もさほど昔のことではなかったようですがね。

とは言え、ひたすら恐怖を煽る物語ばかりではなく、その裏に隠された物語を知ると「なかなかやるじゃないか!」と思わせるその時代では珍しかった女流画家のアルテミア・ジェンティレスキのエピソードなども挟まっています。

私の書評でも『西洋絵画の主題物語 I聖書編』『西洋絵画の主題物語 II神話編』などでちょっと違った絵画の見方をお伝えしてきました。ネタばらしになるのでここではこれ以上内容については触れないように致します。「あー、きれいだな」と絵画を鑑賞するのも一つの見方ですが、書かれた主題とか時代、あるいはその絵画にまつわるエピソードにも思いをはせながら絵画を鑑賞するのもまた違った趣があると思います。ぜひご一読を。

木村 泰司巨匠たちの迷宮』集英社

本書で取り上げられている画家は17世紀、美術史ではバロックと呼ばれる時代に活躍した「オールド・マスターズ」たちです。取り上げられているのはカラヴァッジオ、ルーベンス、ベラスケス、プッサン、クロード・ロラン、レンブラント、フェルメール、ヴァトーと、いずれも作品を一度は目にしたことがあり、名前も一度は耳にしたことがある巨匠ばかりです。あまり巨匠すぎて本物は美術館以外ではお目にかかれない画家ばっかりであるとも言えるかもしれませんね。木村さんは巨匠たちの人生を振り返ることによってなぜ巨匠たちが取り上げられている作品を描くに至ったかをあぶりだして行くという趣向です。

冒頭で取り上げられているのはカラヴァッジオ。現在ではバロックを代表する画家として有名ですが、1610年に38歳で亡くなった後、実に20世紀の半ばまであまり芸術的ではない絵を描いた二流画家と認識されていたそうです。生きていた時も、後半生でこそ一枚描けば2年は暮らせるという有名画家になったそうですが、38歳で死んでますからねえ、良い暮らしができたのはほんの数年でしょう。有名になる前は極貧生活。春をひさいで糊口をしのいでいたとも言われているそうです。

当時、画家とか音楽家なんてのは職人さんですからね。社会的地位だって低かったわけです。最近じゃ芸術を志す輩は大体において裕福な家庭の子女が多いようですけどね。お絵描きだピアノだって習い事にはお金がかかりますからねえ。それに、とりあえず食えるようになるまでは親に面倒見てもらわなきゃなんないですもんね。

しかし、もしそうだとすると取り上げられている画家たちは何で画家になろうと思ったんですかね。本書でも親が芸術関係(というか当時は職人さんでしょうが)というのはカラヴァッジオくらいのもんですし(それでも建築家兼装飾家)、皆あまりお金持ちでもないようです。当時、絵画は非常に高価な耐久消費財でしたので、教会か貴族のお家に行かない限り見られなかったそうです。カネのあるところに出入りできればカネになりそうだとか思ったんでしょうか。木村さんはそこらへんの下賤なお話はさらりと流しています。

ところで、木村さんはクロード・ロランの章で、イギリス式庭園のイメージのもとになったのはクロード・ロランの絵画だとしています。私はイギリス式庭園のインスピレーションを与えたのは19世紀後半に盛んに開かれた万国博覧会に出展された日本庭園(出展作品制作のため、職人も多数同行したそうです)であると聞いた覚えがあります。どちらが正しいんでしょうか。どなたかご存じではありませんか。

本書は上質紙に印刷され図版も多く収録されていますし、それらの作品は作家がどのような境遇にあるときに描かれたのかがコンパクトに分かりやすくまとめてあります。バロック芸術をさらっとおさらいするには格好の教科書かもしれません。  

NHK『迷宮美術館』制作チーム『NHK『迷宮美術館』巨匠の言葉』三笠書房   

NHKで放送されている美術番組『迷宮美術館』は古今の名画に秘められた謎や感動的な物語をクイズ仕立てで紹介していく番組です。本書は番組で取り上げられた物語の中から特に感動的なものを選りすぐって紹介するものです。

本書では取り上げられた画家に対して1枚だけ作品が取り上げられ、その絵画に秘められたエピソードが記されています。

一番気に入ったのはラファエロの「ラ・ヴェラータ」(ヴェールの女)という作品でしょうか。現在の感覚を当てはめても美人だと思いますが、モデルはマルゲリータというパン屋の娘だと言われています。宮廷画家であったラファエロとの身分の違いとか、本書では触れられていませんが、当時ラファエロは枢機卿の姪との結婚を勧められていた、などの諸事情からマルゲリータとは結ばれることはありませんでした。ところが「ラ・ヴェラータ」に描かれた女性が身につけているのは当時上流階級の装いであった純白の結婚衣装。その愛情がひしひしと伝わって来る、はずなのですが、別の本では超有名な画家であったラファエロは女性にも手が早く、あちこちで浮名を流していたとか。「ラ・ヴェラータ」を描いた4年後に37歳で亡くなっていますが、やり過ぎが原因だとか、そのため病気をもらったからだ、とも言われているそうです。うーん、知り過ぎるとイメージが壊れることもあるなあ。あ、ラファエロのファンの方は読まなかったことにしておいてくださいね。  

『迷宮美術館』シリーズもご紹介しておきましょう。

            

 

 

西野 亮廣Dr.インクの星空キネマ幻冬舎  

お笑いコンビ「キングコング」で人気者の西野さんが書かれた絵本です。子供のころに読んだ絵本がつまらないと思い続けていた西野さんが、ならば自分が読みたい絵本を書こう、と思い書かれた絵本だそうです。

さまざまな、いささか変わったキャラクターが登場しますが、最後には全員が絡まって、というお話ですが、ストーリーの紹介はやめにしておきましょう。

ストーリーも西野さんが考えられたそうですが、本書で圧巻なのはそのイラストでしょう。西野さん自身は専門の描画教育を受けたわけでもなく、自分は下手なのでプロみたいな絵は描けないけれど、その分時間と手間だけは惜しまなかったと謙遜されています。確かにきれいな絵ではありませんが、思わず引き込まれるような迫力が伝わってきます。極めて細いペンで描かれた線描画が基本になっていますが、恐ろしく細部にまでこだわって描かれています。制作に1枚60時間以上かかったものもあるそうですが、むべなるかなでしょう。

芸能人が書いた本だから欲しい、と思って買った子供たちも熱心に読み入っていました。大人から子供まで楽しめる絵本。ぜひお手に取ってみてください。

 

2010年2月

小沢 一郎小沢主義』集英社インターナショナル 

御存じ民主党の幹事長で裏番長とも言われる小沢さんが2006年に発表した著作です。

小沢さんは2001年以来小沢一郎政治塾の塾長を務めており、若者たちを指導しています。そこで教えている内容の一端を披瀝しているのが本書です。「この本には、ぼくの思想や信条のすべてば詰まっていると言ってもいい」。政治家小沢一郎が政治家小沢一郎を語る一冊と言えるでしょう。

小沢さんは本書で政治家にとっての選挙の重要性を繰り返し強調しています。地道などぶ板選挙を行うことによって政治家は世間の本当の姿を知ることができるし、自らを理解してもらうこともできる。また、選挙に通った政治家であるからこそ国民の代表として政治を行うことができる。であるからして、選挙を経ていない官僚が国を動かすことは許されない。「責任を取らない人間が政治を動かしてはいけない」。ま、論理は一貫していますね。

本書は小沢一郎政治塾での講演のまとめということもあり、小沢さんが政治家に求める方向性は示されていますが、具体的な政策については詳述されてないのが残念なところでしょうか。政治家小沢一郎には「政策よりも政局が第一」であるとの風評が付いて回っています。政権交代を実現した今、どのような政策を実現させるのか興味が持たれます。

小沢チルドレン必読の本書。小沢チルドレンでないあなたも御一読を。

松田 賢弥小沢一郎 虚飾の支配者』講談社

題名からして小沢シンパが書いたとは思えませんよね。「小沢にとって権力とはカネだ。生活ではない。失業や貧困を顧みるために権力を握るのではない。小沢にとって政治とは自身の、あくなき権力欲をみたすためのものではないか」と松田さんは喝破しています。

本書に描かれているのは小沢チルドレンにはどぶ板選挙を説きながら自らの選挙区には戻らずゼネコン選挙を繰り広げる小沢一郎、政党を作っては壊し、党の金庫に残っていた政党助成金などの不明朗な処理を繰り返す小沢一郎、法律には違反していないの一点張りで説明責任を果たそうとしない小沢一郎、元を正せば税金で不明朗な蓄財を行っている小沢一郎が描かれています。

毀誉褒貶が相半ばする政治家小沢一郎。真実の姿はどちらにあるのでしょうか。実は真実はどちらにもあるのかもしれません。前掲『小沢主義』と併せてお読みください。  

上杉 隆政権交代の内幕PHP 

以前『ジャーナリズム崩壊を御紹介した上杉さんの最新作です。上杉さんは鳩山内閣の首相秘書官か補佐官に起用されるのではないか、などと報道されたぐらいですから、民主党シンパと見て良いでしょう。

題名からも分かる通り、民主党の政策を分析するとか日本の将来像を描き出す、というよりは政治ジャーナリストが見た自民党政権崩壊の物語、といった内容ですが半分を占めています。

自民党はなぜ政権を失ったのか。平たく言ってしまうと、自民党が持っていた派閥集団として活力と民意を捉える能力を失い、人気優先の総裁選びを繰り返すうちに勝手に潰れていったというのが前回総選挙の総括です。あまりの不甲斐無さに有権者に見放されてしまったと。従って、積極的な民主党への応援ではなかったのではないかとしています。

民主党の政策の眼目は国の総予算(一般会計と特別会計を合わせた207兆円)の総組み換えにあるとしています。予算は利権そのものですので、予算の総組み換えが実現すれば、今まで利権にぶら下がっていた官僚や族議員は一掃されるとしています。

前回の選挙はマニフェストが重要視されていました。私はこれからの政策を示唆するマニフェストも重要ですが、過去発表していたマニフェストが実現されているか、実現されていないとしたらそれはなぜなのか(できなかったのか方針転換したのか)がきちんと評価されなくてはならないと思いますがいかがでしょうか。選挙はこれからの政策選択の意味合いもありますが、同時に政党に突き付ける通信簿でもあるのではないでしょうか。結果責任を問われない政治なぞあり得ません。

政権発足からそろそろ半年になろうとしています。民主党の政策は首尾よく実現されているでしょうか。

ところで上記『小沢一郎 虚飾の支配者』並びに本書でも詳述されている西松建設闇献金事件ですが、なんだか竜頭蛇尾ですねえ。逮捕後闇献金の事実を認めただの何だのという話がマスコミを賑わしましたが、最近はトーンダウン。そもそも、逮捕された後の言動がなぜマスコミの知るところとなったのでしょうか。本人がしゃべったんじゃないとしたら誰が……。それに、岩手県は泣く子も黙る鹿島建設発祥の地でその影響力は絶大なんだそうです。鹿島建設並びにその他のゼネコンは何もしていなかったんでしょうか。あるいは他府県ではどうだったのでしょうか。なぜ誰も調べないのでしょう。と思っていたら最近検察当局が動き出したというニュースを見ました。検察のリークを垂れ流すだけではなくきちんと調査報道をする、といったところにジャーナリズムの真価があるのではないでしょうか。ジャーナリズムの真価が問われています。

高橋 洋一恐慌は日本の大チャンス』講談社

世に高橋洋一の名が知られるようになったのは竹中平蔵元大臣のブレーンとしてですから、小泉改革一派の一員と言って間違いないでしょう。高橋さんと言えば埋蔵金を発掘したことでも有名です。与謝野元財務大臣は埋蔵金なんて存在しないって言ってましたけど、いつの頃からか自民党政権時代にも活用されるようになってましたね。ところがその後の発言内容(『さらば財務省とか)が睨まれたのかどうか、2009年3月に訳の分からないサウナでの窃盗事件で逮捕、在職していた東洋大学もクビになり、世間的にも葬り去られる寸前でした。本書は事件後では最初の出版物だそうです。

高橋さんは「日本という船には、他の国にない八○兆円にものぼるGDPギャップがある。これは向かい風ではない。巨大な潜在力なのだ」。「いまこそ、このパワーを解き放ち、それを官僚のためではなく、国民生活のために使うのだ」と主張しています。GDPギャップの解消のためにはお金をばらまくことが必要です。金融政策は日銀の担当ですが、とにかく渋ちんで金融緩和をやった後は、手ぐすねを引いて引き締めの時期を待ってる。金融緩和は日銀のバランスシートを悪化させるからです。しかし、かつてバーナンキ現FRB議長は「いざというときに日銀が損を気にして適切な政策が実施できないとは信じがたい」と言っていたそうです。

同様に財務省もお金をばらまく政策には消極的です。政府紙幣にしろ、その他の方法にしろ財源を気にせずに財政出動できることを認めてしまうと、財務省の悲願である均衡予算とか財政規律、その実現のために増税が必要であると主張してきたことが全部パーになってしまうからなんですって。

でもですね、高橋さんが高く評価するバーナンキ議長がバッチリ経済対策を実行しているはずのアメリカだって景気回復の足取りはおぼつかないですよねえ。回復どころかこのまま沈没しかねない。そもそも現在の人類の発展段階では経済なんてものは複雑すぎて完全には理解できないのではないでしょうか。高橋さんは「為政者は、誤った政策ではなく正しい政策に命がけで取り組むべきである」としています。でも、国民全員がもろ手を挙げて賛成するような政策なんてあり得ませんし、やってみる前からどんな影響が出るか100%正しく予想するなんて現在の人類の知恵では出来ませんよ。むしろ、とにかく良さそうなことは何でもやってみて、弊害があれば取りやめるなり手当するなりするしかないんじゃないでしょうか。人間に完璧を求めても得られませんよね。

高橋さんが書かれた構造改革の説明を読むとなるほどなと思う点も多々ありますが、現実には構造改革反対の声が巷には溢れ返りました。高橋さんが主張するように霞が関の逆襲という面もあるのでしょうが、最大の原因は、やはり国民に直接的なデメリットがあったのに何の手当てをしなかったことにあるのではないでしょうか。

本書を一読するだけで高橋さんは大変頭の良い方だということが分かります。郵政改革のシナリオにしたって高橋さんによればこういうテーマの政策について考えてくれと依頼されたから「数学の問題を解くように淡々と適切な解を導き出したに過ぎない」のだそうです。だから論理的には正しいんですって。そして「誤解を恐れずにいえば、私の立案した政策が実際に採用されるか否かも、私にとってはどうでもいいことである」とまで言ってます。高橋さんはさんざん官僚のことを批判していますが、理論的に正しい提言をしたのであるから、結果責任を問われるいわれはない、ってのは官僚の思考方式そのものではないですか。高橋さんは構造改革には竹中チームと飯島元秘書官のチームがあって良い構造改革は竹中チーム、悪い構造改革は飯島チームがやったとかぐちゃぐちゃ弁護していますが、いまさらそんなこと言われてもねえ。国民に否定されたのですからなぜ否定されたのかを考え、別のオプションを考えていただかなくては。

私たちが求めているのは大きな政府でも小さな政府でもなく、良い政府。高橋さん、頭良いんだから、ひとつお願いしますよ。

 

2010年1月

ピーター・メイル 小梨直訳『贅沢の探究』河出書房新社

南仏プロヴァンスの12か月』、『南仏プロヴァンスの木陰から』と立て続けに大ヒットを飛ばしたメイルさんが出版した世の贅沢品の探究記です。大ヒットを飛ばしたメイルさんが成金趣味にどっぷりとはまって、というのではなく、出版社持ちの経費での体験です。取材に4年もかかったとのことですので、実際の取材が始まったのはは1986年ごろ、つまり大ヒット作家となる前から始まったのだろうと訳者の方は想像しておられます。日本での初版は1994年ですからバブルは終わってしまっていましたが、バブルで一流品の世界に初めて触れた日本人には格好の手引書だったことでしょう。私も読みました。

本書を書かれた時のメイルさんはお金持ちではなかったとのことですので、なるほど、贅沢品が素晴らしいものであることは認めつつ、どこかシニカルな視点が感じられます。もっともその後大ヒットを連発、奥さんも3人目だし人生を謳歌しておられるようです。その辺の感じは本書の後半を読むとわかります。きっと金回りが良くなったんだわ。

本書で取り上げられている贅沢は、オーダーメイドの靴、黒塗りのリムジン、愛人、高級仕立て服、トリュフ、使用人、キャビア(いや、キャヴィアでした)、別荘、自家用ジェット機などなど。別に無くたって困らないものばかりですが、一度その贅沢に馴染んでしまうと、それなしではいられなくなる、依存症になっちゃうものばかりです。ということで、本書の原題は「Expensive Habit」、贅沢な習慣です。うーん、贅沢は素敵だけど怖いなあ。

あまり縁のない贅沢な世界をちょっとだけ覗いてみませんか。

森 茉莉贅沢貧乏』講談社文芸文庫 

ご存じ森鴎外の長女で非常にかわいがられて育ったそうです。父親の森鴎外は津和野藩の御典医、森家13代目の当主、母親の志げも、父親が大審院判事を務めるという御家柄。親戚縁者にはずらりと学者や医者、芸術家が名を連ねています。「左手に茶碗を持ち、右手に箸を持って飯を喰うのと、湯殿で体を洗うこと、着物を着ること位より、独りではせずに育った」というお姫様(おひいさま、と読んで下さい)育ちだったようです。そこらのにわかセレブとはレベルが違うお嬢様の生まれだったのです。魔利は東京っ子、阿佐ヶ谷なんぞに住んでいる世田谷っ子、田舎者とは違う人種なんです。阿佐ヶ谷に生まれ育った私はどうすれば良いのでしょうか。

それが二度の離婚を経て、頼みの父鴎外の版権も切れ収入がなくなり、生活はそうとう貧乏だったようですが、天上天下唯我独尊、意気軒昂としていたようです。若いころから翻訳活動などをしていたようですが、54才のときに発表した、父鴎外の思い出をつづった『父の帽子』でエッセイスト・クラブ賞を受賞、人気作家の仲間入りを果たしたようです。それでも子供が大きくなったような茉莉さんはあまり生活力などという下世話なものには縁がなく、質素な暮らしぶりだったようです。85才で亡くなったのは1987年のことでした。

その暮らしぶりが巻頭の、本書の題名にもなっている「贅沢貧乏」というエッセイに描かれています。25ページほどの小品ですが、しょっぱなから延々と牟礼魔利(むれマリア。ま、どう考えても森茉莉本人ですね)という登場人物の部屋の様子が描かれています。色に関して異常なほどのこだわりを持っていることがうかがえます。「紅いブリキの蝋燭入れ、葡萄酒を薄めたような色と水に溶かしたような緑の洋杯、鳥の模様を置いたロオズ色の陶器」とか、「マヨネエズの淡黄、西洋酢の透明、牛酪の黄、ラアドの白と、トマト・ジュウスの薄紅」……などなど。で、気に入らないものは売っぱらっちゃうか捨てちゃう。質素な生活とはいえ、身の回りの物はお気に入りの綺麗なもの、一級品だけ。安物なんかに触るとジンマシンが出ちゃうんじゃないですか、きっと。

「ほんとうの贅沢な人間は贅沢ということを意識していないし、贅沢のできない人にそれを見せたいとも思わないのである」

「だいたい贅沢というものは高価なものを持っていることではなくて、贅沢な精神を持っていることである。容れものの着物や車より、中身の人間が贅沢でなくては駄目である」

うーん、私には縁遠い世界のようです。

山田 登世子贅沢の条件』岩波新書

著者の山田さんはフランス文学、フランス文化史の研究者で愛知淑徳大学の教授です。『ブランドの条件なんて本も書かれています。その山田さんが贅沢とは何か、という贅沢論をさまざまな角度から考察しています。

バルザック曰く

「つねひごろ労働に勤しんでいる人間には優雅な生活が分からない」

「金持ちには成ってなれるが、優雅は生まれつき」

山田さんは贅沢の典型としてルイ14世の時代にヴェルサイユに侍った貴族たちを取り上げています。当時の貴族、中でも帯剣貴族と呼ばれた本物の貴族たちは商業活動に従事することは法で禁じられていたのだそうです。「貴族にとって「働くこと」は不名誉なことであった。演じ、遊ぶこと、そのために法外な支出をいとわないこと、それが貴族のしるしだったからだ」だって。まあ、こんなことしてたんだから民衆が怒るのも無理はないですよね。というわけでフランス革命が起こったわけです。

で、表向き貴族は一掃されたわけですが、有閑階級は生き残ります。働かなくても食っていける連中ですね。「金持ちで、暇があり、たとい飽いて無感覚になってしまっていても、幸福の跡をつけて追う他に仕事のない男、贅沢の中に育てられて、青少年期からすでに人間たちの服従になれた男、つまるところは優雅の他には職業を持たない男」が生まれました。ルイ14世みたいに派手な恰好はしていませんでしたが、やっていることは同じ。日本じゃ遊び人の金さんでしょうか。あ、金さんは仕事してるか。

現代的な贅沢の例として山田さんが取り上げているのがココ・シャネル。モード業界で大成功を納めるココ・シャネルですが、思春期を祈りと労働をモットーとするシトー派の孤児院で過ごしました。生まれながらのお嬢様なんかではなかったのです。そしてココ・シャネルがファッションにもたらしたのは実用的で装飾のないモダンな女性用スーツ。山田さんはシンプルなスタイルの発想のルーツを修道院生活に求めています。ココ・シャネルは「私は貧しい子供時代をおくったと思いこんでいたのに、実はそれこそ贅沢なのだと気付いたのだ」と後に語っているそうです。

あなたも本当の贅沢の一端を覗いてみませんか。

伊住 政和、斎藤 壽贅沢な食卓』淡交社 

本書の著者伊住さんは裏千家15代家元、千宗室の次男、斎藤さんは料理関係の編集者を永く務め、現在は『料理王国』という雑誌の編集主幹。そしてゲストとして登場するのはフランス三ツ星レストランのオーナーシェフ、アラン・デュカスさん(三ツ星レストランを二つ持っているので合計で六つ星だそうです)。

この三人が正しい「懐石の本質とは何か」、「フランス料理の骨格と思想」を解き明かして行きます。ゲッ、読んだだけで胃もたれしそう。ま、読むだけだったら、懐を直撃することはないでしょうが。

伊住さんは懐石は「わび」を知ることによってはじまるとしています。では、「わび」とは何か、が問題となります。伊住さんも「わび」とはこれこれであると言葉で説明しているわけではありません。いくつかのヒントの中に、禅の教えのことが書かれています。禅宗では自由自在であることや融通無碍であることが求められますが、だからと言って何をやっていいというわけではありません。型はあるけれども型に囚われてはいけない。

茶道においても、多くの人々に伝わるうちに型が出来てしまい、マニュアル化されて形式化されて行ってしまいました。茶道の確立に尽力した千利休も、晩年にはそのようなマニュアルには必ずしもこだわらない姿勢を見せたそうです。

で、その茶席で供されるのが懐石と呼ばれる料理。茶席では一汁三菜を基本とするようです。ということは、今現在巷で流行っている高級和食を表す懐石料理とか京懐石なぞとはいささか違うわけですね。伊住さんは、有り合わせのものでも心づくしのもてなしをする、という意味では家庭料理の方が懐石の精神に近いと指摘しています。へー。

本書ではスーパーシェフのデュカスさんに懐石料理を味わってもらい、デュカスさんの料理でお茶会を開きましょう、と盛り上がったところで終わっています。どんな御茶会だったのでしょうか。

それにしても、これまで一度も御茶会なんぞには呼ばれたこともなく、これから一生アラン・デュカスなぞに足を踏み入れる機会もなさそうな私にとっては縁遠い贅沢な世界でした。

もし千利休が私をもてなすとしたらどんな料理を出したのでしょうか。ラーメンの小鉢、一口カレーに焼き鳥が一本、なんて御膳が出てきたのでしょうか。まさか、ね。

山崎 武也贅沢のすすめ』幸福の科学出版

著者の山崎さんは東京大学法学部を卒業、現在はコンサルティング業務の傍ら執筆活動も行っているそうです。『一流の条件、『一流の作法』、『一流のマナー、二流のルール、三流の不作法』、『一流の品格、三流どまりの品格』、『一流の矜持』と、一流にこだわった著作を多く書かれているようです。

山崎さんは贅沢とは求めて得られるものではないとしています。「贅沢は自分の毎日の生活を肯定して、心の中の動きをフルに感じ取ろうとするところに滲み出てくる灌漑であり満足感である」としています。ようやっと私にも出会えそうな贅沢が出てきましたね。

長くビジネス界で活躍された山崎さんですので、忙中閑ありといった、心構え一つあれば実現できる贅沢が紹介されています。仕事に熱中することは悪いことではないでしょうが、仕事以外に何の楽しみも持たない、中毒、あるいは依存症ではないんだろうかと思われる方もいらっしゃいますからね。

そういえば、上記山田さんの『贅沢の条件』にこんな下りがありました。プロテスタントが主導した宗教改革により、労働が神聖視される一方、王侯貴族の贅沢な暮らしぶり労働もせず浪費するだけの生活は厳しく断罪されることになりました。が、貴族とともに断罪された人々の中に、何と浮浪者たちがいたのだそうです。浮浪者が贅沢な暮らしをしているわけはありません。では何を咎められたのでしょう。「富も職もない浮浪者たちは、消費の贅沢などしたくてもできない身の上ではあれ、こと時間にかんするかぎり無尽蔵な時間をもち、貴族とならんで彼らもまた中世ヨーロッパに生きた「閑暇」の徒であったからだ」。時間ってのも贅沢の対象になりうるわけですね。

私の半隠居生活ってのも実は贅沢なのかもしれませんね。  

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