2009年12月

西本 正明ウェルカム トゥ パールハーバー 上 』角川学芸出版 

 

題名の通り、太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃を取り上げた小説です。ただし、あの時こうしていたら、こうすれば勝てた、といったタラレバ本ではありません。

本書を書くに際しての西本さんの考え方は日刊ゲンダイのインタビューによく表れていると思いますので、以下少々長くなりますが引用しておきます。

-------以下引用------

「真珠湾攻撃については、いまだにルーズベルトが事前に知っていたかどうかすら議論が噴出して、答えが出ていません。それぞれが自分の思い入れで情緒的な議論に終始しているんです。しかもアメリカでは奇襲だの何だのいって、今も“アメリカの正義”の象徴に使っていますが、こんなバカげた話はありません。実際に裏で真珠湾攻撃の糸を引いたのは英諜報部ですし、そもそも正々堂々の戦争なんてあり得ない。謀略も奇襲も当然で、情報を制した側が勝つのが戦争なんですから」

――あれは謀略だった?

「日本だって、それに負けない手練手管を講じればよかったんです。それをあくまで自分中心の発想で凝り固まって、謀略を前提とするどころか、敵がどう考え、どう対応してくるか、想像だにしていなかったのが日本。当時の内実を知れば知るほど、日本の愚かしさには泣きたくなりますよ」

――書きたかったのは?

「クラウゼビッツの有名な古典『戦争論』を引くまでもなく、いかなる戦争にも長い助走期間があって、結果として始まる。だのに太平洋戦争に関しては、この助走期間がまったく置き去りにされています。そもそも何ゆえにこうなったのか。それをわれわれは知る必要があると思うんです」

------引用終わり------

現在世界中のあらゆる政府が政治経済、さらには軍事にわたり困難な選択を迫られています。日本もその例外ではあり得ません。ただ単に空気を読むのではなく、日本は、日本人は何がしたいのか、何をしなくてはいけないのか、どのようにすればよいのかをしっかりと考えなくてはなりません。ぜひ自分の頭で考えて、考えて、考え抜こうではありませんか。

私は日本の宣戦布告の手交が真珠湾攻撃の後になったのは在外大使館の無能のせいだ、と思っていましたが、こんな見方もあったんですね。どんな見方かって?本書をお読みください。  

田母神 俊雄田母神塾』双葉社

「危険人物」の田母神さんが書かれた本です。「日本は侵略国歌であったのか」という論文をアパグループ主催の懸賞論文に投稿、最優秀賞を受賞したものの航空幕僚長をクビになったしまった方です。

その論文については下らないとか論文の体をなしていないとかけちょんけちょんに貶されていましたが、自分で読んでみないと分からないですよね。ということで最近本屋にずらっとならんでいる田母神さんの書かれた本の中から一冊を読んでみました。

田母神さんは自虐史観を米国の洗脳作戦によって押しつけられたものとしています。これについては私も同感です。戦後GHQWGIPWar Guilt Information Program)という作戦を徹底、日本人に戦争犯罪人としての罪の心を刻み込んだことは公文書にも残っているそうです。米国は日本の植民地支配を盤石のものにするため、このような施策を採った訳です。

であるからして自虐史観の呪縛を解かなくてはならない、というところまでは分かるのですが、そこから先どうも田母神さんの議論には付いて行けない。日本がやったことは何でもかんでも悪いわけではない、ということは、日本がやったことは何でもかんでも良かったんだ、ということとイコールではないはずです。日本にも反省すべき点はあったのではないでしょうか。もし日本が良いことしかやっておらず、進出先で大歓迎され続けていたのなら少しは日本を助けてくれそうなものではないですか。でも、そうはならなかった。なぜそうはならなかったのか?

何よりも日本が真摯に反省しなくてはならないことは、事実として戦争に負けてしまったことです。なぜ戦争に負けたのか、なぜ負けるような戦争に巻き込まれたのか、そしてそのような事態を招かないためには何をすれば良かったのか、何ができたのか、を問い直さなくてはなりません。なぜそんなことを問い直すのかというと、日本はこれからどのような施策、方針を採るのかを決めるためです。これが歴史を学ぶ意義だと思いますがいかがでしょうか。

ぜひ皆さんも歴史を学び、ご自分で考えていただきたいと思います。  

半藤 一利、保坂 正康、井上 亮「東京裁判」を読む』日本経済新聞出版社

東京裁判については感情的なイデオロギー論争が先行してしまい、東京裁判とは何であったのかを冷静に史料から読み解くような試みにはあまり熱心な取り組みはされていませんでした。裁判という体裁を保つためでもあったのでしょうが、検察側だけではなく弁護側の資料も膨大な量が用意されたそうです。そのような東京裁判に関する史料は、公開はされていたものの、分類整理されておらず、国会図書館などで惰眠を貪っていたそうです。ようやく歴史としての分析が始まった、と言えるでしょう。

東京裁判は勝者の裁きに過ぎない、という見方も現在の日本では一般的と言えるのではないでしょうか。本書でもそのような見方に一理あることを認めています。ただ興味深いのは、東京裁判と同時代を生きていた敗戦国日本の国民の反応です。キーナン主席検事が東京裁判の冒頭で「28人の被告らはすべて一名残らずこの日本の犯した極悪なる罪悪について責任を負わねばならぬ。彼らはいずれも極刑に値するものである」と述べたとき、「これに日本の新聞はほとんど全部賛成」したのだそうです。ま、検閲もあったでしょうが。そして国民感情も「あの人たちは当然戦争責任があって、極刑に処せられるべきだ」という受け止め方だったとしています。日本軍部は肝心の日本国民にも嫌われちゃってたんですね。

日本側の提出した弁論を読んで感ずるのは、もちろん戦争準備なぞしていなかったと主張する意図もあるのでしょうが、日本政府・軍部がいかに自分たちが信じる、あるいは信じたいことや願望だけを根拠にばらばらかつ自分勝手に政策を遂行していったか、ということです。客観的な分析も統一性もなし。あるのは自己保身のみ。勇ましいことを言っている軍人だって役人根性丸出しの屁理屈を言うばかりで責任を取る気はなし。ガバナンスなんてこれっぽっちも働いていないじゃありませんか。組織として機能していないんですね。

真珠湾の無通告攻撃について一言。「ルーズベルトの陰謀」が言い立てられていますが、東京裁判の判決は「だまし打ち」ではなかったと明確に認定しているそうです。あまり知られていなかったのは、本書のように原典に当たる努力を怠り、観念的な論争に終始していたからではないでしょうか。

日本はさまざまな理由はあるにせよ事実として戦争に負けてしまいました。私たちはそのことを真摯に反省し、これからの国造りに役立てていかなくてはなりません。

反省のためにはまず己を知らなくては。己を知るための基礎資料としてご一読を。    

纐纈 厚私たちの戦争責任』凱風社  

纐纈さんは昭和初期の、つまり戦争に負けるまでの20年と平成に入ってからの20年を比較、さまざまな類似点があることに警鐘を鳴らしています。このままでは「いつか来た道」が繰り返されるのでは、と。日本国は平成20年目の節目に民主党政権の成立という大きな転換を迎えました。これからどうなるのでしょうか。

本書で面白かったのは、昭和初期の軍国主義が、実は一方でデモクラシーの実現にもつながったという指摘です。いわゆる国家総力戦という概念はナポレオンの国民国家の成立に端を発するとも言われています。つまり、それ以前は武士や騎士といった特定の階級や傭兵が中心となって行われていた戦争が、徴兵制に基づく国民皆兵を前提に行われるようになったわけです。そして第一次世界大戦などでは兵力だけでなく兵站を支える国家の生産力なども組み込まれるようになりました。みんなで戦争するからにはそれなりの見返りがなきゃね。軍国主義自体がデモクラシーなんぞを歓迎するわけはありませんが、一方で江戸時代の身分主義社会を崩壊させたことも事実なのです。

日本はここで敗戦を迎えるわけですが、戦後の高度成長を支える戦略を練ったのも、岸信介など戦時中の「総力戦国家」政策を推進していた官僚たちだったのです。戦後の経済復興、高度成長なくしては現在の曲がりなりにも豊かで平和な日本がありえないことは間違いないところでしょう。罪はあったにせよ功もあったと。

良くも悪くも事実として起こってしまった事件を覆すことはできません。が、解釈を変えることによる歴史の改竄は可能です。しかし、可能だからと言って改竄に頼り切って自らを省みようとしない態度は決して尊敬を受けることはありません。鳩山政権はアジア関係を重視するとしています。具体的にどのような政策がとられるのでしょうか。

「過去の戦争に責任はなくとも、明日の戦争には責任がある」。ぜひご一読を。

 

 

2009年11月

ジョージ・ソロス 徳川 家広訳『ソロスは警告する2009』講談社   

以前ご紹介した『ソロスは警告するの続編にあたります。大分前に読んだのですが、ご紹介するのが遅くなりました。今年中には紹介しないと時代遅れになっちゃいますからね。

本書の冒頭でソロスさんは2008年後半に起こる危機を予想していたにもかかわらず、リーマン・ブラザースの破綻など予想もしていなかった事態が起きたことにより(ソロスさんは、金融当局はリーマンを救済すべきであったとしています)期待したほどのリターンを得られなかったと告白しています。それでもクォンタム・ファンドは2008年期に全体として+10%のリターンを上げたとのことですから、ご立派、偉い。

本書でソロスさんは自然現象を対象にする自然科学の手法は社会現象を対象にする社会科学では必ずしも有効とは限らないとしています。私もまったく同感です。経済学は社会科学の中でも際立って自然科学的手法を取り入れている分野です。なぜか。ソロスさんはフロイトの「ペニス願望」をもじって経済学者たちの「物理願望」(物理学みたいになんでも整然としていたい、ということでしょう)だと喝破しています。確かに理論を整然と数式で証明していく、なんてのはカッコいいですよね。でも、それだけじゃブラックスワンは見つけられないんですよね。

ソロスさんが2009年に起こると予想しているのは1980年代以来続いてきた超バブルの崩壊。そしてその処方箋は、と言うと、意外にもオーソドックスなケインズ流経済対策。何をやるかは本書をお読みください。で、それらの結果、今年末をボトムにして景気は回復する、とソロスさんは分析しています。もっとも、世界各国の政府がベストの政策(というかソロスさんご推奨の政策)を採れば、という但し書きも付いていますが。

今年も残すところあとわずか。さあ、どうなるでしょう。  

高杉 良、佐高 信『罪深き新自由主義』株式会社金曜日 

以前、高杉さんは『亡国から再生へを、佐高さんは『小泉純一郎と竹中平蔵の罪』をご紹介しました。本書は高杉さんと佐高さんという、新自由主義そして小泉政権を批判して止まなかったご両人の対談をまとめた第一部と、佐高さんが編者を務めた『高杉良経済小説全集』に佐高さんが書かれたあとがきをまとめた第二部からなっています。

佐高さんは小泉純一郎首相を「アメリカと仲良くすることによって中国をけん制し、中国と仲良くすることによってアメリカをけん制するというのが、いままでのまともな保守政治家がやってきたことです。ところが、小泉はアメリカしか見ない。だから私は、小泉は二次方程式が解けない男だ」と評価しています。それ以降の歴代首相については、「安部晋三というのは一次方程式も解けない。福田に至っては、まず解く気がなかった。麻生は「方程式」という漢字が読めない」と酷評しています。ついでに竹中平蔵元総務大臣については「臨床研修医の経験もなく医者になってしまった人」と評しています。竹中元大臣は先日パソナグループの会長に就任されました。パソナって言えば、労働者の派遣でさんざん儲けた会社。労働者派遣法の改正に尽力したのが小泉政権であり竹中大臣だったはずです。最近の選挙報道で、当選後に「当選させていただきありがとうございました」って演説するだけで公職選挙法違反、事後収賄に問われるって知りました。自分で作った法律で儲けた会社に天下りした竹中元大臣は事後収賄……には当たらないんでしょうね、きっと。なんだかなあ。

実は私、あまり高杉さんの本業である経済小説は読んだことがありません。高杉さんの小説では私のようなミドル世代がさんざん苦労させられる話が多くて、読むのがつらそうだったからです。楽しみの読書でまでいやな思いはしたくないですからね。でも、佐高さんの書評を読んでいたら何冊か読みたくなってしまいました。

民主党政権になり、日本は変わるのでしょうか。  

ナシーム・ニコラス・タレブ 望月衛訳『ブラック・スワン』ダイヤモンド社   

前作『まぐれが面白かったのでタレブさんの新作も読んでみました。  

本書の題名であるブラック・スワンとは黒鳥のことです。それまで白いとされていた白鳥に黒い亜種が発見されたので、鳥類学者にとっては驚天動地の発見だったそうです。普通の人には、面白いジョークだったんでしょうが。

英語でブラック・スワンとは、ますあり得ないことを意味します。本書においては次のような三つの特徴を備えた事象を意味しています。

「第一に、異常であること」。

「第二に、とっても大きな衝撃があること」。

「第三に異常であるにもかかわらず、私たち人間は、生まれついての性質でそれが起こってから適当な説明をでっち上げて筋道をつけたり、予測が可能だったことにしてしまったりすること」。

確かにそうですね。911だって百年に一度の不況だって今となってはしたり顔で解説を加えるエセ学者がいっぱい居るじゃないですか。あ、だからって「私の予言が当たった」なんて威張ってる奴も怪しいですよ。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるって格言もありますからね。あと、確かにそんなことも言ってるんだけど、全体の文脈からすると全然別のことを言ってる、なんて場合もありますもんね。人間なんて自分の手柄は大げさに騒ぎ立てるくせに違ってる点には目をつぶっちゃうもんですからね。間違いを素直に認められる人なんて滅多に居ません。

ブラック・スワンの事例としてタレブさんはある有名な船長の言葉を引用しています。

「しかし、私の経験してきたことをすべて振り返ってみても、私は一度も…(中略)…とりたてて言うほどの事故には遭わなかった。海で過ごした歳月で、遭難した船を見かけたのは一度きりだ。難破船を見かけたことは一度もないし、自分が遭難したこともない。災害になりそうな窮地に追い込まれたことすら一度もない。」

1907年にこう書いたのはE・J・スミス、後のタイタニック号の船長だそうです。有名な遭難事故は5年後。そりゃ、前もって知ってりゃこんなことは書きませんよね。

あなたは自分の才能のおかげで成功したと思っているかもしれませんが、実は単に運が良かっただけなんですよ。森永卓郎さんがおっしゃっていました。「私も年収2千万円以上の人を何人も知っている。全員、ものすごく幸運だったか悪いことをしているかのどちらかだ」って。そんなもんだって。いままでひどい目に遭ったことはないからこれからもないだろう、と簡単に信じてしまうのは間違い。最初の災害が致命的だってこともありますからね。ご用心、ご用心。

そう言えば、寺田寅彦博士も、地震を防ぐことはできないが、震災は防ぐことが出来る、だから防災対策をしっかりしないといけない、って100年も前に言ってたはずです。人間、ちっとも進歩してない。

本作のタレブさんはペダンチックであることを嫌うあまり、過剰にシニカルな言い回しを使っている気がします。『まぐれを読んでいない方はそちらからお読みください。少しは読みやすいと思います。  

ダグ・スタンフ 椿香也子『ウォールストリートの靴磨きの告白』ランダムハウス社  

 本書の主人公は、ウォールストリートの大手証券会社の中で靴磨きをしているブラジル系アメリカ人。友達の掃除係が、トレーダーがトイレで何やら怪しげな会話を携帯電話でしているところを偶然目撃してしまいました。哀れ掃除係はトレーダーの画策で首になってしまいます。靴磨きは何とか復職をさせようとするところからお話は始まります。もうひとりの主人公は雑誌記者。靴磨きから話を聞き、スクープ記事に仕立てようとします。

怪しげな会話とは何か。ま、想像はつきますよね。銀行とか証券会社の固定電話ってのはさまざまな目的を兼ねて録音されています。言い間違いが問題になったときの検証とか、クレーマー対策とか。その他、インサイダー取引の防止と検証のため、なんてのも入っています。ま、怪しげな会話をするのはお互いプロですから、不都合な会話は「じゃ、携帯で」ってことになるわけです。金融機関ではトレーディング・フロアでの携帯使用は普通禁止されていますし、通話記録(少なくとも誰と会話したか分かるように)を残すため仕事には会社貸与の携帯(ブラックベリーですね)を使うようにってお触れを出したりしているところもありますが、「いや、私用なもんでちょっとそこまで」って言われて自分の携帯使われたら分かりませんからね。コンプライアンスは悩んでいます。

ウォール街の腕利きは何億、何十億円の報酬を、ヘッジファンドのトップにいたっては何千億円もの報酬を得ていると言われています。サブプライム問題でぶっ飛ばされちゃった人も居るかもしれないけど。もう一度森永卓郎さんの言葉を引用しましょう。「私も年収2千万円以上の人を何人も知っている。全員、ものすごく幸運だったか悪いことをしているかのどちらかだ」って。悪いことをしている奴、いっぱいいるんだ。本書にはそんなトレーダーたちの生態も詳しく描かれています。

さて、主人公たちはどうやってインサイダー取引を暴くのでしょうか。お楽しみに。

 

2009年10月

エリック・アンブラー 藤倉秀彦訳『グリーン・サークル事件』創元推理文庫 

 スパイ小説の大家エリック・アンブラーが1972年に発表した作品です。パレスチナ側の組織への協力を強要された実業家がいかにしてその難局を潜り抜けたかを語る物語です。ストーリーはハラハラ、ドキドキの展開。

事件は現在でも戦火の絶えないイスラエル、シリア、レバノン、そしてパレスチナを舞台に繰り広げられます。本書が発表されたのは1972年、ちょうどミュンヘン・オリンピックでブラック・セプテンバーがイスラエルのコーチ・選手11人を殺害するという世界を震撼させる事件が起きる直前です。発表から37年の歳月が流れましたが、パレスチナを巡る情勢は少しでも良くなったのでしょうか。登場する団体名などは変わりましたが、抑圧する側と抑圧される側の反発、という構図は全く変化していないのではないでしょうか。

本書は小説ですが、パレスチナを巡る歴史的背景なども、その背景を利用して物語が書かれているのですから、物語を読み進めるうちに自然と理解できるように書かれています。読書のついでにお勉強もできる一冊でした。

ガッサーン・カナファニー 黒田寿郎・奴田原睦明訳『ハイファに戻って 太陽の男たち』河出書房出版 

アンブラーさんの作品があくまでもイギリス、あるいは西洋側から見たパレスチナを舞台にしているのに対して、本書はパレスチナ人から見たパレスチナの地が舞台になっています。

カナファニーさんは、父親は弁護士という家庭に生まれましたが、12歳の誕生日にイスラエル建国を前にして見せしめ(パレスチナ人を追い出す)のために仕組まれたと言われる「デイルヤーシン村虐殺事件」が起き、家族とともに難民としてシリアに逃れました。カナファニーさんは生涯誕生日を祝わなかったそうです。政治活動家、あるいはジャーナリストとして活躍しましたが、36歳にして車に仕掛けられたダイナマイトにより暗殺されました。

カナファニーさんの作品からではありませんが、奴田原さんが解説で引用しているあるパレスチナ人の紹介から引用しましょう。

「“パレスチナ”というのは、すばらしい意味を持った美しい名称です」

「パレスチナというのは、異なる民族の間の寛容、そこに住む者の繁栄、そして豊かな精神的遺産を意味しているのです」

「それなのに、なぜパレスチナをイスラエルと呼ぶのでしょう?イスラエルという名は“差別”を意味するのに。その名は人種差別と不正を表しています」

「私はイスラエルの建国を祝う人がいるのを知っています。けれどその人たちはいったい何を祝っているのでしょうか。私たちの追放、悲惨、千々に砕かれた私たちの心をでしょうか。私たちの離散、窮乏、忌わしい運命をでしょうか。私たちの死と中東における道義の終焉をでしょうか」

本書に収録されている最新の作品が書かれてから40年近くが経とうとしていますが、いまだにパレスチナの地では同じような悲劇が繰り返されています。私たちは歴史から何も学ばないのでしょうか。

パレスチナ人の心の叫び。ぜひご一読を。

サイード・アブデルワーヘド 岡真理+TUP訳『ガザ通信』青土社  

本書は、2008年12月27日から2009年2月19日までの間にガザのアル・アズハル大学の教授であるサイード・アブデルワーヘドさんが空爆下のガザから発信し続けたメール37通と停戦後に送られた10通のメールを訳出したものです。

日本ではこの攻撃についてはもちろん、パレスチナ情勢については大きく報道されることはありませんでした。米国への配慮からでしょうか。米国は他国に人権侵害がどうのとかすぐに文句をつけたがりますが、文句を言う先は米国に楯突く国ばかり。イスラエルは特別待遇。イスラエルが何をやろうと、核兵器を持とうと知らんぷり。

日本なんて同盟国として一所懸命おべっか使って土地もお金も上納しているのに、米兵が日本でやりたい放題やっても文句も言えない。人権尊重が聞いてあきれるわ。鳩山新首相ががちらっとアジア重視と言っただけで「日本はああするべきだ、こうするべきだ」って大騒ぎ。同盟国じゃなくて植民地。え、日本人は人間じゃなくて家畜だ?そうかもしれませんね。

本書では触れられていませんが、この攻撃はちょうどブッシュ政権からオバマ政権への橋渡しの時期に行われました。一説には「イスラエルには手を出すな」というオバマ政権への警告だったとも言われています。どうだったのでしょうか。  

反テロリズムという錦の御旗の下で行われるテロリズム。物事は一面からだけでなく、あっちこっちから眺めてみましょう。大マスコミの報じる見解とはまた違った一面が見えてくるかもしれません。思考停止をしていると家畜になっちゃいますよ。

ぜひご一読を。  

臼杵 陽イスラエル』岩波新書 

イスラエルと言う国の成り立ちについてイスラエル寄りでもなくパレスチナ寄りでもなくバランス良くまとめられている、という書評を読んでパレスチナ問題の背景を探る教科書として本書を読んでみました。

本書を読むと、ユダヤ人イコールイスラエル人ではないことが分かります。イスラエルの人口の二割はイスラエル建国以前から住み続けるアラブ系住民ですし、ユダヤ人自体も東欧やロシアから来た「白人」、エチオピア系の「黒人」まで様々だそうです。宗教もユダヤ教、キリスト教、イスラム教、その他とさまざま。ユダヤ教にしても世俗的なものから超正統派(いつも真っ黒な服を着てる方々ですね)まであり、ユダヤ教徒の間ですら緊張があるそうです。

それでは何がイスラエルの一枚板の超強硬政策を支えているのでしょうか。その一つの答えがホロコースト「神話」の利用だそうです。「ベングリオン初代首相に代表されるイスラエル独立に携わった建国第一世代のシオニスト指導者は、ホロコーストの犠牲に対しては、祭祀のために犠牲に捧げられる羊のように死に赴いた消極的行為とみなして、パレスチナにおける自分たちシオニストの勇敢な戦いとの間に一線を画した」そうです。高く評価していなかったのです。ところが様々な出自のユダヤ系イスラエル人を統合するため、1960年代からホロコーストは国民統合のシンボルへと昇格していったのです。ここら辺についてはノーマン・G・フィンケルスタインの『ホロコースト産業』をお読みください。

著者の臼杵さんはアラブ研究からイスラエル研究に入られた学究の徒です。従って、イスラエル、アラブ双方への目配り利いた書き方がされています。イスラエルの基本情報を知るための一冊でした。

 

2009年9月

菊池 英博消費税は0%にできる』ダイヤモンド社

以前『増税が日本を破壊するをご紹介した菊池さんの新作です。

菊池さんは今の世相を「一九三〇年代の半ばから日本で軍部の力が強くなり、マスメディアが政府と軍部の支配下に置かれて、「戦争へ、戦争へ」と国民を駆り立て、四〇〇万人の国民が犠牲になった状況に酷似している」。と憂慮しています。当時「戦争反対」なんて言ったら非国民扱い、治安維持法でしょっ引かれて拷問死。「現在の日本では、まさに当時の「戦争へ、戦争へ」が「財政危機だ、大変だ!消費税引き上げだ、引き上げだ!」に置き換わっている」と憂慮しています。

本書のポイントは(以下表紙裏からの引用)、

      消費税引き上げは「法人税引き下げ」のため。「社会保障」のためではない

      消費税の引き上げは「構造改革」のツケ

      消費税を引き上げれば「国民所得」は半減する

      「財源不足」というウソに騙されるな

      財政赤字の原因は医療費の増加が原因ではない

      日本に財源はいくらでもある

      政策を転換すれば、消費税はゼロにできる

とにかく「構造改革」が始まって以来日本経済にも日本国民にも良いことは何もなかった。なぜそれを認められないのでしょうか。思考停止でアメリカ従属の市場原理主義に固執しているだけでは何も良くなりませんよ。

細かい分析は本書をお読みいただきたいと思いますが、問題は日本国政府はなぜ国民を騙してまでこんな政策を採用しているのか、です。ずばり宗主国への貢物。郵政民営化で郵貯と簡保を宗主国へ。次は医療改革で病院を破たんさせ、宗主国へ。ま、ここら辺の経緯については以下にご紹介する本を参考にしていただきたいと思います。

本書ではレーガン政権下でガタガタになった米国経済を立て直したとしてクリントン政権は評価されていますが、悪名高い「対日年次要望書」が始まったのもクリントン政権。何だかんだ言ってもオバマ政権だって狙っているのは日本人の金ですよ。だから中国の人権弾圧にだって最近がたがた文句言わないでしょ。日本人のお金は日本人のために使わないと。宗主国に貢いでいるだけじゃ、いつまでたっても日本の景気は良くならないですよ。

「構造改革」なんてのがまやかしであったことを明らかにしてくれる一冊。ぜひご一読を。

副島 隆彦日米「振り込め詐欺」大恐慌』徳間書店  

2012年にはアセンションが起きるとか言われています。副島さんはそれまでの3年間に「米国債とドルの大暴落でこれから「アメリカ発の世界恐慌」が始まる」、「NYダウ平均は3000ドル台へ、そして日経平均は4500円を割り込む」、「NPO法人が激しく損失を出して潰れていく」、「日本も緊急の金融統制体制(「預金封鎖」に追い込まれる)」、「金(ゴールド)もいずれ買えなくなる」と予言しています。ま、これ全部が本当になるのではないかもしれませんが、結構当たっているのではないでしょうか。だとしたら、トンデモ本ではなく、まともに読むべき一冊なのではないでしょうか。

副島さんは「まえがき」で「“アメリカ発の世界恐慌へ”は、 経済(学)(エコノミックス)の 領域(カテゴリー)ではなく、実は歴史(学)(ヒストリー)の領域である。経済学などよりももっと大きくて長い時間での考えだ」と書いておられます。まさに同感。昨今の不況は百年に一度の不況だから大変なのではなく、パクスアメリカーナの終焉を告げる、大きなパラダイム・シフトが起きようとしているから大変なのです。

副島さんは、オバマ大統領は2年で辞任、ヒラリー・クリントンが後継大統領になり、「“ヒラリー・ファシズム”と呼ばれる統制体制を敷く」とも予言しています。私もヒラリーって大嫌い。日本人なんて馬鹿だけど脅せば金を都合してくれる下僕ぐらいにしか思ってませんよ。 今までも散々アメリカ様には貢いで来ましたよ。本書は最悪のシナリオなのかも知れません。でも、話半分だと思って読んでも大変なことが起きそうです。

太平の眠りを覚ます上喜撰のような一冊。今般の金融危機はアメリカの頸木から逃れるための絶好のチャンスかもしれませんよ。ぜひご一読を。

佐高 信小泉純一郎と竹中平蔵の罪』毎日新聞社

ご存じ辛口評論家の佐高さんがさまざまな媒体で発表した記事をまとめた著作です。表題にもなっている二人のほか、多くの著名人をぶった切っています。それだけでなく、抵抗人名録として佐高さんが評価する人物評も掲載されています。

最近読んだ新聞の投書欄に、最近の政治状況は「劇場型政治」と言われているけれど、あれは「CM型政治」だと指摘しているのがありました。内容はともかくとして、とにかく印象に残るフレーズを連呼しているだけだと。なるほどねえ。小泉純一郎元首相はこのCM型政治を100%活用した政治家でした。古くはヒトラーなんてのが同じパターンを利用してましたね。しかし、そんな政治手法がまかり通るのは騙される人間がいるから。佐高さんの本を読んで溜飲を下げるだけでなく、選挙権を持つ大人として政治に関心を持ち、国民のための政治を忘れ政争にうつつを抜かす政治家、己の保身にしか関心のない役人に対してモノ申そうではありませんか。

広瀬 隆資本主義崩壊の首謀者たち』集英社新書  

古くは『赤い楯などで有名な広瀬さんの著作です。『赤い楯』が出版されてから20年近く経っているはずですが、広瀬さんの言っていることは変わっていません。というか、『赤い楯』のころは眉唾だと思われていた金融支配の実態なども、実は本当のことであったのが分かって来た、というところではないでしょうか。

本書にはノーベル経済学賞受賞者を含めた「資本主義崩壊の首謀者たち」の写真が多数掲載されています。皆が皆、実に人相が悪い。卑しい顔をしています。ノーベル家の子孫たちも「ノーベル経済学賞などというものは、アルフレッド・ノーベルの遺書にはなかった。スウェーデン中央銀行が勝手に創造したものであり、ノーベル賞ではない。人類に貢献しない」って言っているそうです。人類への貢献ではなく、自分の懐に貢献することばっかり考えてたんですね、きっと。

以前、私の書評でバブル崩壊を短期間で修復する方法はない、と書きましたが、広瀬さんは1つだけ禁じ手ではありますが方法があると指摘しています。それは、再度バブルを引き起こすこと。これ、本当です。そして、アメリカは政策的にバブルを引き起こしている(過去何度も)とも指摘しています。オバマ政権だって次のバブルを用意していると。次のバブルはグリーン・バブル。

次のバブルを起こすにもお金がかかります。どこから調達するか?狙われているのは植民地日本。たちの悪いやくざと同じで「これが最後」とか言いながら、絶対に縁を切らさせない。広瀬さんは一切の金融支援を拒否しろと言っています。そんなことが植民地政府にできるでしょうか。ここ数年が正念場です。

ベンジャミン・フルフォード闇の支配者に握り潰された世界を救う技術』ランダムハウス講談社 

フルフォードさんは

「ガンやエイズが感知する治療法」

「寿命を千歳まで延ばす技術」

「水で走る自動車」

「電源もメンテナンスも要らない照明」

「記憶力を飛躍的に高める薬」

「どこからでも電気を取れるコンセント」

「地球上を瞬時に移動するマシン」

などはすでに発明されているのに、「闇の支配者」によって握りつぶされていると主張しています。ま、いわゆる陰謀論ですか。なぜ握りつぶされたのかというと、利権の問題。今儲かっている産業を潰すような発明は世に出さない。どんな利権かと言うと、石油・製薬・軍需だそうです。確かに金持ち会社が多いわ。

そう言えば豚インフルエンザだって変な流行り方したもんね。新型なのにリレンザとかタミフルが効いたし。

フルフォードさんは今回の金融危機によって「闇の支配者」の支配が終わり、新しい時代が始まることを期待しています。その時には日本の技術が世界で使われるようになるんですって。そしたら私も新しい仕事を見つけられるかな。

 

2009年8月

楡 周平ワンス・アポン・ア・タイム・イン・東京  講談社

以前『陪審法廷を読んで面白かったので、楡さんの最新作の小説を読んでみました。

岩手の母子家庭から必死の思いで東大法学部に進み、官僚となって権力に近づこうとする岡内眞一郎。静岡の裕福な家庭で育つもその裕福さに反感を募らせて育ち学生運動にのめりこむ依田美佐子。依田美佐子は岡内眞一郎をオルグしようとしましたが失敗。美佐子自身も安田講堂で逮捕、挫折。いちご白書をもう一度。

それから30年の歳月を経て依田美佐子こと有川三奈は大病院の経営者、そして長男の崇は大蔵省のキャリア官僚になっています。岡内眞一郎こと白井眞一郎は与党の大物政治家になっていました。眞一郎の長女尚子と崇の縁談が持ち上がります。再会した二人を中心に、さまざまな人物が関わる一大国盗り絵巻が繰り広げられていきます。

といった物語ですが、さまざまな分野における日本のエリートたちの生態がこってりと描かれています。こってり、ごってリ、これでもかって。まあ、私とは関係のない世界ですが。

エリートに付き物ってわけで登場人物の皆さんやたらめったら高級ワインを開けます。それもシャトーなんちゃらの年代物。そういや最近、投資対象が無くなっちゃって高級ワインの値段がガンガン上がってるって新聞に出てました。ワインねえ。私なんかああいうコスト・パフォーマンスの悪いアルコール(アルコール含有量対値段です)は口にしません。いっつも焼酎。自慢になんないなあ。

ところで、崇君って生牡蠣が大好きみたいなんですけど、いっつもシャブリを合わせていますね。絶対に良い日本酒の方が合うと思いますよ。あと、貝類って大体において生より少し熱を通した方が美味しいと思います。牡蠣だと開いてそのまま焼いちゃう磯焼きとかね。牡蠣の炊き込みご飯もいいなあ。本文とは関係のないお話でした。

 ジェラルド・カーシュ 駒月雅子訳『犯罪王 カームジン』角川書店 

 チャーチルもファンだったというユーモア・ミステリの名手カーシュの、犯罪王カームジンを主人公にしたものを中心とした短編集です。作者のカーシュそのものがかなり変わった人生を送った人だったようです。若い頃はパン屋、レスラー、ナイトクラブの用心棒、新聞記者などの職を転々としてそうです。その頃の経験が本書の執筆にも遺憾なく生かされています。

自称 「犯罪の天才」 のカームジンは、「ぱりっとした青いサージのスーツに包まれた、そびえるような胸と測定不能の太鼓腹。ごついいがぐり頭。でかい赤ら顔」の迫力満点の老人。数々の完全犯罪を成し遂げてきましたが、なにしろ完全犯罪だから捕まるようなドジは踏んだことが無い。本当か?ま、やぼは言いっこなしでカームジンのお話を楽しみましょう。

英国人のユーモアってのは彼らの使う特殊な英語(ジェントルマンの英語には聖書や教養として習う中世の英語、ラテン語、ギリシア語、それらで書かれた古典やおとぎ話の知識、その他もろもろが含まれています。日本人じゃ知るわけ無いよな)を良く知っていないと今ひとつ分かりにくいのですが、本書は翻訳もこなれており、その面でも不安なく大笑いしながら読める仕上がりになっています。

マシュー・クライン 澁谷 正子訳『キング・オブ・スティング』早川書房 

 私の大好きなコン・ゲーム物。詐欺師のお話です。私のサイトでもいくつかご紹介してきましてが、大体の場合、詐欺師ってのは格好よく描かれています。でも本書の主人公はごま塩頭のでぶ親父。しかもムショ帰り。カームジンと違ってドジ踏んで捕まったんだな。

おまけに作者のクラインさんの経歴もすごい。一応スタンフォードのビジネス・スクールに通っていたようですが中退。その後10年ほどをシリコン・ヴァレーで過ごしたようですが、「いくつものテクノロジー企業を立ち上げるが、全て倒産した」。最近じゃ上場詐欺とか起業詐欺とかドット・コム詐欺ってあるもんね。現在も金融関係のソフトウェアを開発する会社を経営する傍ら小説を書いているそうです。デビュー作の主人公はヘッジファンド・マネジャーが次々とトラブルに見舞われるミステリーだったそうです。リアリティーあり過ぎ。本書でもシリコン・ヴァレーに巣食う人種の生態が詳しく描かれています。そしてさまざまな詐欺の手口も。ご丁寧に詐欺に関する参考文献まで載ってます。しかし何ですね、詐欺の基本原則はただひとつ。カモのスケベ心を煽るだけ煽ること。そして儲かったら逃げろ。何やらヘッジファンド・マネジャーの相場哲学のようだな。

なんだかんだ言っても楽しく読める一冊でした。 

ジェームズ・ロリンズ 桑田健訳『マギの聖骨 竹書房 

数々のベストセラー小説を放って来たロリンズさんの「シグマフォース」シリーズの第一作です。お話はダヴィンチ・コードの舞台を007が活躍するって感じでしょうか。野暮なストーリー紹介はやめておきましょう。

シグマフォーストとは米国国防省に科学技術分野における米国の優位を保護し,維持する目的で結成された、第一級の科学者の頭脳と第一級のコマンドの肉体を持った精鋭たちからなる機密部隊です。天才的頭脳とランボー張りの肉体を持ち、しかも国家に従順な兵隊。あらま、マインドウォーズ――操作される脳』でご紹介した世界ではありませんか。

ところで、題名にもなっているマギとはキリストの生誕を聞きつけて東方からお祝いを持って来た三人の博士のことです。そう言えば、ロリンズさんも獣医学の博士、私も経営学の博士。そう言うと博士のありがたみが減ってような感じがするなあ。マギという言葉はゾロアスター教の神官に由来するとも言われていますが、皆さんご存じのマジックの語源でもあります。本書にもその類の無駄な知識や新種の兵器のお話が散りばめられています。液体防弾スーツ、m状態の金属。無駄ではありますが、知っていると会話がはずみます。きっと。

また、007には良い女がつきもののように、シグマフォースのお話にも極めつけの良い女が登場します。美人で身体能力にも優れ、しかも頭脳明晰。ロリンズさんの好みでしょうか。ご期待あれ。

ま、つまらない背景を知らずとも読み進められるエンターテイメントに仕上がっています。お時間があるときにどうぞ。

ダン・ブラウン 越前敏弥・熊谷千寿訳『パズル・パレス 角川文庫  

『ダ・ヴィンチ・コード』で世界的ヒットを飛ばしたブラウンさんのデビュー作です。舞台は世界最大の情報組織、アメリカNSA(国家安全保障局)の暗号解読課。

主人公はNSA暗号解読課主任のスーザン・フレッチャー、IQ170の天才にして男を振り向かせずにはおかない美貌の持ち主。彼女の婚約者がジョージタウン大学最年少の教授にして語学の専門家、しかもスカッシュの名手で身長6フィートのイケメン、デイヴィッド・ベッカー。どうも私とは縁遠い二人を軸にお話は展開されていきます。ブラウンさんの作品としてご多分にもれず暗号に関する蘊蓄がてんこ盛りになっています。でも、デビュー作だってことがばれちゃうのは、犯人の天才プログラマーの名前。日本生まれの日本人で母親が広島で被爆していた、なんて妙に詳しく書かれていますが、名前がエンセイ・タンカド。どっちが名字だ?

我々の通信の安全を守ってくれる暗号のはずですが、ご当局にとっては非常に不安。小市民を装ったテロリストが通信手段にしているかもしれないし。そもそもご当局にとっては小市民なんてのは閑居すれば不善をなす存在としか認識していない。だもんで監視対象。暗号なんてのは作る奴が居りゃ、それを解読する奴もいる。国家が自分ごとき小市民のメールなんかに興味を持つもんか、なんて思っていると、いついつどんなポルノサイトを見ていたか、なんてことまで筒抜けになっちゃいますよ。

 

2009年7月

中谷 巌資本主義はなぜ自壊したのか』集英社インターナショナル

「構造改革」の旗振り役であった中谷さんが昨今の世界の状況を見かねて書かれた懺悔の書です。アホ、気づくのが遅い、とも思いますが、何の反省もしない、それどころか昔とはまったく逆のことを平気な顔して言ってるやつもいるもんね。反省するだけましか。大体、前に言ってたことは間違いでした、なんて正直に文書にする奴なんて滅多にいませんからねえ。だから「衝撃的な告白」なんて書評に書き立てられちゃうんでしょう。

本書に書かれている中谷さんの考え方は、「まえがき」に書かれている次の文章によって端的に表わされているでしょう。「「改革」は必要だが、その改革は人間を幸せにできなければ意味がない。人を「孤立」させる改革は改革の名に値しない」。この文章において「改革」を「グローバル資本主義」と言い換えても意味が通ると思います。構造改革が理論的に正しいかどうかなんて問題じゃないんですよね。問題はその結果日本人は幸福になったかどうか。一部においしい思いをした人たちがいたことは間違いないでしょうが、不幸になった人の方が圧倒的に多数、なんじゃないでしょうか。

とは言え、中谷さんは構造改革の全てが間違っていた、と言っているわけではありません。例えば「戦後日本経済の活力を奪いつつあった既得権益構造の打破などに関しては、今でも私は自分の主張は正当なものであったと信じている」そうです。私もその通りだと思います。問題はアメリカかぶれになって何でもかんでもアメリカ流の新自由主義的な思想を最善のものとしてしまったところにあるのではないでしょうか。新自由主義的な思想というのは単なる思想というより、宗教やイデオロギーの類いだと思います。アメリカってのは理念主導の原理主義国家ですからね。異論は許さない。アメリカに反対する奴は悪魔の味方かテロリスト。で日本政府が行った政策はアメリカ様の言う通りに「とにかく小さな政府で規制緩和をすればよい」というもの。結果、戦後日本を支えてきた「一億総中流社会」がぶっ壊れてしまいました。中谷さんは「民主主義も近代経済学もエリート支配の「ツール」だった」と喝破しています。

さらに、中谷さんは「アメリカ主導のグローバル資本主義は自壊しはじめた」とも書いています。私も、現在の不況が大きな意味を持っているのは単に景気が悪い、というのではなく、ここ百年続いてきたパクス・アメリカーナ(というか米国の覇権)が終わろうとしているからだと思います。大きな時代の変わり目ですので、単なる景気対策ではなく、この次の時代を見据えた長期的展望とそれに基づいたグランド・デザインが求められているのです。

中谷さんはバランスの重要性を説いておられます。グローバル資本主義は行きすぎました。しかし、かつてのケインズ主義だって行きすぎたのです。大切なのはバランス。中庸の徳です。でも、バランスを取るにはフィードバック機能、普通の言葉でいえばうまく行かなかったら止めるか軌道修正する反省機能が必要です。

私たちはそんな知恵を備えた時代に移行できるのでしょうか。  

ポール・クルーグマン 三上義一訳『格差はつくられた』早川書房

中谷さんの上掲書でも引用されている本書ですが、中谷さんとは違いクルーグマンさんはグローバリゼーションそのものを否定しているわけではありません。そうではなく、アメリカを悪くしたのは「保守派ムーブメント」だとしています。「保守派ムーブメント」とは何か、は本書をご覧ください。

バブル崩壊後の日本にあれこれと文句をつけていたクルーグマンさんですが、最近ではアメリカにも文句をつけています。本書の発表は2007年ですので、昨今の不況については触れられていませんが、最近新聞紙上でオバマ政権の景気対策は失われた10年の日本政府の景気対策よりイモだって言ってんのを見ました。だから私は前から、日本の失われた十年とか言ってるけど、あれはあれで良かったんじゃないかって言ってるでしょ。欲の皮突っ張らかして失敗しちゃったんだから、元通りにするにはもう一回バブルを起こす以外には無いんだって。でもバブルはごめんでしょ?だったら時間をかけて少しずつ回復を図るしかないんだって。

中谷さんの著書とは違い、本書ではグローバル資本主義ではなくグローバリゼーションという言葉を使っています。いくらリベラル派とは言え、ノーベル賞を受賞したアメリカの著名エコノミストが資本主義そのものを否定する訳にはいかなかったのでしょう。

クルーグマンさんは本書で人種差別を背景とする「保守派ムーブメント」は終焉を迎えつつあり、その結果として民主党の大統領が当選するだろうと予言しています(原書の出版は2007年、そして原題は「The Conscience of a Liberal」)。確かに初のアフリカ系大統領であるオバマ氏が当選しました。しかし、本当にアメリカ人(リベラル派)の良心は目覚めたのでしょうか。アメリカ人ってのは筋金入り、カッチンコッチンの石頭ですからね。

リー・ストロベルの『ナザレのイエスは神の子か?「キリスト」を調べたジャーナリストの記録』 に書かれているように、つい最近まで45%のアメリカ人が「人類はおよそ1万年前に神によって創造された」と回答し、「聖書に書かれた言葉は神が実際に言われたことで、一言一句そのまま解釈すべき」と回答したアメリカ人がアメリカ全体の1/3を占めていたんですよ。クルーグマンさんは「エイズは不道徳な性的行為に対して神が与えた罰だ」と信じていた人の割合が1987年の43%から2007年には23%に減少したと喜んでいますが、その程度のことを自慢されてもねえ。いまだに国民の1/4が神の罰だって信じてるってことじゃないですか。百歩譲ってアメリカ国民に対して少しはやさしい態度を取るようになったのだとしても、外国人に対してはどうでしょうか。最近のクリントン国務長官来日時の言動などは、植民地の行政官相手に指示をしているとしか思えませんでしたけどね。

アメリカ人は本当に反省しているのか?もしそうでないなら、次の手をちゃんと考えておかなきゃ。

 

田中 隆之「失われた十五年」と金融政策』日本経済新聞社  

著者の田中さんは長らく長銀調査部に勤められ、最後は長銀証券投資戦略室長チーフエコノミストでした。その後教育界に進まれ、現在は専修大学経済学部教授です。その経歴からも分かるとおり、本書は中立的スタンスで日銀の政策を評価しています。

昨今の経済危機を受け、同じような信用バブルの崩壊を体験してきた日本の経済運営について注目が集まっています。日本のバブルが崩壊したときにはああしろこうしろと威勢よく騒いでいた面々までも最近では日本の経済政策を評価するような発言をしています。別に日本のやったことが変わった訳じゃないのにね。

そう言えば、量的緩和政策の採用が話題になったころ、ある外資系情報会社のケーブルテレビ(ロ×ターテレビ)に出演した時、キャスターの女性に非不胎化介入政策を採用すべきではないか、と聞かれました。私はそんなことをしてもブタ積みが増えるだけで、アナウンスメント効果以上は期待できないと答えました。言葉を換えて二度も聞いてきたところをみると、違う答えを期待してたんでしょうね。二度と呼ばれませんでしたよ。でも、私の言ってたことのほうが正しかったじゃん、ふん。田中さんも指摘しているとおり、この時期日銀はベースマネーの供給を増やしましたがマネーサプライはほとんど増えませんでした。つまりこの政策には効果がなかったということです。

バブル崩壊のときって何だかんだ言っても今よりは不況の度合い、というか巷における不況度ってのは今よりはましだったんじゃないでしょうか。そういえば10年前も失職して半年ほどプーだったな。でも、今ほど職安に人があふれかえったりはしていませんでしたよ。今じゃ改革路線を突っ走ったおかげで社会的セーフティー・ネットはズタズタ、日本の美点であった社会的安定とか信頼感までぶっ壊れちゃった。市場原理主義者、ってよりアメリカ原理主義者の罪ってすごく重いんじゃないですかね。

総じて田中さんは当時の日銀の政策が妥当であったと評価しているように思います。要は、日銀が何かをやった(あるいはやらなかった)だけでバブル崩壊がチャラになるなんてことはあり得ないってことではないでしょうか。本格的な検証は昨今の不況が収まり、世界各国において採られた政策の事後検証が可能になってからなのかもしれません。もっとも、そのころには世界の経済そして覇権体制が大きく変わっているかもしれませんよ。

日本の金融政策をたどるには好適な一冊。現日銀総裁の白川方明さんの書かれた『現代の金融政策と併せてご一読を。

 

松浦 武志-改定新版- 特別会計への道案内』創芸出版

霞が関埋蔵金論争で一躍注目を浴びた特別会計の概説書です。平成16年に初版が出版され、昨年改定新版が出版されました。松浦さんは私も以前ご紹介したことがある河村たかし議員(最近名古屋市長に当選されました。おめでとうございます)の政策秘書を務められています。なるほどこれぐらいしがらみのない人じゃなくちゃこんな本は書けませんよね。

特別会計ってのはとにかく訳が分からなくて、政府でさえどれくらいの規模があるのかはちゃんと分かんないんじゃないでしょうか。だって、埋蔵金なんてついこの間まで政府は「そんなものはない」って言ってたのに、最近では埋蔵金を当てにした予算を組んでいるじゃないですか。もちろん手間と暇をかければ分かるのでしょうが、そんな事をすると都合の悪いことまでばれちゃうので、知らないふりしてる。で、松浦さんが書いた。

一般会計予算の歳出83兆円(平成20年度)のうち、税収でまかなわれているのは53兆円にすぎず、残りは国債という借金でまかなわれている、だから日本は大赤字だ、と説明されていますが、我々が支払っている税金は53兆円しかないのか、と言うと実はそうではないのです。ガソリン税など特別会計に直接入る税金は53兆円の税収には含まれていないのです。

それでは特別会計と一般会計を合わせた予算規模(歳出)はどのくらいなのでしょうか。松浦さんは約213兆円、GDP527兆円の4割を占めると推計しています(平成20年度、地方の歳出も加えると5割超)。この213兆円をキチンと査定しない限り無駄遣いはなくならないのです。

何しろ特別会計ってのはジャイアンみたいな性格をしていて、赤字の時は一般会計から補填してもらえるのに余っても内部留保にしちゃって返さないんだそうです。お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの。

財政破綻だ増税だって言う前に無駄遣いを無くせって。

問題は大きい政府か小さい政府かではありません。私たちが求めているのは良い政府です。日本の未来、国のかたちを議論する前提として皆さんにも是非読んでいただきたい一冊でした。

 

2009年6月

湊 かなえ告白』双葉社

湊さんのデビュー作です。

我が子を校内で亡くした女性教師が、終業式のHRで犯人である少年を明らかにするという場面から始まります。でも警察には届けてはいない。その代わりに……。そして級友や犯人の独白の形で事件の真実がその後起きるさまざまな事件とともに明かされていきます。独白という形式を取っていますので、他人には絶対に理解できない各人の心の内なる思いが次々に明らかにされて行きます。ここから先はネタばれになりますので省略。でも、思いがけない展開に一気に読了することは請合います。

いやあそれにしても学校ってのは小説の格好の舞台になるもんですね。誰だって学校に通った記憶はありますし、自分の子供などを通じて大人になってからも何かと関わりが続きます。学校に関わりのある人ってのは結構な人数になるのではないでしょうか。だもんで教育に一家言ある人は多くいるのでしょう。でも、多くの人は自分の目に映った学校しか知らない。だもんで意外に広くそして深くは知られていない。本書にも学校に対して一方的な見方をしている登場人物が多く描かれています。

本作品はミステリ小説ですので、思想信条がどうのこうのというものではないはずですが、描き分けられた各人の独白を読み進めるうちに、いろいろなことを考えさせられる一冊でした。あっという間に読了してしまいました。ぜひご一読を。

ダニエル・ケールマン僕とカミンスキー』三修社 

以前『世界の測量でご紹介したケールマンさんの著作です。邦訳では順番が逆になりましたが、ドイツでは本書の方が先に出版されました。ケールマンさんは本書で作家としての名声を確たるものにしたのだそうです。

前作を紹介したため、出版社の方からケールマンさんの新しい本が出ましたと連絡をいただきました。そうか、出版社では私の書評まで見てるんだ。ま、見てるだけで本をくれた訳ではないですけどね。

本書の主人公は無名の美術評論家ツェルナーとマチスの最後の弟子であり、盲目の画家と呼ばれたカミンスキーという人物。ツェルナーは芸術大学の受験に失敗し別の大学で美学を専攻したという挫折経験を持っています。経歴からは何やら斜に構えた人物を思わせますが、本書のツェルナーは世界中の女は自分に惚れてると勘違いしてる、自意識過剰でイヤミな人物として描かれています。カミンスキーもマチスの弟子と言いながら、本当だかどうだか。

お互いを化かしあう気色悪い二人のロードムービー風小説、というと読む気がしなくなってしまいそうですが、ケールマンさんの手にかかると何やらユーモアあふれるお話に仕上がっています。『世界の測量』にも通じる意外にもさわやかな読後感の残る一冊でした。 

阿刀田 高プルタークの物語 上 』潮出版社    

阿刀田さんお得意の古典をやさしく読み解いた作品です。堅苦しくないところが良いですね。会話だって、「ポンペイウスはどこへ逃げた?」「わかりません」「海かな」「そうでしょう」「行き先は、エジプトか、やっぱり」「多分、そうでしょう」ってな感じです。塩野七生さんの正統的な英雄伝と比べるとずいぶんとくだけています。でも砕け散っているわけではありません。

プルタークは帝政ローマ時代のギリシアに生まれた著述家です。阿刀田さんが採り上げたのは「対比列伝」として知られる古代ギリシア・ローマ時代の著名人たちの伝記です。対比列伝と言うくらいですから、ギリシアとローマの英雄ふたりをセットにして対比・比較しています。現在では第一級の史料としても使われているそうですが、プルターク自身は歴史史料として書き残したのではなく伝記として書いたと明記しているそうです。じゃないと伝説の英雄であるアテネを作ったテセウスとローマを作ったロムルスの対比なんて出来ませんからね。しかし、今から2000年近くも前に史料と伝記をきっちり区別する歴史認識があったんですね。いまだにこのふたつをごちゃごちゃにしちゃう馬鹿もいますからねえ。人間、ちっとも進歩していないわ。

対比列伝そのものは大変高名な書物で、シェイクスピアも収められたエピソードを使って「ジュリアス・シーザー」とか「アントニーとクレオパトラ」なんかを書いたそうです。

伝記ですので、プルタークは英雄たちに対する自分の評価も記しています。現代とは異なった時代感覚を背景にしている場合もありますが、どちらかと言うと今と変わらない場合の方が多いですね。人間、ちっとも進歩していないってことですね。本書ではさらに阿刀田さんの評価も時に厳しく時に優しく書かれています。

プルタークの原本とは異なり、本書に収められているのは2000年後の現在でも名が通っているような英雄ばかり選ばれています。阿刀田さんの筆も冴え渡り、大変読みやすく仕上がっています。たまには俗世を忘れ、英雄たちが渡り合った歴史物語を紐解いてみるのも一興ではないでしょうか。面白かった。

 

繁田 信一かぐや姫の結婚PHP研究所

本書の主人公は藤原道長が栄華を極めた時代に右大臣まで務めた名門貴族にして政界の実力者であり、世に賢人右府とまで呼ばれた藤原実資(さねすけ)とその娘千古(ちふる)です。やんごとなき血筋の方々。源氏物語などに描かれた世界を本当に生きていた方々のお話です。実資は紫式部ともお友達だったんですって。

政界の実力者であった実資ですが、千古以前に娘を二人だか三人だかを授かったものの幼くして亡くし、55歳にして再び娘を授かりました。当時の55歳って世間的には相当おじいさんのはずですよ。やっぱりやんごとなき方々は良いもん食って精力もりもりたんでしょうか。何しろ実資、享年90歳だそうです。

それはともかく、年の離れた子供はかわいいと言いますが、実資は娘にめろめろだったようです。当時の娯楽といえばやんごとなき人々が折々に繰り広げる行列の見物だったそうです。なんとかランドのエレクトリック・パレードみたいなもんでしょうか。それまで政界の実力者である実資は行列見物などにはとんと興味を示していなかったようですが、千古にねだられるとホイホイと連れて行ったようです。それも、公務をサボってまで。さらには、上級貴族として貯めに貯めた財産もほとんど千古に生前贈与しちゃってます。成人した息子たちが4人も居たんですが、遺贈書に「文句つけんじゃねえ」って脅しをかましてます。それで、縁談なんかあると、準備万端怠りなし。でも、なぜか妨害が入ってうまくいかなくなってしまうことの繰り返しでした。良縁を願いすぎてつまんない縁談は潰しちゃったのか、心配で心配で口出ししすぎちゃったのか。

まあ、しかしですね、この実資さんの気持ちもよく分かります。私も娘2人の父親ですからね。こないだTVでとんねるずの石橋貴明さんが、娘がちゃらちゃらしたボーイフレンドなんぞ連れてきたら完膚無きまでにぶっ潰してやる、みたいなことを言っていましたが、まさに同感ですよ。実際にやるかどうかはともかく、気持ちとしてはね。

今も昔も変わらぬ親心。面白い一冊でした。

 

2009年5月

エーリッヒ・フロム 日高六郎訳『自由からの逃走』東京創元社 

今や絶滅してしまった左翼知識人御用達の『自由からの逃走』ですが、発行されたのは1941年アメリカにおいてでした。日本語訳が出版されたのは1951年、その後1965年に新版が出版されました。平成19年には何と115版と版を重ねています。

フロムさんが生まれたのは1900年ドイツ。青少年期にそのあまりの破滅性と残虐性から最後の戦争になると思われた第一次世界大戦を経験しています。戦争から開放され、抑圧から解放され、最終的に自由を手に入れたと思われたにもかかわらず、人々は何と積極的に自由を投げ捨て、ナチスやファシズムに道を開いたのでした。そして戦争はちっとも終わらない。

フロムさんはナチスに追われアメリカに亡命していますから本書がナチスに乗っ取られたドイツを念頭に置いて書かれたことは間違いないと思います。ただ、本書に描かれている『自由からの逃走』の類似事例は明治・大正期のデモクラシーの勃興を経て軍国主義一色に染まった日本、ファシズムとの戦いに勝利したにも関わらず赤狩りに明け暮れたアメリカ、人民革命を経験したにも関わらず依然として抑圧的な政府を受け入れたソ連や中国などにも見られます。

フロムさんは歴史を動かす力は社会経済的条件、イデオロギー、そして社会的性格であるとしています。今私が例として掲げた国々の社会経済的条件、イデオロギーはまちまちです。そうであるとすれば、『自由からの逃走』を求める動きの源泉は社会的性格に求められることになります。人類に共通する服従を求める本能的な欲求があるのでしょうか。

フロムさんはその源泉のひとつを人間の持つサド・マゾ傾向に求めています。マゾヒズムとは「苦痛や汚辱を意識的意図的に享楽する」ものであり、サディズムとは「他人(あるいは他の生物)を完全に支配すること」によって快楽を得ようとするものです。一見すると支配者と被支配者の関係ですので全く別個の両立し得ない性格のようにも思えますが、サドとマゾは実はある要求の表れに他ならないのだそうです。それは、「孤独にたえられないこと、自己自身の弱点とかから逃れること」です。サド・マゾヒズム的性格、などというとちょっと違ったニュアンスの性格(性癖)を思い浮かべてしまいますので、フロムさんは「権威主義的性格」と呼び変えています。

「権威主義的性格」といえば、上に対してはへいこらするくせにひとつでも年下だとやたらに横柄になる体育会的性格なんてのがぴったり当てはまるのではないでしょうか。やたらと権威とか伝統とかを重んじて改革とか目下の提案なんてものははなから馬鹿にして採り上げようともしない。そして自分からは何も考えようとはしない。確かに居るわそんなやつ。

人間のサド・マゾヒズム的性格に根ざす社会的性格は永遠不滅なものなのでしょうか。フロムさんはその克服を「民主主義的社会主義」社会の実現に求めています。曲がりなりにも戦後このような社会を目指してきたのが欧州社会です。その中でも、北欧の政治体制には学ぶべきところが多いように感じますがいかがでしょうか。スウェーデンの社会科の教科書を翻訳した『あなた自身の社会 スウェーデンの中学教科書など、ぜひご一読いただきたいと思います。私は感心しました。

必ずしも読みやすいとはいえない本書ですが、昔の記憶(あるいは歴史)がよみがえるような光景を目の当たりにすることが多い昨今、今一度読み返してはいかがでしょうか。

苫米地 英人洗脳支配』ビジネス社  

苫米地さんはカーネーギーメロン大学で博士号を取得された脳機能学者、計算言語学者、分析哲学者です。何のことだかよく分かりませんが。

苫米地さんは「奴隷の解放」を活動のテーマとしてきたそうです。ここで言う奴隷とは例えば自称宗教とかカルトが主だったわけですが、最近では本当の黒幕は「マネー経済」とか「資本主義」なのではないかと思うようになったようです。

奴隷を支配するには何らかの力が必要なわけです。暴力とか。最近ではより洗練されたテクニックとして洗脳テクニックが使われていると苫米地さんは指摘しています。奴隷が自分は奴隷であると気づかず、現状に満足するように操作しているわけです。不平不満を聞いていたらきりが無いとは言え、暴動なんかを起こされたら困りますからね。生かさず殺さず。

最近航空自衛隊のトップが何かと物議を醸すような論文を書いて更迭されました。確かにあれほど戦争万歳だった国民が戦争嫌いになったのはなぜでしょうか。戦後GHQWGIPWar Guilt Information Program)という作戦を徹底、日本人に戦争犯罪人としての罪の心を刻み込んだことは公文書にも残っているそうです。アメリカによる洗脳支配です。

アメリカは日本人に対してだけ洗脳作戦を展開したのでしょうか?実はアメリカ政府はアメリカ人に対しても洗脳作戦を展開しています。原爆落としたのだって戦争を終結させるためだし。日本に原爆を落としたのは人体実験だと苫米地さんは指摘していますが、アメリカ政府は米国軍人をモルモットにした原爆実験まで行っています。ま、日本人は家畜でアメリカ人でもその他大勢は奴隷ってとこでしょうか。

日本を支配するアメリカですが、その背後にはヨーロッパが隠れていると苫米地さんは指摘しています。そして支配の道具はお金。

苫米地さんは預金よりも現物資産を持つことを薦めています。金とか。そしてもうひとつ薦めているのが自分の頭で考えること。思考停止は奴隷への第一歩ですよ。

ジョナサン・D・モレノ 久保田競監訳、西尾早苗訳『マインドウォーズ――操作される脳

科学の進歩には戦争が大きな関わりを持っていることは何度も指摘してきましたが、神経科学も例外ではありませんでした。具体的にはより従順かつ好戦的な兵士を育成するにはどうすればよいのか、どのように尋問すれば情報を聞き出すことができ、なおかつ転向させることができるか、などが研究されてきました。ま、ここら辺のテクニックはすでに実用化されています。そこで、次なる研究が着々と進められているのです。

「本書では、思考を読み取る技術、薬物や電子的手段による兵士の能力増強、脳から直接マシンに命令を贈るシステム、脳に致命的なダメージを与える薬物を搭載したウィルス、敵を殺さずに無力化する化学物質など、米国防総省国防高等研究計画局(DARPA)が研究する先端脳科学について分かりやすく解説する」。

さらっと書いてありますが、結構えぐい研究をしちゃっているではありませんか。平たく言っちゃうと、痛さなんか感じずに死のうがなんだろうが文句も言わずひたすら戦う高性能サーボークみたいな兵士を作るとか、大衆ががたがた文句を言わないように誘導するとか、変なこと考えてる奴がいないかどうか頭の中をチェックするとか、なんてことができちゃいますよ、ってことでしょ。それどころか、あなたが考えに考え抜いて思いついたはずのアイデアが、実は他人があなたの頭に植え付けた考え方だった、なんてこともあり得るわけです。

理論だけだったらどうってことは無いのでしょうが、実際に研究するとなると臨床試験が必要になります。つまり、人体実験。今でこそ人体実験などと聞くと即座に「とんでもない」という反応が返ってきそうですが、実は人体実験がとんでもないなどというのは第二次世界大戦後のことなのだそうです。ニュルンベルクの裁判でナチスの医師たちが行ったおぞましい実験を法廷で証言したことから、人体実験にもルールが必要(インフォームド・コンセントなど)だと認識されるようになったそうです。とはいえ、戦後すぐは人体実験なんて野放し。「人体がプルトニウムを排出する割合を調査し、放射能施設に勤務する人々の安全に役立て」るため、金属プルトニウムを注射するなどという実験も実際にアメリカで行われていたそうです。人体実験の被験者は「良心的兵役拒否者や、囚人、精神遅滞者」などから選ばれていたそうです。今だって本当に人体実験はやっていないんだかどうだか。

ガンダムみたいなモビルスーツだったらちっとは格好いいかなとも思いますが、脳にたくさん電極を埋め込まれた、ロボットに組み込まれた部品になっちゃうんじゃ嫌ですよね。でも偉い人たちがほしいのはそういうロボット人間。

怖いけど面白い本でした。  

W・ラフルーア、G/ベーメ、島薗 進編著、中村 圭志、秋山 淑子訳『悪夢の医療史

医学の進歩は人類にとって効能の方が害悪より勝っていたと言っても、おそらく異論はないのではないでしょうか。とは言え、現代の医学が過去に行われたとんでもない人体実験の結果に立脚していることもまた事実なのです。

本書では歴史的な経緯などを踏まえつつ、どのような研究であれば正当化されるのか、新たな規範とはどのようなものであるべきなのかを探っています。

本書の書き手はほとんどが医学関係者、理系の皆様です。従って、その考え方の基本は二元論にあるように思えます。あれこれの実験は正しかったか、間違っていたのか、とか。

しかし、医学の世界に起こるようなことでも、簡単に善悪で切り分けられるのでしょうか。最近では医学分野でも健康と病気、というのはすっぱりと二分されているのではなく、その間にグレーゾーンが広がっているとの理解が進んできているとも聞きました。精神異常だってあっちは異常でこっちは正常、というのではなく、健常者と異常者の間にはグレーゾーンがあり、はっきりとは分けられないというのです。あなただって私だって、大なり小なり異常な嗜好の一つや二つはあるんだ、ということです。PTAのおじさんおばさんには気に入らない考え方かもしれませんがね。

そんな中で著名な宗教学者である山折哲雄さんが書いている文章が、私には最もすんなりと読み進めることができました。山折さんは「病死や自然死に恵まれるような場合は断食してこの世におさらばしようと思っている。だから、ドナーカードを所持したりそれに署名したりする気にはさらさらなれない。延命治療なども真っ平ごめんである。脳死の判定も拒否する。臓器を提供する気など毛頭ないからである」。同感ですね。

本書に収録されている小松美彦さん(この方も医学者ではなく生命倫理学者)も「筆者がある米国の医学者と議論した折、彼は「自分は脳がその人であると思っている」と断言した。それに対して筆者が、「では、失礼ながら仮にあなたのお連れ合いが亡くなったとして、頭部からくり抜いた脳と、脳をくり抜かれた頭部ないしは遺体全体が並べられた場合、どちらをお連れ合いだと思いますか」と質したところ、その医学者は絶句した」と書いています。

私も、脳死なんて、生きの良い臓器を摘出するための方便のような気がします。そんなに簡単に臓器移植は良いことである、と言うのであれば、なぜ死刑囚の臓器を活用するのがそんなにいけないのでしょうか。本人の承諾が、という議論だけでは不十分だと思います。そしてその先にあるのは臓器売買。ここら辺は『中国臓器市場、『闇の子供たち』でご紹介しました。

ところで、山折さんも「捨身虎飼」の伝説に言及しています。私も手塚さんの『ブッダをご紹介した際に触れています。山折さんはいくつかの解釈を紹介していますが、最も共感しているのは「人間も、自然界の食物連鎖の環のなかに組み込まれている」ことを表している、という解釈なのだそうです。クジラやイルカを殺して食べちゃっても、ちゃんと慰霊碑を建てるのが日本人です。人間は命あるものを口にしなくては生きて行けない存在であるのですから。

私は21世紀の人類の課題は「いかに良く死ぬか」であると思います。人間の死には個人的、肉体的な死だけではなく、社会的な死も含まれます。自分だけ、ではないのです。さあ、良く死ぬにはどうすれば良いのか考えようではないですか。

 

2009年4月

清永 聡気骨の判決』新潮社  

2008年10月、横浜地裁は横浜事件に対する第4次再審請求に対し、再審開始を決定しました。横浜事件とは、第二次世界大戦中に起きた言論弾圧事件です。当時の司法当局が無能・無責任であったと言うよりは、軍・特高の暴力に大なり小なり屈したと言う方が真実に近いと思われます。横浜事件は特高警察のでっち上げだったと言われていますが、拷問による自白などを安易に認めあっさりと判決を下すなど、司法当局にも責任が無いとは言い切れないようです。

戦時中も選挙が行われましたが、政府に非協力的な候補に対しては露骨な選挙妨害が行われたそうです。選挙無効を訴えても認められるわけはありません。本書はそのような時代に唯一の「選挙無効」判決を下した裁判官吉田久の物語です。主人公の吉田久さんは何と裁判所で小僧さんを勤めながら勉学に励み、司法官(裁判官あるいは検事)になった立志伝中の人物だったそうです。

昭和17年の衆議院選挙では東条英機内閣が主導した「翼賛政治体制協議会」が候補者を選別、推薦していました。政府に楯突くような人間は推薦されません。さらに露骨な選挙妨害。推薦されなかった政治家には鳩山一郎、尾崎行雄、三木武夫、斉藤隆夫、大野伴睦、片山哲、二階堂進など戦後の政治シーンでよく目にする名前も含まれていました。しかし、それでも翼賛議員の当選率は8割くらい(466議席中381議席)だったそうです。意外に低いと思いませんか?官憲に睨まれたら何をされるか分からない時代です。官憲の干渉の度合いに地域差もあったのでしょうが、気骨のある有権者もちゃんといたんですね。

三権分立の原則の下独立を勝ち取ったかに思える戦後の裁判所ですが、現実はどうでしょうか。お上を訴えても勝訴の確立が極端に低いことは知れ渡っています。また、検察と裁判所は独立しているはずですが、刑事裁判では無罪になる確率は1%以下とも言われています。今でも国策裁判は行われているのではないでしょうか。

最後に斉藤隆夫が当時の東条内閣に対して行った反軍演説を引用しておきましょう。「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際主義、曰く道義主義、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくのごとき雲を掴むような文字を列べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことはできない」。

気骨を持って生きようではありませんか。 

加藤 哲太郎私は貝になりたい』春秋社

昭和33年、フランキー堺主演でテレビドラマ化された物語のベースとなった作品です。最近中居正広さん主演で映画化され話題になりました。著作権におおらかな時代だったのか、ドラマは加藤さんの著作をベースに大幅に翻案、加筆修正されていました。結構もめたみたいです。加藤さん自身の著作も、別名で発表されたり、身元を特定されることを避けるためにフィクションを交えたり、何人かのバックグラウンドを合成して書かれていたことも事態を複雑にしたようです。加藤さん自身はドラマの床屋さんとは違い、昭和23年から33年まで巣鴨プリズンに収監された後釈放されました。終戦後も戦争は終わっていなかったんですね。

有名な「狂える戦犯死刑囚」に出てくる遺言、「私は貝になりたい」の前の部分を長くなりますが引用させていただきます。

「天皇は、私を助けてくれなかった。私は天皇陛下の命令としてどんな嫌な命令でも忠実に守ってきた。そして日頃から常に御勅諭の精神を、私の精神としようと努力した。私は一度として軍務を怠けたことはない。そして曹長になった。天皇陛下よ、なぜ私を助けてくれなかったのですか。きっとあなたは、私たちがどんなに苦しんでいるか、ご存じなかったのでしょう。そうだと信じたいのです。だが、もう私には何もかも信じられなくなりました。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍べということは、私に死ねということなのですか?私は殺されます。そのことは、きまりました。私は死ぬまで陛下の命令を守ったわけです。ですから、もう貸し借りはありません。だいたい、あなたからお借りしたものは、支那の最前線でいただいた七、八本の煙草と、野戦病院でもらったお菓子だけでした。ずいぶん高価な煙草でした。私は私の命と、長いあいだの苦しみを払いました。ですから、どんなうまい言葉を使ったって、もうだまされません。あなたとの貸し借りはチョンチョンです。あなたに借りはありません。もし私が、こんど日本人に生まれかわったとしても、決して、あなたの思うとおりにはなりません。二度と兵隊にはなりません」。

加藤さんの妹さんが書かれた序文に面白い文章がありました。戦後地下に潜った兄哲太郎さんを探すため、警察の陰湿な追及が始まったそうです。「戦争に負けたのですから、進駐軍からの少々のお尋ねならまだしも、同胞である日本の警察からなぜこのような扱いを受けるのか絶対に納得できない腹立たしい思いを今に残しています」。市民を守る、なんてのは単なる建前だってことがよく分かります。

ぜひご一読を。

その他の関連書籍も紹介いたしましょう。

林博史『BC級戦犯裁判

橋本忍『私は貝になりたい』(ドラマ・シナリオ)

DVD『真実の手記 BC級戦犯加藤哲太郎 私は貝になりたい/中村獅童

 

内海 愛子キムはなぜ裁かれたのか』朝日新聞出版  

BC級戦犯などの問題を通して「戦争」と「戦後」に関して多くの問題を提起している内海さんの作品です。

戦前日本人であった朝鮮半島出身者(朝鮮人)や台湾人も天皇の赤子として戦争に協力することが当然のように期待されました。日本兵の人手不足から捕虜監視員に動員(軍属として)されたものも多く、その結果として戦犯に問われるものも多く出ました。連合国によるBC級戦犯裁判では、朝鮮人148人が有罪となり、23人が死刑になっているそうです。

朝鮮人の中には中将にまで出世した方も居たはずですですが、恐らく例外でしょう。日本軍で朝鮮人や台湾人の居心地が良いわけはない。戦時中もあまり良い待遇を受けたとも思われませんが、戦後はよりいっそう残酷な運命が待っていました。まず、戦争が終わると「日本人」戦犯としてスガモプリズンにつながれ、釈放された後は「外国人」として日本国からの補償や援護の対象からは外された上、「日帝の手先となって悪いことをした親日派の極悪人」として祖国でも迫害を受けたのでした。

日本の政府ってのは『私は貝になりたい』にも描かれているとおり、日本人に対してさえ冷たい仕打ちをしているぐらいですから、外国人、朝鮮半島出身者なんぞに補償するなんてことは、はなっから念頭になかったのでしょう。

朝鮮人・台湾人戦犯の多くが捕虜虐待の罪で裁かれたのですが、戦争中の捕虜の待遇とはどのようなものだったのでしょうか。「太平洋戦場において、日本の捕虜になったアメリカ・イギリス連邦の兵士132,134人のうち35,756人が死亡した(死亡率27%)」と東京裁判の判決は指摘しているそうです。これに対して、ドイツ・イタリアの捕虜となったアメリカ・イギリス連邦兵士の死亡率は4%だったそうです。第一次世界大戦の反省に立って捕虜の待遇についてはジュネーブ条約などが結ばれており、日本は批准してはいませんでしたが準用することを約束していたそうですが、実際には全部無視。戦争に負けたら捕虜は皆殺しにしちゃう計画もあったようです。

開戦後、海外からの問い合わせに対して日本国外務省は、日本はジュネーブ条約は批准しないが「準用」(英語ではapply mutatis mutandis)すると回答しました。mutatis mutandisって法律に出てくる用語ですが、かくかくしかじかの場合にはある条文を準用する(全く同じように適用します、ということです)場合に使われます。ところが外務省と軍部の間での解釈のすり合わせ、なんてことは全く行われず、ただ単に玉虫色の回答をとりあえずしただけだったらしいのです。戦争中は調査の依頼を受けても日本軍において不法越軌はないと回答していた日本軍も、ポツダム宣言の受諾後、付け焼刃で対策に乗り出したそうです。やっぱ分かってたんだ。お役人の縄張り主義、無責任体質ってのは全く変わっていませんね。

こういう戦争に関する条約はヨーロッパで発達しました。戦争に関するヨーロッパの基本原理は騎士道ですから、少なくとも当初は戦争が悪いという意識は無かったみたいです。そして、戦争に勝っても、負けた側を同じ騎士・戦士として処遇する、というのは当然だったようです。お互い様ですから。まあ、捕虜を虐待すると、今度自分が捕虜になったときひどいことになるから手加減するのでしょうが、日本軍においては「生きて虜囚の辱めを受けず」ですから、おめおめと生き恥をさらしている捕虜なんて虫けら程度だと思っていたのでしょう。日本軍には捕虜を適正に取り扱うなんて意識は微塵も無かったのです。ところが、戦後責任を追及されたのは末端で実行部隊となった個人。象徴的なA級戦犯はともかく、無茶苦茶な戦争指導を企画立案した大本営の高級将校たちへの責任追及は結局ほとんどありませんでした。

戦争の真実を知るための一冊。ご一読を。

もう一冊内海さんの作品をご紹介しておきましょう。

内海愛子『スガモプリズン   

曽野 綾子沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実WAC   

座間味島と渡嘉敷島における集団自決に日本軍の命令、強制があったかどうかについて訴訟が起こされ、高裁レベルまでの判決が下されました。2008328日大阪地裁及び20081031日の大阪高裁判決では座間味島と渡嘉敷島における集団自決において、日本軍が命令したとまで断定は出来ないが、集団自決には日本軍が深く関ったと認定しています。ただし現時点で判決は確定していません。

本書は1992年にPHP研究所より出版された「ある神話の背景」を改訂して2006年に出版されました。従って本訴訟に関る判決前に出版されたものです。

「沖縄では、集団自決の悲劇は軍や国家の誤った教育によって強制されたもので、死者たちがその死によって名誉を贖ったとは全く考えてもらえなかった。そう考えるほうが死者たちが喜んだのかどうか、私には結論づける根拠はない。」

曽野さんはユダヤ人の対ローマ反乱を機に起こったマサダの集団自決を例に引いて、ユダヤ人は自決した人々を「ユダヤ人の魂の強さと高貴さを現した人々として高く評価」しているとし、日本人もそのように集団自決した人々を評価するべきだとしています。そうすれば本当に死者たちは喜ぶんでしょうか。私にだって結論づける根拠はありませんよ。

しかし、集団自決をした人々は、本当に日本の「名誉を贖う」ために死んでいったのでしょうか。まあ、中には言ったことを本当に信じちゃっている人もいたでしょうが、本当に全員がそう思ったのでしょうか。自決したくないなんて言ったら集団自決をする前にリンチされちゃうかもしれないんですよ。言えませんよ。

曽野さんは戦後比較的に早い時期に実際に集団自決の場にいた方々にインタビューを試みています。現在となっては亡くなられている方も多いのではないでしょうか。曽根さんも指摘していますが、住民側の証言と軍関係者の証言が真っ向から対立している部分もかなりあります。何が真実かは今となっては分からないのかもしれません。

地裁判決では軍隊が駐留していなかったところでは集団自決はなかったとも指摘しています。駐留していた軍隊は若手主体でイケイケドンドン、威勢が良かったようです。実は一般住民もイケイケドンドン。なにしろ愛国教育を長年受けていましたからね。結局声がでかい奴の言うことが通っちゃう。

以前ご紹介した佐藤忠男さんは『草の根の軍国主義で「日本の軍国主義を成り立たせた条件」は、「他人の愛国心、忠誠心を覗き見し、監視するということに病的なまでの喜びを感じていた人たちがいたということです」としています。死なない限りその忠誠心を証明する方法がない。そう刷り込んだ軍国主義教育が怖い。

軍隊は一般人なんて守ってくれません。曽野さんも書いています。「軍隊は戦うために存在する。彼らはしばしば守りもするが、それは決して、非戦闘員の保護のために守るのではない。彼らは戦力を守るだけであろう。作戦要務令綱領には次の一文が明確に記されていた。「軍の主とする所は戦闘なり。故に百事皆戦闘を以て基準とすべし」」。

ひとつだけ確かなことがあります。戦争をやっても一般庶民に良いことはひとつもない。良いことがあるのはお金持ちとか政治家とか高級官僚とか高級軍人とかだけですよ。

 

2009年3月

小林 英樹ゴッホの復活』情報センター出版社  

現職の画家であり美術大学の教授でもある小林さんは『ゴッホの遺言、『ゴッホの証明』とゴッホの贋作追及を続けてきました。本作品はシリーズ最新作で最終作となるであろう作品です。

ゴッホは日本でも極めて人気の高い画家で、波乱万丈な人生を送ったことから小説などにも多く採り上げられています。私も高橋克彦さんの『ゴッホ殺人事件を採り上げたことがありました。

小林さんは本書でも日本にある有名なゴッホが贋作であると容赦なく暴いていますが、ゴッホの絵などは買う価値がないと言っているのではありません。そうではなく、真作を見ることによって、ゴッホの本当の素晴らしさを味わってほしいと思い本書を書かれたそうです。

まあ、芸術作品の真贋、そしてその価値を味わうには知識と経験、そして感性が要求されます。知識や経験は真贋を見分けるのに役に立ち、感性はその価値を見分けるのに役に立つことでしょう。でも、それじゃ素人の私たちは、どうやって絵を見りゃいいんだ?

だってピカソなんて工房みたいなところで大量に陶芸作品を作って最後にサインを入れただけだとか、キリコなんか、人の作品でも「これは良い作品だ、私がサインしてあげよう」なんてサインしちゃったって言われてますよ。もっともキリコの場合は、若い画家を援助するためだったらしいですが。

こんな場合、真作と贋作の境界はすごく曖昧です。それに、例え本人が描いたとしても、出来不出来があるのが人間ですよね。でも、今ではゴッホの真作だってだけで何億もするはずです。何億じゃ丸が一個足りないかな。そういえば、ゴッホのお葬式のとき、弟のテオは出席者に感謝の意を込めてゴッホの絵をお持ち帰りくださいといったそうです。今だったら大騒ぎですよ。ウン億円の香典返し。

小林さんは主にゴッホの絵の描き方、技術、さらには心情にまで踏み込んで戦災で消失した「芦屋のひまわり」や某保険会社が買って一躍有名になった「東京のひまわり」を贋作だとしています。「東京のひまわり」はシカゴ美術館の鑑定により本物とされています。小林さんは思いっきりシカゴ美術館の鑑定にけちを付けていますが、物理的に不可能であるような証拠、例えばルネサンス期とされる絵画にアクリル絵の具が使われていたみたいな指摘をしているわけではありませんので、私にはどちらとも判断がつきかねますね。

とは言え、売った画廊も所有者もホンモノの方が良いに決まってますよね。ニセモノってレッテルが貼られた瞬間二度と売れなくなっちゃうし、美術館に飾っとくわけにも行かなくなっちゃいますからね。ここら辺の複雑な大人の事情については小林さんも後記でちょっと触れています。もっとも、黙ってはいるものの何らかの理由で公開されなくなっちゃった作品ってどこの美術館にもあるらしいですよ。

まあ、それにしても芸術作品の価値を見抜くってのは難しいですね。専門家だってメーヘレンのフェルメールみたいに間違えることだってあるし。大体、ゴッホだって生前はちっとも評価されなかったんですよ。そう考えると、庶民は自分の気に入った絵を掛けてるってのが一番良いんじゃないですかね。私なんて、娘が描いた絵もちゃんと額縁に入れて飾ってありますよ。親にとっては価値があるって。どうせゴッホなんて買えないしね。 

ジェフリー・アーチャーゴッホは欺く  新潮文庫   

私も大好きな『百万ドルをとり返せ!を書いたアーチャーさんの作品です。ゴッホ続きでどうぞ。

アーチャーさんは29歳、当時史上最年少で下院議員に当選するものの、その後北海油田を舞台にした怪しげな投資話に乗ってすっからかん、議員も辞任。ところが、その詐欺事件を題材にした「百万ドルをとり返せ!」をベストセラーにして借金を返済しました。しかも初めから借金を返済のためベストセラーを書くつもりだったんですって。その後政界にも復帰。保守党の院内総務にまで上り詰め、将来の首相候補とまで言われました。ところが今度は娼婦との交際スキャンダルが発覚、あーでもないこーでもないと言い訳していたら偽証罪に問われ、刑務所にぶち込まれてしまいました。本書は出所後一冊目です。こんな人生を経験したアーチャーさんですから、書いたものが面白くないわけがない。本人もお金持ちで絵画なども収集しているそうですから、そこら辺の薀蓄もばっちり。

アーチャーさんは911の事件が起こったときこの本の構想を得たそうです。911の大混乱の中、物語は世界を股に掛けスピーディーに展開していきます。アーチャーさんは艶福家ですので、登場する女性は皆それぞれ魅力的。ベストセラー作家の面目躍如といったところです。第一級のエンターテイメントをお楽しみください。  

三浦  佑之金印偽造事件』幻冬舎新書 

偽造つながりでもう一冊。1784年に発見された「金印」は建武中元二年(五七年)に漢の光武帝が与えた「漢委奴國王印」とされ、堂々と日本史の教科書にも載っています。三浦さんは、この金印は偽造されたものだと主張しています。

この金印、実は発見直後から少なからぬ疑惑の目が向けられていたのだそうです。発掘されたのは1784年2月、福岡は志賀島においてですが、その2ヵ月後には早くも偽物説が京都の学者によって書かれているそうです。それにしても、1784年といえばどっぷりと江戸時代です。みんなでチャンバラでもやっているのかと思ったら、ちゃんと学者さんたちが居て、「漢委奴國王印」をどのように解釈するか、あるいは本物か偽物かなどについて論戦を繰り広げているのです。なかなかのものではありませんか。

三浦さんは古代文学・伝承文学が専門の千葉大学の教授です。考古学が必ずしも専門というわけではないようです。その分、古今の金印に関する文献を丹念に当たっています。偽者と見るか本物と見るか。私にはやはり難しいようです。是非ご自分でお考えください。  

嵐山 光三郎悪党芭蕉』新潮社 

俳聖松尾芭蕉の真実を暴く伝記です。芭蕉は山師だったとか、弟子は危険人物ばっかりで、お互いにけんかばっかりしてたとか。あと、芭蕉は両刀使いだったって。へー。

芭蕉が大山師だって言ったのはかの芥川龍之介だそうです。どちらかと言うと俳聖として崇めるあまり神格化されてしまうことを批判したようですが。ま、昔から芭蕉の句が、芭蕉が見た風景の再現ではなく心象風景を描いたもの、粗雑な言い方をすればフィクションだったという話は結構ありますよね。岩に染み入るはずの蝉の声はものすごくうるさかったはずだとか、後ろ髪を引かれる思いで旅に出たはずなのにスゲー健脚でどんどん行っちゃったとか。大体芭蕉って偉丈夫で隠密だったなんて言われてますし。

そういった下世話な話は私でも分かるのですが、俳句の良し悪しの評価となると私の理解の範疇を超えちゃってますね。かの有名な「古池や蛙飛び込む水の音」は深川の芭蕉庵で開かれた句合(くあわせ、句会ですね)で披露されたものだそうです。この句合では芭蕉と弟子たちが20人ずつ左と右の2チームに分かれ、お互いに一人一句ずつ披露、勝敗を決めていったのだそうです。いくつかの句については左右両チームの句が紹介されていますが、その優劣は私には分かりません。分かる人には分かるんでしょうが。

まあ、こんな句合だって有料で開催されていたんでしょうからね。師匠の芭蕉がイモな作品を披露するわけには行かないでしょうし、自分勝手な評価をしてるとかえこひいきしてると思われたら弟子減っちゃいますしね。もちろん大スポンサーへの配慮も必要。俳句の師匠ってのも結構大変そうですね。あ、また下世話な話になっちゃった。

句を作るに際して、芭蕉は「作意」を嫌ったそうです。テクニックに頼った句を嫌い、子供が作ったような、純粋な感動を表す句を好んだそうです。ところで、蛙ってよっぽど驚いたときとか蛇に襲われそうにならなきゃ池に飛び込んだりしないんだそうです。普通は池の端っこから水にそろりと入り、たとえ飛び込んでも、水しぶきなんか立てないんだそうです。オリンピックのジャンプ競技みたい。ま、ポチャンと音がして、あ、蛙だって思ったってことでしょうか。例え誤解でもそう思った、とね。もっとすごいのは「荒海や佐渡に横たふ天の河」。曾良日記によるとこのとき雨が降ってて佐渡も天の川も見えなかったんだって。心の目で見た…。うーん…。

ということで、たまには俳句なんぞをひねってみるのもいかがでしょうか。“熱燗徳利の首つまんで♪…”って、人の歌歌ってるようじゃ見込みないな。

 

2009年2月

ダニエル・ケールマン 瀬川裕司訳『世界の測量』三修社

著者のケールマンさんは若手ながらドイツでは著名な作家だそうです。本書の主人公はフンボルト海流などに名を残す近代地理学の祖であるアレキサンダー・フォン・フンボルト(1769-1859)と、近代数学のほとんどの分野に影響を与えたといわれる数学の天才カール・フリードリヒ・ガウス(1777-1855)という、同時代を生きた二人のドイツ人です。二人とも天才。まことにドイツドイツした本でした。

ところで、本書は全編間接話法を使うという実験的手法で書かれています。つまり、地の文と会話文が括弧で区別されていません。最初は読みづらく感じられるかもしれませんが、次第に、ちょうど登場人物や作者の思考をなぞっているように感じられるようになります。よく考えてみれば、私たちは、自分で認識したようにしか世界を理解していないわけですからね。しばしのご辛抱を。

まあ、しかし、天才というのはいつの世においてもとんでもない奴ですね。ガウスなんて、最初の何ページかを読んだだけでいかにとんでもない奴だったかわかります。こんなのが親だったらバカヤローって言ってぶん殴ってぐれちゃいますよ、普通の神経してたら。と思ったらやっぱりバカヤローって言って飛び出してました。そりゃそうだわ。

もう一人のフンボルトもやっぱり変人。遊びらしい遊びも知らず、何が楽しくて世界中を測量して回ったんでしょ。

本書の後半では年老いた二人の交流が描かれています。容易には理解されなかった二人の天才は、理解されているかどうかはさておき、押しも押されもせぬ著名人となっていました。しかし、二人とも肉体は老い、頼りの頭脳さえ回転が鈍ってきていました。そして、どれほどの天才を以ってしても学問の進歩は止められませんでした。つまり、二人の後に続く英才がどんどん出てきていました。そりゃそうです。どんなに新しい発見でも、学校で系統立てて教えてくれれば理解は簡単。後から来る者はそこから出発すればいいのですからね。

それでは、二人の天才の老年は不幸なものだったのでしょうか。どうもそうは思えません。変人だった天才も、老年期を迎え、少しは人間的になったのではないでしょうか。少しは親近感を覚えました。どうせ私たちは皆、長期的には死んでいるんですからね。誰だって年取るんです。年を取ることが、そして人生がそんなにつまらないものだったら、人類なんてとっくに滅びてますって。

不思議とさわやかな読後感を覚える一冊でした。ご一読を。  

ドゥニ・ゲジ 藤野 邦夫訳『ゼロの迷宮』角川書店 

 本書は過去5千年に亘るゼロの発見を巡る物語をいつもアエメールという名で登場する女性を狂言廻しとして描いた物語です。アエメールはウルクの女神イナンナの女大祭司、ウルの酒場の娼婦、バビロンの夢占い師、バグダッドの奴隷の踊り子、そして現代のイラクでアメリカ軍の爆撃によって殺されてかける女性考古学者として登場します。

そう、現代のイラクとはチグリス川とユーフラテス川によってはぐくまれたメソポタミア文明と同じ場所に存在しているのです。知ってました?

古来数を表すためにさまざまな方法が考案されてきました。本書はどのような曲折をたどって現代の表記法、特にゼロが生まれたかを紐解く物語です。ないものをどうやって表すか。

ゼロはインド人が発見したとされています。これが西に伝わり0123…というアラビア数字となり、東に伝わって「空」になったわけです。インドの哲学者ってのはすごいですね。この他にも、ほとんどの楽器はインド発祥だといわれていますしね。音楽と数学、なんてのも意外につながりがあるものなんですね。もっとも、音楽を科学として扱ったのはギリシア人の方が先かもしれませんが。

本書にも5千年前からのメソポタミアの風景とともに人間が描かれていますが、現代人と比べても全く違和感はありません。というか、我々が進歩としてもてはやしているのは表面的なことばかりで、人間の本質は全く変わっていないことが痛感されます。進歩って何だ?

狂言回しのアエメールはいつの時代においても飛び切りのいい女として登場します。年のころはアラサー。著者の趣味かしら。 

リヴェル・ネッツ/ウィリアム・ノエル 吉田 晋治訳『解読!アルキメデス写本』光文社   

  本書は20世紀になって見つかったアルキメデスの写本を巡る数奇な物語です。他にもアルキメデスの著書の写本は伝わっていたのですが、新たに見つかったものは今まで知られていなかった近代数学によって初めて明らかになったと思われていた分野においてもアルキメデスは思い至っていたことが明らかになったのです。何でこんなに長い間誰も気づかなかったのか、というと、アルキメデスの写本といいながら、実はアルキメデスの写本に使われた羊皮紙を削って、別の祈祷書が上から書かれてしまったからなのだそうです。

中世のヨーロッパにおいて“本”なんてものは聖書しかありえなかったのです。無駄な知識は危険、理性崇拝は悪魔教ってわけです。ところが同じ頃、イスラム世界では大々的に本が商われていたそうです。そこら辺は上記『ゼロの迷宮』でも描かれていました。歴史的には古代ギリシア・ローマで育まれた学問は西ヨーロッパではなく、ビザンチンあるいは中東地域で維持され、発展を遂げたのです。これらの文献などが再び西ヨーロッパにもたらされたのは十字軍の略奪品としてでした。

アリストテレスってのは紀元前212年に死んだとされる人物です。日本だと弥生式土器がどうのって時代です。そのころすでに微分だの積分だのを考えていたらしいのです。実際に微分だ積分だってのが数学として確立するのはアルキメデスから2千年も経ったころのはずです。私の書評でも何度も触れてきましたが、人間なんてちっとも進歩してないんですね。

ところで、アルキメデスの著作があまり残っていないのは、その内容があまりにも難しすぎるから、という理由もあるのだそうです。例えば、球の体積は外接する円柱の3分の2であることを証明したそうです。微積分が理論として確立されていなかった時代に、どうやって理屈だけでこんなことを証明したのでしょう?また、円周率も「一万四千六百八十八対四千六百七十三と二分の一(146884673 1/2)より小さく六千三百三十六対二千十七と四分の一(63362017 1/4)より大きい」と計算したそうです。上記『ゼロの迷宮』でも描かれているとおり、アルキメデスの時代には現在使われているような「0」やアラビア数字を使った便利な計算方法はありませんでした。円の面積を内接・外接する正多角形と比べることによって数値を得たのでしょうが、その計算は想像を絶するほど困難なものだったはずです。ましてや他の人が検証するなんて無理、出来ても時間がかかりすぎるから誰もやらない。

本書では幾何学的手法で曲線図形の面積や体積を求める手品のような証明の一端も(分かりやすいように現代流の代数表記も交え)描かれています。ご興味のある方は挑戦を。私は……途中でめげました。私が馬鹿なだけでしょうか?

宮田親平毒ガス開発の父 ハーバー』朝日新聞社

題名からも本書の主人公ハーバーが毒ガス開発に携わったことが明白ですが、フリッツ・ハーバーは空中窒素固定法でノーベル化学賞を受賞したほどの高名な科学者でした。ユダヤ系のハーバーはなぜドイツで毒ガス開発にのめりこんだのでしょうか。

ドイツとユダヤ人と聞いて真っ先に思い出されるのはナチスによるユダヤ人迫害でしょう。ドイツでは歴史的にユダヤ人は差別され続けてきたようですが、時代によって差別の度合いも異なっていたようです。19世紀、ビスマルクによって統一されたドイツではユダヤ人差別は比較的弱かったようです。その気風に乗ってユダヤ人は金融業・商業で資本を蓄積、海運、交通、電気、流通など各方面で成功を収めました。その結果、「19世紀の終わりごろ、全ドイツ人口の1パーセントに満たなかったユダヤ人が、ドイツ全体の資産の7パーセントを所有」するようになったそうです。ハーバーもそのような時代背景に生まれました。さらにハーバーはユダヤ教を捨てプロテスタントの洗礼を受けています。そもそも、熱心なユダヤ教の家庭ではなかったようです。

第一次世界大戦は最初の現代風の戦争だと言われています。それまでの牧歌的な戦闘に変わり、戦車、航空機、潜水艦などの新しい武器、そして毒ガスなどが開発、使用されました。毒ガスはドイツだけでなく、イギリス・フランス・アメリカなどでも開発され、実際に使用されました。戦争が科学の発展に大きな役割を果たしているのは間違いのないところでしょう。上にご紹介したアルキメデスの没年が紀元前212年と分かっているのも、アルキメデスが考案した正確な射程を持つ投石器が大活躍した第二次ポエニ戦争の最中だったからです。航空機などは平時に大いに役に立っていますが、毒ガスだってきっと殺虫剤なんかとして平時でも役に立っているんじゃないですか。多分。

アインシュタインはハーバーに対して「君は傑出した科学的才能を大量殺戮のために使っている」と言ったそうです。これに対してハーバーの信念は「科学者は平和時には世界に属するが、戦争時には祖国に所属する」。この祖国とはもちろんドイツ。そうは言っても二人は結構仲が良かったそうです。天才は相通ずるものがあったのでしょうか。熱烈な愛国者としてドイツに献身したハーバーでしたが、ナチスのユダヤ人の公職追放令によって職を追われ、結局スイスで客死することになりました。その胸中は如何ばかりだったのでしょうか。

ハーバーの人生はなぜか日本と関わりが深かったようです。叔父さんは日本に領事として赴任(排外思想に凝り固まった秋田藩士に斬殺されてしまったそうですが)していましたし、ショートショートSF作家として有名な星新一さんの父親で一代にして星製薬コンツェルンを作り上げた星一さんの招きで日本を訪れたりしたことが本書にも触れられています。

 

2009年1月

岡田 正彦がん検診の大罪』新潮社  

岡田さんは予防医療学を専門とする新潟大学医学部教授。その岡田さんががん検診なんぞ何の役にも立たないことに気がついてしまったのです。だもんで、岡田さん、定期健康診断こそ受けているそうですが、人間ドックやがん検診は受けるのを止めちゃったそうです。そういえばこの間、メタボ検診で引っかかって「また来い」って手紙が来たけど無視しちゃった。別にどーってことないもんね。あれで良かったんだ。

ところで、本書の冒頭の1章は統計の説明に費やされています。統計学というのは数学の重要な一分野ではありますが、なんとも退屈な印象があり、大学の経済学部なんかでも必修科目に指定されてはいますが、誰もまともに勉強していない、まともに理解していない分野です。統計資料を取り扱う際には必要不可欠なはずですが、まともに理解していないので細かいところは適当に端折っちゃって、自分好みの結論が出るとそれで満足しちゃう。偉い先生に、「統計学的に優位な差」、なんて言われちゃうと、普通の人は信じちゃいますよね。かつてご紹介した『データの罠』にも詳しくご紹介してあります。議論のテクニックとして、数字を出すと信憑性が増すといわれていますが、テクニックとしてだけ使われている統計数値には用心が必要です。統計数字が出てきたときには「標本の自由度は」とか、「背景要因を排除するために多変量解析は行ったのか」なんて一発脅してみるのもテクニックかもしれません。

肝心のがん検診の効果ですが、がん検診の有効性は統計的に証明されてはいないのだそうです。確かに検診をやることによってがんが見つかるのかもしれませんが、がん検診を行うことによって不必要に放射線にさらされ、再検査にでもなったらなったでさらにいろいろな検査を受けなくてはならない。その検査の害もかなりあるそうです。なにしろ日本人のがんの3.2%は、レントゲン検査が原因で発症したと推測されるんだそうです。

生活習慣病といわれる糖尿病などでも同じようなことが指摘できるそうです。また、病気になると長期間薬を服用しなくてはならないことが多くなりますが、その副作用もバカにならないそうです。

ということで岡田さんが薦めるのが予防医学。予防医学といっても、健康診断を積極的に受けようなんてことでは当然ありません。岡田さんが提唱するのは運動を心がけること、食事に気をつけること、そして健康に対する啓蒙を教育を通じて行うことです。うーん、結局デブはだめか。

久坂部 羊大学病院のウラは墓場』幻冬舎  

近年、多くの医療改革が行われてきました。ところが、その副作用によって日本の医療制度は崩壊させられたと久坂部さんは指摘しています。

「旧弊な医局制度が破綻し、医師は自由を得た代わりに、安定と将来の保障を失った。世間は不透明な寄付や名義借りをしなくてすむようになった代わりに、地域医療と産科医・小児科医を失った。患者は医療訴訟で権利が守られるようになった代わりに、訴訟のリスクの高い医師を失いつつある。」

刺激的な書名が付けられていますが、久坂部自身が医師ですから、どちらかというと医師よりの見解が目立つような感じがしました。

「だから医師は自分が病気になったときは、できるだけ危険な治療を避けようとする。私の先輩外科医は、虫垂炎になるたびに抗生物質で必死に手術を回避していたし、痔持ちの同僚も座薬と軟膏でごまかしていたし、椎間板ヘルニアの整形外科医も頑として手術を受けなかった」と書いてありますが、もしそれらの治療のリスクと収益を比較してリスクが多すぎるのであれば、それは医学的に不適切な治療ということになります。上記引用は「インフォームドコンセントの弊害」という題の文中に出てきますが、インフォームドコンセント、あるいは他産業ではコンプライアンスといわれていることへの理解が欠けているような気がします。

金融界でもコンプライアンス確保のため、客が分かっても分からなくてもとにかく定められた説明をして、書面にサインさせればコンプライアンス完了、といった例が後を絶ちませんでした。

どうも日本では問題の本質を考えないでシステムを変えれば問題はすべて解決するんだといった誤った理解が幅を利かせているようです。冒頭の引用もそうですし、小選挙区にすれば日本の政治は良くなるとか、規制緩和すれば日本の将来はバラ色だとか。

やっていることが全部間違いだとは言いませんが、問題が明らかになった場合には何が悪かったのかを検証し、改善措置を採らなくてはなりません。どうもこのフィードバック機能が働いていないみたいですね。

医療改革など、何をやってもうまく行かない状態は、ゲームの理論で言うところの(ゲーム理論の解説は拙論を御参照)囚人のジレンマに陥っているのだと思われます。なぜ医者と患者が協力してより良い状態(Win-Winですね)を目指せないかというと、お互いが相手を信用できず、自分が譲歩することが単に相手の利得を増やすだけに終わってしまうのではないかと疑っているからです。患者は譲歩すれば人体実験の材料にされるのではないかと恐れ、医者は譲歩すれば患者のわがままに際限なく付き合わされるのではないかと疑っているのです。で、お互いに何の利益にもならない状態を余儀なくされているのです。

本来行政あるいは政治の役割はこのような利害を調整することにあるのだと思います。ところが日本の政治自体が動脈硬化を起こしていて、何をするにも時間がかかり、一度変えたら今度は梃子でも動かない。そのような事態を解消するためにさらにマスコミのような第三者が存在し、問題提起を行っていくはずですが、日本のマスゴミはマッチポンプで煽るだけ。

岡田さんの『がん検診の大罪』ではスウェーデンの予防医療の充実が採り上げられていました。以前私の書評でも『あなた自身の社会 スウェーデンの中学教科書というスウェーデンの教科書を採り上げ、スウェーデンの政治事情をご紹介しました。アメリカ型社会ばかりを目指すのではなく、他にも目を向けてみたらいかがでしょうか。それとも日本人の民度が低いから無理なのでしょうか。私はそんなことはないと思います。ぜひよくお考えになってほしいと思います。  

城山英巳中国臓器市場』新潮社  

中国の医学団体が明らかにしたところによると「中国の臓器移植は、06年までに腎臓で74千件、肝臓で1万件など、計85千件以上も実施された。05年は計12千件と過去最高を記録した」そうです。米国に次ぐ世界第二位。移植手術で最大の困難であるドナーの確保は、「死刑囚がドナーの9割以上を占めている」ことで解消していました。死刑囚には事欠かない事情もあるようです。

中国だから技術が低いなんてのはうそ。何しろ医者は移植手術の経験が豊富なので技術は一流。ただし、中国だから安い、というのも幻想。アメリカなどに比べると安いようではありますが、最低でも数百万はかかるようです。

倫理・人権問題を指摘され、北京オリンピックを控えた中国政府も外国人への移植を制限するようになったといわれています。しかし確実にニーズはあり、供給もある。なければ作っちゃう。で、何が起こっているのか、を明らかにしているのが本書です。

城山さんは中国における臓器移植の問題は「矛盾だらけの中国社会の縮図」であるとしています。確かにそのような見方も出来ると思います。しかし、臓器移植は中国人だけではなく、諸外国の患者(日本、韓国、アラブ圏などが多いようですが、米国などからの患者もいるそうです)に対しても行われてきました。臓器移植という医療そのものも大きな矛盾をはらんでいるのではないでしょうか。臓器売買ではないのかもしれませんが、臓器移植はいずこに国でも高額な治療であることは間違いないようです。やはりお金の問題も絡んでいます。

「もし自分の愛する子供が余命宣告を受け、残り数ヶ月の命と診断された際、そこに最愛の子供を救うことが出来るドナー(臓器提供者)がいたとしたら、あなたは倫理問題を持ち出すことが出来るでしょうか」。

考えさせられる一冊。ぜひご一読を。 

梁石日闇の子供たち』幻冬社文庫  

最近映画化され、大変な話題となった作品です。

本書では貧困ゆえ売られ、性的玩具にされ、エイズにかかって売り物にならなくなったらゴミ袋に入れてポイされちゃう子供たち、もっとすごいのは移植用に買われ、臓器を摘出されてポイされちゃう子供たちの話です。ショッキングな描写に耐えられない方は読まない方が良い、というぐらいエグイ話が続きます。タイの話ではありませんが、こんな報道(ショッキングな画像ですのでご注意)もありました。

「西洋と東洋の出会いがもたらしたのは、まずはじめに植民地化であり、差別と恥辱、暴力による収奪、支配と被支配の果てしのない暗黒の世界なのだ。それを今度は「東洋と西洋の出会いによる新鮮で純粋な至上」の「新しい愛」のかたちと呼んでいる」。新しい愛とは何か、は本書をお読みください。

児童買春の対象となるだけでなく、子供たちは臓器提供のドナーとしても狙われています。解説で永江朗さんが書いています。「一人の子供を助けるために、ほかの子供を殺すのは間違っている。もしも貧しい子供を犠牲にすることでしか金持ちの子供が生き残れないのなら、金持ちの子供はだまって死を待つしかかいのだ。問題は、その子供の親に向かって「あなたは子供の命をあきらめるべきだ」と告げる勇気があるかどうかだ」。

本書はノンフィクションではありませんので、書かれていることすべてがそのまま起こったわけではありません。じゃあ、単なるフィクションなのか?判断はぜひご自分で。

考えさせられる一冊。ぜひご一読を。

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