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201312

ニコラ・テスラ 宮本寿代訳『ニコラ・テスラ 秘密の告白』成甲書房

 

出ましたニコラ・テスラ。ニコラ・テスラと言えば、トンデモ本に頻出する世紀の大発明を成し遂げながら科学史から抹殺された天才発明家です。そういえば、テスラさんはその後のマッド・サイエンティスト(ガリガリ博士なんて呼ばれている博士たち)のモデルになっているんだそうです。これもディスインフォメーションの産物なんでしょうか。

それはともかく、本書はテスラさん自身が書き残した“My Inventions: The Autobiography of Nikola Tesla”(1919)と“The Problem of increasing Human Energy”(1900)という2冊の本を邦訳したものだそうです。

発明王エジソンとは同時期に活躍したテスラさんですが(年齢は9歳ほど若い様です)、その発明に対するスタンスは全く違ったようです。「発明とは1%の霊感と99%の発汗である」と言ったといわれるエジソンに対して、テスラは徹底的な思考実験を繰り返したのちに実際のモノ作りに取り掛かったようです。ま、そのぐらい考えれば汗の一つもかくかもしれませんが。で、エジソンとテスラさんはすごく仲が悪かったそうです。そりゃそうでしょうねえ。

マッド・サイエンティストとして捉えられることの多いテスラさんですが、自分の発明が人類に対してどのような影響を与えるかについては随分と苦慮していたようです。最初のうちは彼の遠隔自動機械が実現すれば戦争は撲滅できると単純に考えていたようですが、のちにその考え方を修正したと書いています。最終目的として戦争のない世界は実現できると思っていたようですが、その実現には時間がかかると覚悟しているようです。「これまで私たちが目撃してきた大きな苦しみに思いをはせながら、こんにちの世界を眺め、私は確信を抱く。人間に最大の利益をもたらすためには、アメリカが伝統に忠実になり、神を信じるふりをするのではなく心から信じ、そして「もつれてしまった同盟関係」にかかわらずにいることが必要なのだ」と書いていますが、これ、現在の世界情勢にも全く当てはまるではありませんか。ということは、今から100年前にテスラさんが夢想した平和は依然として実現しそうにない、ということなのでしょう。

 

 

フランク・ブレイディー 佐藤耕士訳『完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯』文芸春秋

 

本書は天才チェスプレイヤー、ボビー・フィッシャーの伝記です。フィッシャーはソ連人の世界チャンピオンを破り一躍注目を浴びるようになりましたが、その後は長期にわたり姿をくらましたりといささか風変わりな人生を送りました。姿をくらましていた期間の中には、日本に暮らしていた数年間も含まれています。何と、2004年、成田空港から出国しようとしたときに逮捕されてしまいました。そういえば、そんなニュース見たことあるかも。

天才と呼ばれることの多いフィッシャーですが、本書を読んでみると、確かに“天才的”に頭が良かったであろうことは確かですが、6歳でチェスを始めてあっという間に全米チャンピオンになった、なんてことはなかったみたいです。始めてすぐチェスの魅力に取りつかれたフィッシャー少年はありったけの情熱と多大の時間を費やしてチェスの定石の勉強に励んだようです。ま、そんな努力ができるのも天才のなせる技かもしれませんが。

あっという間ではなかったかもしれませんが、13歳のときにはジュニア選手権に勝ちました。同年フィッシャーはクイーンをサクリファイスする(わざと相手に取らせる)という独創的な奇手で前年の全米オープン選手権の優勝者に勝つという、それこそ「世紀の一局」を制しました。翌年14歳でアメリカ史上最年少のアメリカ・チャンピオンになりました。やっぱ天才なんですね。

本書を読んでいて意外だったのは、フィッシャーが台頭してきた時代、1950年代後半から1960年代、アメリカにはチェスのトーナメント・プロ、つまりトーナメントの賞金で食っているようなチェス・プレイヤーはいなかったそうです。つまり、チェス以外の何らかの職業を持っているのが普通だったそうです。チェスのプロというと、世界的にもいわゆるステート・アマといわれるソ連のチェス・プレイヤーぐらいだったそうです。そんなソ連のチェス・プレイヤーでも、国際試合で無様な負け方をするとシベリア送りにこそならなかったみたいですが、ステート・アマの資格をはく奪される(お金がもらえなくなっちゃう)、なんてこともあったみたいです。

冷戦真っただ中の1972年、29歳のときにソ連のチェス・プレイヤーたちをなぎ倒し世界チャンピオンになったフィッシャーですが、世界チャンピオンの称号を放棄、以後20年にもわたる隠遁生活に入ってしまいました。

その後もあれやこれやと事件の多い一生を送ることになっフィッシャーですが、死後も(本人は預かり知らない話ではありますが)遺産相続などのごたごたが続いたそうです。

フィッシャーはチェスを知らない人間よりもチェスが弱い人間を嫌ったそうです。でも、世界チャンピオンですからねえ、同じくらいの腕前の人間なんてそうそういないでしょう。それやこれやで友達も少なかったようですが、それでも彼の死まで彼を喜々として世話してくれる人たちはいたわけですから、理解しにくかったにせよ魅力あふれる人間だったのでしょう。

いささか分かりにくいボビー・フィッシャーという天才ですが、その人物の魅力をうまく引き出しているのは、(本書ではほとんど触れられていませんが)フィッシャーがまだ子供の時に出会い、その才能に魅了されたフランク・ブレイディーという書き手に恵まれたことにあるのでしょう。面白い一冊でした。

 

 

矢作 直樹人は死なない』バジリコ

 
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例え肉体としての死を迎えたとしても、人は死なない、霊魂として存在し続けるのだ、なんて主張も、スピリチュアル系のロン毛のおじさんかなんかが言っているのであれば、あ、そう、という感じですが、東京大学医学系研究科・医学部救急医学分野教授、医学部附属病院救急部・集中治療部部長なんて肩書を持つ現役のお医者さんが言っている、となれば、おや、という感じになるのではないでしょうか。

矢作さんの文章を読んでいてまず気がつくことは、自分には、もしくは現代医学では“分からない”ことがあることを素直に認めていることです。身内に医者が数多くいる私としては意外でした。だって、医者って尊大が白衣を着ているような奴らばかりで、医学のことだけじゃなくてありとあらゆることを“知っている、分かっている”ことに多大なプライドを持っているんです。それに、医者にとっての常識は世間の常識じゃなくちゃいけないって勘違いしている奴ばかりなんです。この間母親に付き添って行った病院の救急の医者なんて、今度ふざけたこと言ったら絶対に殴りかかっちゃいそうな奴だったもんね。良く我慢した。自慢にゃならないけど。

とにかく医者って、自分じゃ分からないとか知らない、なんてことをど素人(私)の前で認めるのは絶対に拒否しますからね。たとえそれが私の専門である金融のことでもね。ま、だから医者ってのは金融機関の好いカモになってるんですけどね。

本書ではいわゆる代替医療に関しても記されています。怪しげな民間療法がいち早く公式の医療に取り入れられたのは日本でも中国でもなく、イギリスだったそうです。そして実利主義大国のアメリカでも「対処療法的なアプローチでは必ずしも解決できない生活習慣病をはじめ慢性疾患、免疫性疾患などには、東洋医学も含めた相補・代替医療を取り入れていくことの必要性が認識されるように」なったそうです。最近では日本の病院でも鍼治療が保険適用で受けられるようになっていますよね。

また、本書ではスピリチュアリズムにも多くのページが割かれています。内容的には多くの類書と同様で、特に驚くことはありませんが、その前後には矢作さんが直接経験した事例が記述されています。救急医などという生死の境目を目にすることが多い職業に就いていることもあり、スピリチュアルな事例に巡り会う確率も高いのでしょうか。ある番組でのインタビューでは、大きな声で口外はしていないものの、矢作さんの同僚でも似たような体験をしている方は実は多くいらっしゃるとおっしゃっておられました。

本書で多くが書かれているわけではありませんが、矢作さんは医療という科学とスピリチュアリズムの折り合いを大変上手につけています。ともすれば、科学万能主義、科学信仰に陥ってしまったり、逆にどっぷりスピリチュアリズムにはまってしまい、何でもかんでも祈ればいいんだ、なんて両極端に走りがちですが、矢作さんはその中庸を上手に見出しています。

人間何事もバランスが大事なんだって。ぜひご一読を。

 

 

大蔵 暢「老年症候群」の診察室』朝日新聞出版

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著者の大蔵さんは日本では数少ない高齢者医療の専門医です。現在の日本の医学界というのは専門分化が進んでおり、一人ひとりの高齢者に見合った総合的な医療が行われていないのが現状です。こんなことに気がついたのは、私自身高齢の両親がおり、その治療や介護の実態を見る機会が多かったせいでしょう。私自身が介護を行っているわけではないのですが、高齢者医療における患者と医療関係者・介護関係者のミスマッチなどは、容易に見て取ることができました。平たく言えば、マネジメントができていないんです。

大体、老人なんて病気の巣窟です。あれこれ悪いところがある。大病院では、症状(疾病)ごとに診察科が違いますので、例え予約してあっても何度もそれぞれの科で受付してもらって診察を受けなくてはなりません。時間もかかるし、体力も使う。付き添いのこっちだって疲れるくらいですから、患者である老人はもっと疲れるんじゃないですかね。それどころか、複数の病院にかかっていたりします。通院そのものが一苦労。それに各科で処方箋をもらってきますので、馬に食わせるような量の薬を飲まなくてはいけません。本当にそんなに必要なの?

こんなことを大きな声で言うと怒られてしまうかもしれませんが、加齢そのものが原因である病気なんて治ることはない、と考えた方がいいんじゃないでしょうか。だとすれば、長く生きればいいのではなくて、より良く生きる、QOLquality of life)を向上させる方が優先されるべきなのではないでしょうか。糖尿病でカロリー制限をしすぎて栄養失調になっちゃったとか、ワーファリンを処方されているので大好きな納豆が食べられないことがストレスになったり、なんてのは本末転倒でしょう。

いろいろ問題のありそうな日本の老人医療ですが、本書を読んで、私自身も知らなかった、あるいは誤解していたことも多いことに気づかされました。人間長く生きてりゃ誰だって年をとるんです。そして年をとれば楽しくないことだっていろいろと起こります。そういうもんだと知っていれば、皆さんも、私だって、老人になったとき少しは気が晴れ、楽なのではないでしょうか。それとも、皆に嫌われる気難しくて嫌味なジジイになるんでしょうか。ま、それもまた楽しからずや…ってか。

老人になる予定がある方はぜひご一読を。

 

 

201311

秦 剛平美術で読み解く 新約聖書の真実』ちくま文芸文庫

 

先日美術館に行ったとき、ミュージアムショップに何冊か並んでいたので4冊ほど買ってしまいました。解説を読んでから美術作品を見る、なんて行為を嫌がる方もいらっしゃいますが(美術は理解するのもではなく感じるものだ、なんてね)私は嫌いではありません。大学で音楽史の他に美術史も取っときゃ良かったかな。

著者の秦さんの現在の肩書は多摩美術大学名誉教授となっています(本書執筆時には教授)。ちらっと経歴を調べてみたら、私の大学の先輩ではありませんか。現在の専攻は宗教学や聖書学らしいですが、ユダヤ教学博士で 基督教学修士なんだそうです。でも、「わたしはキリスト教美術を学び始めてから一万点近くの画像を収集・分類し続けてきたが、その作業プロセスでわたしが立ち至った認識は、西欧キリスト教世界が一神教の世界ではなく、「多神教の世界」であったということであり、その世界形成に与った因子は四世紀のニカイア公会議で侃々諤々の議論の上了承された「三位一体」の面妖な神学に遡るというものであった」なんて本書しょっぱなに書いていますから、キリスト教徒ではないのでしょう。

ただ、聖書学の研究者がキリスト教徒なのかというと必ずしもそうではないということは、何かの本で読んだ覚えがあります。それに、客観的に歴史資料や聖書そのものを読み解く、という学問としての目的を果たすためには、“熱狂的な信者である”ということは必ずしもプラスの効果をもたらすわけではないであろうことも、容易に想像がつきますよね。

図版も多く載っていますし、それだけではなくいかにしてウェブから参考図版を引き出すかも巻末にまとめられています。

一般的な美術愛好家というよりはもう少し高度な読者を狙っているようですが、美術に対する知識が増えれば、今までとは違った見方ができるようになるかもしれません。ほら、スポーツだってルールとか作戦が分かればより面白く観戦できるって言うじゃありませんか。特にキリスト教宗教画は日本人には意味がつかみにくい場合がありますので、格好の教科書になると思います。

 

 

秦 剛平美術で読み解く 旧約聖書の真実』ちくま文芸文庫

   

順番が逆ですが、『美術で読み解く 新約聖書の真実』に続く第二弾と書かれています。ま、ユダヤ教ではなくキリスト教(美術)の観点から解説しているのですから、必ずしも時系列にこだわることはないのでしょう。

本書冒頭で、旧約聖書には二つの天地創造物語が描かれているとしています。これ、私も大学の時に習いましたが、「は、なんで」と思ったので覚えています。ま、はっきり言っちゃうと、一神教とか何とか言ってるけど、旧約聖書の編纂当時にはいろんなことを言っている人たちがいて教義的なまとまりなんか無かった、ということです。あっちのメンツもこっちのメンツも立てなきゃ、というわけであれもこれも入れといた、というわけです。似たような例は日本の歴史書の編纂でも見られるようです。だから、ほぼ同時代に古事記と日本書紀という別々の公認歴史書が編纂されたのです。ま、この場合、一冊にはまとめ切れなかった、ということなのかもしれませんが。

この旧約聖書ですが、あまり宗教的ではない日本人は単なる神話程度にとらえるかもしれませんが、調査では45%の米国人が「人類はおよそ1万年前に神によって創造されたと回答し、「聖書に書かれた言葉は神が実際に言われたことで、一言一句そのまま解釈すべき」と回答したアメリカ人がアメリカ全体の1/3を占めているのだそうです。そのように思っている人たちもいるのだ(しかもたくさん)、ということを心にとめてキリスト教美術も鑑賞しなくてはなりません。また、秦さんみたいな罰当たりなことをいう場合には、周りにマッチョなキリスト教徒がいないか、よくよく確かめなくてはなりません。危ないもんね。

 

 

秦 剛平美術で読み解く 聖母マリアとキリスト教伝説』ちくま文芸文庫

 
 

本書では聖母マリアにまつわる伝承とそれ以外にも種々存在するキリスト教にまつわる伝説を、それらをテーマとする絵画作品を通して解説を加えています。ま、冒頭にも書いたとおり秦さんはキリスト教徒ではないようですので、キリスト教やキリスト教徒に対して相当辛口の批判を加えています。まじめなキリスト教徒は真剣に読まない方が良いかもしれません。私には大変小気味良く思えましたが。

聖母マリアといえば、処女懐胎です。それどころか、イエスを産み落とした後も処女であり続けたのです。ほんまかいな。だって、イエスを産んだ後、何人かの子供(本当のイエスの兄弟)を産んだって伝承だってあるんですよ。それでも永遠の処女なんだって。おまけに、マリア自身も処女懐胎で生まれたんだそうです。へー。

ま、それはともかく、聖母信仰はキリスト教とは若干異なるバックグラウンドを持っていたようです。キリスト教といえばユダヤ教につながる聖典の民です。ところが、キリスト教の神とユダヤ教の神(同一存在のはずです)ってのは結構性格が違います。キリスト教では神と同一の存在であるイエス・キリストがしょうもない人間たちの身代わりとして磔にされちゃいます。ま、復活しますけど。そういう優しいところのある神様。

ところが、ユダヤ教の神様ってのはやたらと厳しい。信仰しているユダヤ教徒にだってちょっとでも約束を違えると怒り出しちゃう。それどころか、神がユダヤの民に約束したカナンの地に元から住んでいた、というだけでエリコとかアイなんて町に住んでいた住民たちは殲滅されてしまいます。何か悪いことしたってならともかくねえ。

こんなユダヤ教徒にマリア信仰のような母性信仰が起こるとは考えにくいですよね。むしろ、マリアを信仰するキリスト教ってのは、ユダヤ直系の宗教ってよりはそれ以外の様々な土着宗教が混入しているんじゃないでですかね。クリスマスだってミトラ教から取り入れた、なんて言われてますし。

ま、愛の宗教と呼ばれるキリスト教ではありますが、ユダヤ人に対して「神の子殺し」という汚名を着せて迫害してきた、なんて陰険な面もあることも本書では言及されています。

その他にも様々なキリスト教伝説がその場面を描いた絵画と主に紹介され、秦さんが例によって辛口の批評(場合によってはかなり辛辣な批判)を加えています。キリスト教絵画のみならずキリスト教自体にも興味のある方ぜひ読んでいただきたいと思います。

 

 

秦 剛平美術で読み解く 聖人伝説』ちくま文芸文庫

 
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秦さんは本書において、ヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』という13世紀ごろ書かれたキリスト教の聖者・殉教者たちの列伝に取り上げられた挿話とそれを絵画などで表現したものに秦さんが解説を加える形で展開されています。

『黄金伝説』は中世で最もよく読まれた宗教書なのだそうですが、聖人や殉教者たちの正確な故事来歴を残しておこう、なんて意図で書かれたわけではありません。あくまでもこれを読んだ、あるいは聞いた善男善女たちが、「おお、こんな素晴らしい奇跡を起こした聖人がいるんだ、ありがたや、ありがたや」となることを期待して書かれたものです。ということで、結構な与太話なんかも含まれているようです。でも、そんなお話の方が絵画表現には魅力的な題材かもしれませんね。

日本で最初にキリスト教徒であることを理由として最高権力者の命令による処刑が行われたのは、豊臣秀吉の時代だそうですので、『黄金伝説』には当然書かれていませんが、実は日本人の聖人も結構な人数がいるのを御存知でしょうか。その最初の処刑は1597年に長崎で行われましたが、この時処刑された26人が「日本26聖人」と言われています。後にこの26人は正式に列聖されました。26人のうち20人が日本人でした。日本人の聖人は今のところこの20人だけのようです。それにしても20人もいるんですねえ。

西洋文化の特徴として客観的、論理的であることが東洋文化との対象において挙げられることがあります。本当なのでしょうか。秦さんは本シリーズにおいてキリスト教の文書や絵画に現れる曖昧で非論理的な記述や御都合主義を厳しく糾弾しております。してみると、西洋人だって東洋人と同じくらい非論理的なのではないの、という気もしてきます。それに、ビジネスの世界においてタフネゴシエーターの代表といえばインド人です(中国人もすごいなあ)。あらゆる屁理屈、詭弁を弄してでも自身の正当性を訴え続けます。日本人なんて、それは違ってる、なんて思っても口をさしはさむ余地はありません。ようやく口出しができたと思った時には議論はすでに別の話題に移っていたりします。

してみると、洋の東西で人間の資質はさして違わないのではないの、結局。

 

 

谷口江里也訳構成ドレの新約聖書』宝島社

 
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以前もご紹介したことのある谷口さんが再構成したドレの世界の名作シリーズ、読んだことはなくても知っていないと恥ずかしい名作シリーズ、新約聖書版です。

新約聖書のメインは最初の方にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと四つ並ぶ福音書です。福音書ってのは英語ではGospel、意味はGood News、良い知らせという意味です。何が“良い” 知らせかって?そらあなた、キリスト様が生まれなすった、ってことですよ。

で、キリスト(救世主)であるナザレのイエスの言行をその生涯とともに語ったのが福音書ということになります。でも、なんで四つもあるの。それどころか、この四つ以外にもいくつかの福音書が現在でも知られています。それらの内容が全く矛盾せず一貫していれば問題ないのでしょうが、なんたって別々の人が別々の時代に別々の場所で書いているのですから首尾一貫、なんてことは期待できません。ま、だから正典とされる新約聖書にも四つも載っているんでしょう。

ということですが、本書ではそこらへんの細かいことは置いておいて、「イエスの出現」、「布教」、「受難」、「復活、その後」とテーマを分けてドレの画(多くは奇跡を行ったなどの聞いたことがあるような有名な場面)を解説文と共に掲載しています。解説と言っても、上記秦さんのような厳しい糾弾ではなく、どのような場面であるかを平易な文章で記述しています。

ということで、刺激的な本ではありませんが、本物の聖書を読むのはハードルが高い、と思っているあなた(私も)には新約聖書の内容を手軽に読むことができる内容になっています。

本書で面白いと思ったのは、イエスの光背が一般的なドーナツの輪っかではなく、仏教美術に見られる頭光というかオーラみたいに描かれている場面が多い(ドーナツの場合もありますが)ことです。また、受難の場面ではハイライトこそ当たっていますが、光背は描かれていない場合も多くあります。絵画ですのでドレの意図が反映されているのだと思いますが、どのような意図があってこのような表現になったのかは興味あるところです。

また、上記秦さんの著書では紹介されていなかったヨハネの黙示録を題材とする絵画も何点か紹介されているのも興味深いところです。黙示録なんて、福音書以上にまともに文字で読みたくないですからねえ。

なんだかんだ言って大変面白い一冊でした。ぜひご一読を。

 

 

ついでに、以前ご紹介した『ドレの旧約聖書』のリンクも載せておきましょう。併せて御覧になってください。

谷口江里也訳構成ドレの旧約聖書』宝島社

 
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201310

オリバー・ストーン&ピーター・ガズニック 大田直子・鍛原多恵子・梶山あゆみ・高橋璃子・吉田三知世『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』早川書房

 

2つの世界大戦と原爆投下

 

プラトーンなどの作品で知られるオリバー・ストーン監督がアメリカ人の歴史認識を問い直すために作られたドキュメンタリー・シリーズを基に書かれたのが本書ですが、内容的には全く同一ではないようです。読んでから見るか、見てから読むか?私は見ていませんので読んだだけ。

ま、内容的にはアメリカは陽気なアンクル・サムなんかじゃなくて、もっと陰険で自分のことしか考えていないジャイアンだってお話です。私も今まで本書評で同じようなことをずっと言ってきましたけどね。19世紀終わりごろから海兵隊を勤め上げ少将にまで上り詰めたバトラーという人は、自伝(『戦争はあこぎな商売』(War is A Racket)(吉田健正『戦争はペテンだに全訳が掲載されているそうです)って題だそうです)に「大企業やウォール街、それに銀行家のための高級ボディガードとして働いた。早い話がごろつきと同じ。資本主義のためのギャングである」と書いているそうです。これじゃあ、アメリカをジャイアンに例えちゃうと、ジャイアンがかわいそうになりますね。

1巻では二度にわたる大戦と世界初の原爆使用を主要なテーマとして取り上げています。

ところで、第1巻の冒頭には建国から20世紀初頭までの歴史が駆け足で紹介されています。その中で印象に残ったのは、20世紀末ごろのアメリカの情景です。その頃のアメリカはごく一握りのスーパーリッチと貧しい労働者に二分されていたのですが、今現在の世界の情景とオーバーラップしているような気がします。最近の金持ちは昔よりは優しく見えるように行動していますが(ジェイ・グールドというその当時悪名高い鉄道王は「労働者階級の半分を雇って残り半分を殺させて見せる」とうそぶいたそうです)、現代企業の冷酷さってのは、昔以上の怖さ、非人間性(普通のヒトではない法人ですからね)を兼ね備えていますね。

で、なぜアメリカは日本に原爆投下したか、ということですが、戦後覇権国家になるアメリカのデモンストレーションの意味合いがあったことは確かなようです。“おれに逆らうんじゃねえぞ”って。ただし、底流として人種差別があったことは間違いないようです。アメリカ人にとって、「日本人ほど忌み嫌われた敵」はいなかったそうです。当時アメリカでは戦争推進のプロパガンダが撒き散らされていましたが、その中でもドイツに対しては邪悪なナチス指導者と「善良なドイツ人」は区別されていたそうですが、日本人にはそのような区別はなく全て害虫、ゴキブリ、ネズミやサルに例えられていたそうです。その原因として、戦争中に日本人が行った残虐行為が広くアメリカで伝えられていたことが挙げられています。ただし、本書の著者はアメリカ軍だってさほど紳士的だったわけではなく、同様にとんでもない残虐行為を行っていたことも記しています。

 

ケネディと世界存亡の危機

 
 

続く第2巻では第2次世界大戦後の冷戦時代を取り上げています。大統領で言うとトルーマンからニクソンまでということになります。

この期間の歴代大統領の中で世間的には現在でもずば抜けて高い評価と名声を維持しているのは暗殺された故ケネディ大統領でしょう。すでにハルバースタムの『ベスト・アンド・ブライテストなどでも指摘されていることですが、政治的な実績を(大統領就任以前を含めて)評価してみると、意外に……、ま、イメージ先行型の政治家だったんでしょう。でも、そのケネディ大統領が無残に失敗したピッグズ湾事件の後、こんなことを言ったそうです。「私の後継者となる人に真っ先にアドバイスしたいのは、将官たちをよく観察し、彼らが軍人だからといって、軍事に関する彼らの意見が大いに役立つなどとは思わないようにすることだ」これ、軍人とか将官ってところを、外交の専門家を自称する外務省の役人(アメリカだと国務省とかCIAでしょうか)とか、経済の専門家を自称する財務省の役人とかと入れ替えてみても、実にぴったり当てはまりますねえ。そして、こんなことも言ったそうです。「高級官僚というのは、なんでも自分に都合よく解釈できるという、大きな強みをもっているようだ。彼らの話を真に受けて、その通りに行動したら、誰も生き残れないだろう。そうしたら、彼らの考えが間違っていたのだと教えてやれる者がいなくなってしまう」

 

キューバ危機を基に描いたと思われるスタンリー・キューブリック監督の『博士の異常な愛情もご紹介しておきましょう。広島・長崎以来実際の戦場で用いられたことのない核兵器ですが、実際にはその寸前まで行ったことは何度もあったようです。実際に使われたか、辛くも使われずに済んだかはこの映画にも描かれているとおり単なる偶然にすぎなかったのかもしれません。

 
 

 

 

帝国の緩やかな黄昏

 
 

3巻はニクソンがクビになったときに副大統領だったフォードからオバマ政権までを取り上げています。オバマ政権に関しては現在進行形ですが。

この期間の最大の事件といえば911でしょう。世界貿易センタービルが崩壊していく衝撃的な映像は皆さんの脳裏にも焼き付いているのではないでしょうか。本書は陰謀史観的な「アメリカ政府が911を実行した」などという立場は取っていませんが、時のブッシュ・ジュニア政権がいかにやる気満々で“対テロ戦争”へのめりこんでいったかについては多くが語られています。

私もこの政策については色々と指摘したい点もあるのですが、本書評では取り上げないことにいたしましょう。ただ、本書でも取り上げられているブッシュ、チェイニー、ラムフェルド、ウォルフォウィッツといったおなじみの面々の顔つきが私には実に卑しく見えます。自分の良く知っている世界以外は信じないし知ろうともしない人々、なんだと思います。アメリカ人以外はみんな家畜、アメリカ人だってエリート白人以外は単なる奴隷か良くてその他大勢。いい気はしませんね。

あるジャーナリストはブッシュ(ジュニア)大統領とアルカイダやイスラム原理主義者を対比してこのように言っているそうです。「ブッシュは、彼らを皆殺しにすべきだと信じているんだよ。彼らは説き伏せることが不可能な、邪悪な信念に突き動かされている過激派だと。ブッシュが彼らを理解できるのは、自分にそっくりだからだ……だから彼は、不都合な事実を突き付けてくる人々の話に耳を貸さない。彼は、自分は神から使命を託されていると本気で信じているのさ。そんな絶対的な信仰を持っていたら、分析なんかしなくて構わなくなる。信仰をもつというのは、実証的な証拠のないことを信じるということだ。だが、信仰で世界は動かせない。」ここで対比されているのはブッシュ・ネオコン一派とイスラム教原理主義者ですが、日本にだって負けないくらいの人の言うことを何も聞かない人々がいますよねえ。誰とは言いませんが。

そのようなブッシュ大統領に対するアンチテーゼとして登場したオバマ大統領(ま、少なくとも選挙期間中はそう思わせていた)も、現在第2期目が始まったところですが、前任者たちと大した差はなかったようです。オバマ政権の陰険な体質はWikiLeaksのジュリアン・アサンジ氏やNSAの盗聴をばらしたエドワード・スノーデン氏らに対する執拗な追及(追及どころか、抹殺しかねない……)に良く現れています。日本人としては普天間基地の辺野古への移転を見直してくれとお願いしたにもかかわらず一顧だにされなかったことを思い出します。ノーベル平和賞までもらっちゃったのに、やってることはブッシュ前大統領と変わらないでないの。

先日、東京新聞のコラムを読んでいると、キング牧師の言葉をオバマ大統領に贈っていました。痛く共感しましたので、原文を探し出してみました。

 One has not only a legal but a moral responsibility to obey just laws. Conversely, one has a moral responsibility to disobey unjust laws.

(法に従う場合、単に合法的であれば良いのではなく、正義にかなうものでなくてはならない。いや、法に従わない正義があるといってもよいだろう)

 One who breaks an unjust law must do so openly, lovingly, and with a willingness to accept the penalty.

(法を破るときは、皆にも見える形で、愛しみを持って、そして懲罰を受ける覚悟を持っていなくてはならない)

Letter from Birmingham Jail by Martin Luther King

 

 

アメリカの価値観とは「相手国の国民ではなくアメリカにどれだけの利益をもたらすか」ということであり、利益をもたらしさえすれば腐敗政権だろうが独裁政権だろうが関係ないのです。昨今話題のTPPなどもこんな発想で作られているのであろうことは容易に想像がつきます。問題は日本には選択の余地なんてないこと。加盟すればアメリカに好い様にされることはわかっていても、加盟しないなんて選択はあり得ない。加盟しなかったらもっとひどい条件を押し付けられるのが分かっていますからね。

悪いことをするとカルマ(業)がたまっていくという説があります。一説によると個人だけでなく国としてのカルマもあるそうです。そうだとするとジャイアンアメリカには建国以来の短期間にさぞかしカルマがたまっているようにも思えるんですがどうなんでしょうか。

まあ、しかし、私が本書を読んで確信したことがひとつあります。それは、確かに日本は先の大戦でアメリカに負けましたが、これはなにも日本人がアメリカ人に劣っていた(知力にしろ体力にしろ)ではないということです。違っていたとすれば、ついていたかついていなかったかくらいのもんでしょう。あ、日本人だってアメリカ人と同じくらい優秀だって言ってるわけじゃないですよ。逆です。同じようにバカだったんです。

第一次世界大戦の前、「今や文明は戦争が起こりうる点を超えて発展してしまったので、もはや戦争は起こらない」という考え方が広まっていたそうです。でも、第一次、二次と世界大戦が起き、原爆まで使用されました。それ以来60年以上が経ったわけですが、未だに戦争はあちこちで起こっています。やっぱり、人類はバカなのね。

 

 

半藤和利日露戦争史2』平凡社

 
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第一巻が開戦直後までを描いていましたので、本書は開戦初頭の快進撃に沸く日本国民の描写に始まり、203高地をめぐる戦いで議論を巻き起こした旅順陥落までを描きます。

本書を読んで気づくのは、日露戦争における日本の勝利というものがいかに危ういものであったのか、ということです。何か一つきっかけがあれば日露の立場は逆転していても不思議ではありませんでした。まあ、圧倒的な横綱相撲みたいな戦争ってのは案外少ないのかもしれませんね。

あと、これは半藤さんが意識的に強調しているのだと思いますが、“民草”の熱狂ぶりには驚かされました。どこかの攻略戦で勝った勝ったと言っては提灯行列にイルミネーション電車。旅順が期待通り電光石火のごとく攻略できなければ乃木を辞めさせろの大合唱。付和雷同というか軽佻浮薄というか……。それだけではなく、高級軍人たちは作戦が失敗しようが状況が変化しようが、断じて行えば鬼神もこれを避くなどといった精神論が幅を利かす独善的な戦争指導など、のちの失敗の原因と指摘されることも多く見られたようです。

ではありますが、このような風潮は太平洋戦争当時も見られましたし、今だってそうなのかもしれません。

歴史を勉強する意味は、過去を振り返ることにより現在を見つめなおすことにあるのだと思います。しっかりと過去を見つめ、己の在り方を反省しようではありませんか。

 

 

20139

フリーク・ヴァーミューレン 本木隆一郎・山形佳史訳『ヤバい経営学』東洋経済

本書の著者ヴァーミューレンさんは現職のロンドン・ビジネススクールの准教授ですから、バリバリの現役研究者といえるでしょう。が、やはりアメリカとイギリスという地理的な違いによるものか、入山さんが紹介しているような統計分析を多用している経営学とはいささか違った経営学を志向しているようです。経営学で取り上げられている行動は国や業界の違いを超えて(場合によってはマウンテンゴリラなどの類人猿の社会でも)同じような傾向がみられるのだと記していますから、文化人類学とか社会学にインスパイアされているのでしょうか。

本書の原題は“Business Exposed  The naked Truth about What Really Goes on in the World of Business”となっています。現実のビジネスにおいては、理念的な経営学には登場しない、無意識に見過ごされている、もしくは意識的に見ないようにしているようなことが往々にして多発するもんなんだよ、ということなのではないでしょうか。ま、そうじゃなきゃ世界中の会社経営者はMBAの言うことを聞いてるはずだよな。MBAなんて今じゃアメリカですらその権威が揺らいでいるもんね。ざま見ろ。

本書ではそのような不適切な事例が数多く紹介されています。ただし、観念的な批判ではなく、“統計を使って分析した”ような正式な論文からの引用事例が数多く紹介されています。そこから分かるのは、経営の専門家(偉そうな経営者や取締役とか、あるいはビジネススクールの先生とか)だって、私たち一般の人間と同じような見栄とか欲望、合理的ではない思考回路を持った普通の人間であるということでしょう。スーパーマンなんていないんだってば。

ロンドン・ビジネススクールでのヴァーミューレンさんの講義は大人気だそうです。なぜ大人気なのかが良く分かる、分かりやすく、しかもひねりの効いた事例が満載です。めちゃめちゃに面白い一冊でした。ぜひご一読を。

 

 

闇株新聞編集部闇株新聞 the book』ダイヤモンド社

 
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本書は“闇株新聞というブログ発表された事例を厳選、さらに大幅に加筆し、深く掘り下げたものです。経済の議論では忘れてしまいがちななぜそうなったのか、といった歴史的背景についても詳しく解説されています。

“闇株”新聞などというと、怪しげな仕手集団か何かが株価操作のためにあることないことを書き立てるイエロージャーナリズムのような感じがしますが、本書では株の推奨などは一切行っていませんし、筆者名は匿名ではありますが、書かれている内容は長く金融業界で活躍されてきたであろうことを窺わせる極めてまっとうなものです。

ただし、金融界ではタブーに近いような事例も果敢に掲載されています。私も「闇株新聞」は長く拝読させていただいています(無料版だけですが。埋め合わせに本は買いましたよ)。著者名は闇株新聞編集部なので何人かの方が書かれているようにも思えますが、裏事情を知っていると称するサイトでは一人で書いている、と書いてありました。ウィークデイは毎日新しい記事が掲載されていますので、大したもんですねえ。私なんか、サイトの更新は月一回ですからね。

読み応えのある一冊でした。ぜひご一読を。

 

 

西内 啓統計学が最強の学問である』ダイヤモンド社

 

「あえて断言しよう。あらゆる学問のなかで統計学が最強の学問であると。 どんな権威やロジックも吹き飛ばして正解を導き出す統計学の影響は、現代社会で強まる一方である。「ビッグデータ」などの言葉が流行ることもそうした状況の現れだが、はたしてどれだけの人がその本当の魅力とパワフルさを知っているだろうか。本書では、最新の事例と研究結果をもとに、統計学の世界を案内する」おー、断言しちゃってる。

かのHG・ウェルズは1903年、「将来、統計学的思考が読み書きと同じようによき社会人として必須の能力になる日が来ると予言した」そうです。その予言以来100年以上が経っていますが、私たちの多くが確固とした統計学リテラシーを持っているとは言い難いような気がしますがいかがでしょうか。

オプションのトレーダー時代、オプションセミナーなぞをよく開催いたしましたが、銀行員を対象とした場合でも理解していただくのに一苦労。オプションとかCAPMなんて投資理論は統計理論のカタマリですからね。多少なりとも基礎知識があった方が分かってもらいやすい。ところが、統計学ってのは社会科学などでも必須科目ではあるんですが、眠いことこの上ない科目なんですね。で、誰も真面目に聞いていない。だから試験が終われば全部忘れちゃう。

あと、日本人が統計学リテラシーをなくしちゃった大きな原因のひとつとして、一時吹き荒れた“偏差値” 騒動があるんじゃないですかね。偏差値で人を差別するのは良くないって。でも、偏差値が人を差別するんじゃなくって、使う人間が差別してるだけなんですけどね。その影響からかセンター試験でも素点を使って評価してるもんだから平均点によっては点数を足してあげるとか馬鹿なことを未だにやってるもんね。偏差値だって道具なんだから、上手に使わなきゃ。バカとはさみは使いようって言うじゃない。西内さんは「最新のスマートホンを金づち代わりにして犬小屋を作ろうとするようなもの」だって言ってますよ。

ところで、統計学は最強の学問であると主張している西内さんですが、その限界も(統計学を使った解析には適さないもの)も認めています。そのひとつが、西内さんが「「現実」の壁」と呼んでいるものです。これは、「絶対的なサンプル数の制限」と「条件の制御不可能性」に分けられるそうです。「絶対的なサンプル数の制限」とは、ある人が今の恋人と結婚すべきか否か、といった、一世一代の決断はランダム化できないということを示しています。「条件の制御不可能性」とは、「「大地震を体験した社員は精神的にタフになる」という仮説を検証しようと思っても、地震をコントロールする技術を人類がまだ持ち合わせていなければ、ランダム化も何も実験しようがない」場合などを指します。してみると、経済学における政策の有効性の分析や経営学における経営者の資質の分析なんてのは元々統計分析には適さないような気がするんですがどんなもんでしょうか。もちろん、統計学を経営学に応用する場合、データの取り方などに様々な工夫をして統計学の知見を応用するわけですが、本質的な問題(経済政策の場合そもそも実験不可能であるとか、経営判断などの場合データが極めて個別的であるとか)を解決しているのではないような気がします。

本書を読めば統計学が好きになるかどうかは分かりませんが、統計学の要点はつかめると思います。ぜひご一読を。

 

 

エディ・タカタ不正操作と偽りのマーケット』幻冬舎

 

タカタさんは長年欧米系の銀行において長年金利マーケット(金利スワップが専門だったようです)で活躍されてきた方だそうです。そんなタカタさんが怒りを持ってマーケットの闇を暴きます。

昨年暮れLIBORの不正操作事件で逮捕者が出ました。大きく報道されたので記憶されている向きも多いと思われます。この事件でLIBORの信頼性は傷つけられたわけですが、タカタさんは自身の経験からLIBORは極めて市場実勢に近いと断言しています。その反面、円の基準金利であるTIBORの方が極めて不自然な値付けがされたいるとしています。

タカタさんは1990年に外銀に入行、それ以後米欧の銀行でマネー関係のトレーダーとして活躍された方で、年収も億単位だったんだそうです。そのレベルには遠く及ばないチンピラFXディーラーだった私としてはうらやましい限りです。でも、バブル崩壊後の日本のマネー・マーケットって、クレジット・ラインの制限などでマーケットの歪みがかなりあったにもかかわらず参入できる銀行が少ないこともあってかなり長期間マネー・ディーラーがうまいことやっていたような記憶があるんですが、本当のところはどうだったんでしょうか。私の知っているマネー・ディーラーをやってた人って、結構みんなうまくやっていたはずですよ。それを私たちFXディーラーはうらやましげに指をくわえて見てるしかなかったんですよ。ま、タカタさんによればFXとか株なんてのは一次元のマーケットで、単純そのものなんだそうですが。それに比べてご専門のMMD(マネー・マーケット・デリバティブ)のトレーディングにははるかに複雑な能力が必要とされるんだそうです。まーねー、FXのトレーディングなんて英語のマインとユアース、あとゼロから99まで英語で言えりゃできるって言われてたもんね。おまけに、どんなに経験を積もうが勉強をしようが勝てるわけじゃない(基本的にギャンブルと一緒。だから公平なんです)。ま、私が言うと負け惜しみにしか聞こえないのが残念ですねえ。

魑魅魍魎が跋扈するマーケットの一端をうかがうことができる一冊でした。私は早いとこディーラーを廃業しといて良かったのかな。

 

 

20138

ジム・コリンズ 山岡洋一訳『ビジョナリー・カンパニー3 衰退の五段階』日経BP

先月ご紹介した『ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則』(”GOOD TO GREAT”)に続くコリンズさんの著作です。最初のBUILT TO LAST、続くGOOD TO GREATにおいて、如何にして偉大な企業を設立し、存続させていくかを説き起こしてきたコリンズさんは、本書では”HOW THE MIGHTY FALL”という原題が示すように、偉大なる企業が如何にして衰退していくかを解き明かしています。奢れる平家は久しからず、ってわけです。ところで、日本語版のコリンズさんの名前の表記が前作とは異なっていますが、本書の著作者名として正式に書かれている表記をなぞったものです。何か心境の変化でもあったんですかね。

コリンズさんは前2作で行ったいかに偉大な企業になるかの分析より、本書で扱っている衰退の道筋の分析の方がはるかに難しかったと言っています。なぜなら、衰退の道筋の方がはるかに多様だからだそうです。コリンズさんはトルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭を引用しています。「幸せな家庭はどれも似通っているが、不幸な家庭はそれぞれ違っている」なるほどね。とは言え、分析の結果導き出された衰退の5段階の枠組みの中身は、大日本帝国やローマ帝国の盛衰などを通じて大いに論じらられてきた論点に大いに通ずるものがあります。私も組織の失敗として論文に採り上げ議論したところであります。

いささか不謹慎ではありますが、私は本書を大変面白く読了いたしました。だって、他人の失敗がその原因とともに容赦なくえぐりだされているんです。しかも、その他人ってのはいわゆる社会的エリート、どっかのCEOだったり頭取だったりするんです。他人の不幸は蜜の味……。

 

 

伊丹 敬之場の論理とマネジメント』東洋経済新報社

 

「どうも、マネジメントのスタイルには、日本とアメリカの間に基本的な違いがある」

「アメリカのビジネススクールで大学院教育を受け、博士号をとり、教えもした私は、日本に帰ってきた当初はアメリカ一辺倒の若い学者だったに違いない。しかし、日本企業の現実を、いいところも悪いところも詳細に知る機会が増えるにつれ、そうした「違い」の官学が強くなってきた。どちらがいい悪いの問題ではなく、違うのである」

冒頭のこの文章が本書の内容を語りつくしているように思えます。

続く場面で伊丹さんはこのような違いをスポーツに例えています。アメリカが発祥の地であり現在も人気のあるアメリカン・フットボールや野球は分業の徹底したスペシャリスト集団を司令塔であるクォーターバックや監督の指令に基づいて作戦が実行されていきます。これに対してヨーロッパが発祥の地で現在も人気のあるラグビーやサッカーはフィールドに立った選手は監督などからの指示を受けることなく自らの判断で動き、ゲームを展開させていきます。どちらのスポーツがより優れているか、といった問いは無意味でしょう。

ラグビーやサッカーの選手が明確な指示や作戦などがなくてもなぜ自らの判断でチームとしてプレイできるのか、という問いに対する答えを伊丹さんは“場の論理”に求めているわけです。

ま、しかし、人間ってやつは洋の東西南北でそうそうガラッと変わるもんでもないでしょう。サッカーやラグビーにだって作戦は必要ですし、アメリカン・フットボールや野球にだってプレイヤーが瞬時に自分で判断しなくてはならない場面だってあるでしょう。野球やアメリカン・フットボールみたいな命令型のスポーツが発達したのは、もともとアメリカ人は命令なんて聞かない自分勝手に行動する奴ばっかりだったから、てことなのかもしれません。逆に日本で“場の論理”が重視されるのは、日本では上下関係が厳しく黙っていても服従はするけれども自分からはなかなか行動に移さないし、ヨコの関係が極めて弱いからこそ重要になるからなのかもしれません。それぞれの集団の持つ弱点を補い、組織としてのバランスをとることは経営方針としては妥当なところなのかもしれません。

本書の第8章で伊丹さんは「ヒエラルヒーパラダイムから場のパラダイムへ」という、パラダイムの変換について論じています。ちょっと形は違うのですが、私もなぜコンプライアンスが要求されるようになってきたのかという疑問から同じような論証をしています。ご興味のある方は拙論をお読みください。

前述のように、本書で伊丹さんはアメリカ流の経営スタイルとは異なった日本独自の経営スタイルがあるのだ、と強調しておられます。論文としては違いを強調するのは当然ですが、私にはいささか合点が行きませんでした。本書の中ほどにサブタイトルが「制御と放任の中間に経営の本質がある」となっている部分があります。中間とは“真ん中” という意味ではなく、“その間のどこか”という意味でしょう。そしてそのどこがベストか、は組織によって異なります。同じように、組織において、タテの関係が重要なのかヨコの関係が重要なのか、っていうと、結局“どちらも重要”ってことになるんじゃないですかね。だとすれば、日本流とかアメリカ流、ってワーワー言っても結局はニュアンスの差、しかも日本の中においても、アメリカの中においてもそのニュアンスの差ってのは結構あるのではないでしょうか。

本書において伊丹さんは日本独自の経営哲学があることを論証しようとしているようですが、最近経営学の教科書を読み続けている私としては、相違点よりも類似点の方が多く心に残りました。

 

 

水嶋 康雅サプライネットワーク・マネジメント』白桃書房

 
 

現代の企業活動においては、はグローバルな展開が好むと好まざるとにかかわらず必要とされるようになってきました。原材料の調達、工場における生産、販売などがすべて日本国内だけ、などという大企業はほとんどないのではないでしょうか。

活動領域が広がれば広がるほど各部門が勝手な活動をするようになります。が、それでは当然非効率的。原料の調達、マーケティング、生産、販売などの各段階の間でいかに効率よくモノと情報をスムーズにやり取りしていくか、がグローバル企業の大きな課題となるのです。

本書において、ソニーの物流担当役員や物流子会社・ソニーロジスティックス(現ソニーサプライチェーンソリューション)の社長も経験し、現在は多摩大学のサプライネットワーク・マネジメント研究所の所長を務める水嶋さんがロジスティックスのイロハからンまでを解き明かしていきます。

水嶋さんが本書で主張されていることの中で、特にそうだな、と思ったのは、ロジスティクスの改革とは単なる物流コストの削減といった部分最適を図ることではなく、ビジネス全体の最適化を図ることである、という点です。

e-コマースがもてはやされた当初は無駄な在庫を持たないことによるコスト削減が売り物でした。現在では世界最大の本屋さん(最近は何でも売ってるけど)であるアマゾンも、設立当初は在庫を持ちませんでしたが、現在では世界中に大規模な物流センターを持ち、もちろん在庫も持っています。なぜこのようなビジネスモデルの変化があったのかは拙論でも採りあげたところですが、平たく言えば、アマゾンのビジネスモデルにおいては在庫を持った方が良かったということです。

部分最適ではなく全体最適を目指さなくてはならない、なんてのは、経営学の基本のはずなんですが、案外見落としてしまうんでしょう。私たちがキャリア重ねていく上では、どうしてもある程度の専門性が要求されます。が、専門性が深まれば深まるほど視野狭窄に陥る恐れがあります。その最たるものが先の大戦における日本軍のロジスティクスなんか無視した戦争指導になるのでしょう。軍隊の参謀なんてエリート中のエリート、秀才中の秀才しかなれなかったはずなんですけどねえ。

本書は基本的にロジスティクスを取り扱っているわけですが、単なる物流の部分最適化だけを論じているのではもちろんありません。自然災害時のロジスティックス機能の活用、コンプライアンス、人材育成・評価といった経営全般で論じられる内容をも含んでいます。一分野の専門家であるからといってその分野にだけ詳しければ良いのではありません。水嶋さんが単なるロジスティクスの専門家というだけではなく、優れたジェネラリストでもあることが良く示されているように思えました。

 

 

入山 章栄世界の経営学者はいま何を考えているのか』英治出版

 

経営学に関する本をここ数カ月紹介してまいりましたが、最後に本書をご紹介しておきましょう。入山さんはニューヨーク州立大学バッファロー校のビジネススクールでアシスタント・プロフェッサーをしている現役の若手経営学者です。

昨今、海外のビジネススクールでMBAを取得したビジネスマンも多くいらっしゃいますし、それらの方々を通じて様々な経営学の知識が我が国にもたらされています。が、入山さんは「世界の経営学者のあいだで議論されている「経営学の知」が日本の皆さんにあまり知られていない」、「日本の多くのみなさんがなんとなくイメージされている経営学と、海外で学者たちが今発展させている経営学の研究のあいだには隔たりがあるのではないか」と感じておられるそうです。

ま、経営学なんてのは“ザ・アメリカ”といった感じの若い学問ですので、ヨコのものをタテにするのに時間がかかってしまい、本格的な日本人の経営学者がまだ育っていないのかもしれませんね。昨今MBAホルダーの数は増えていますが、MBAって修士号ではありますが、いわゆる研究者育成とは異なるスタンスの教育がおこなわれていますからね。

入山さんによれば、現在のアメリカの経営学者の間ではポーターなんてのはもはや時代遅れで、ドラッカーなんてのは科学的な分析ではなく、まともな経営学者は相手にしていないんだそうです。へー。だから、ドラッカーが日本で受けているのは、アメリカでは受けないいかにも“浪花節”的なところがあるから、なのかもしれませんね。日本では有名なデミング(あの“デミング賞” デミング)だってアメリカじゃ大したことない学者だそうですからねえ。

ところで、入山さんは現在の経済学というのは、統計学を駆使してデータの分析を行い、理論を検証するものになっているとしています。そして、統計処理(大多数は回帰分析)に際して陥りやすい罠についても記述しています。回帰分析とはあるデータと別のデータの間に統計的関連性があるかどうかを検証するものです。ただ、このふたつのデータは何でもよいのではなく、理論的な関連性(原因と結果とか)がなくてはならないとされています。私が大学の学部生として経済学を学んでいたころ(1980年代初頭ですね)、この説明の例として挙げられたのは、(戦後)日本のGDPと年度の関係です。当時、まだ右肩上がりの経済成長をしている最中でしたので、X軸に年度、Y軸にGDPをプロットすれば、非常に高い相関を示すことが予想されます。が、年度とGDPの間に経済理論的関係などありましません。

GDPと年度だけでは見場が良くありませんので、これに投資額とかなんとかを付け加えて立派な経済モデル(経済成長率予測マクロモデル、とかなんとか)をでっちあげる、なんてことが行われていました。相関(correlation)などの関係もあり、変数を多くすると大体の場合決定係数が上がります。でも、変数の中で最も影響が大きいのは恣意的に決められる“大先生の数”だったりします。まともに考えればこんなの意味はありません。定量的評価より定性的評価(“経営において積極的な競争行動をとっているか”)が重要な意味を持つ経営学の分析においては無視できない問題であるはずです。でも、私がこのような議論を聞いたのは学部学生の頃。2000年代になって経営学会で議論になったとか書かれていますが、うーん、という感じです。

あ、それから本書に紹介されている2003年に発表された研究論文で山岸敏雄先生の研究が何度も引用されていると紹介されています。経営学は今や社会心理学の分野にまで関心を持っているって。山岸敏雄先生といえば、私も2002年に発表した論文その他で何度も引用させていただきました。ワハハ、結構目の付けどころが良かったのね。

気鋭の経営学者によって書かれている本書ですが、小難しい議論は避け、エッセイとして読めるように書かれています。これからのご活躍を期待したいと思います。

 

 

20137

ジェイ・B・バーニー 岡田正大訳『企業戦略論 上 基本編【競争優位の構築と持続】』ダイヤモンド社

本書はMBAコースの教科書であることを意図して書かれていますので、各章の終わりには「本章の要約」と「演習問題」が置かれ、そして参考となる学術論文が注の形で付されています。ついでに〈演習問題〉まで付いてますよ、解答はないけど。「訳者のまえがき」には、「MBA課程の学生や実務家が戦略論のテキストとして読む場合には本文のみを読解すればよいし、戦略を専攻する博士課程の学生は各章の注に挙げられた学術論文を「すべて」読破」するように、と書かれています「事実、バーニー教授の下では、この教科書に参考文献として挙げられたすべての学術論文を博士課程での戦略論セミナーのリーディング・リストとして用いていた」んですって。ひょえー。当然のことながら私は本文しか読んでいません。専攻はコンプライアンスだったので許して下さいね。

ところで、本書の第2章「パフォーマンスとは何か」において、アルトマンという人が開発した倒産確率を推計する式が紹介されています。1968年発表の論文に掲載されているようですので本書が書かれた時点でもかなり古いものですが、ここで紹介されている原理は現在多くの格付機関や金融機関から発売されている格付モデル(各種格付機関が発表するような格付けを複製(replicate)する算式)に採用されているものと全く同じです。しかも現在では業種その他で細分化されて、より精度は上がっています(しかも定期的に最新のデータに基づきアップデートされています)。コンピュータで財務指標を処理して算出していますので、人によっては“客観的データに基づいて算出”なんて過大評価していますが、実は単純な回帰モデルで、ベンチマークとしているのは格付け会社が発表している指標だったりします。もちろんバックテストは行っていますが。実は私、このようなソフトウェアの販売に従事したことがあるので結構良く知っているのですが、このようなソフトウェアは、数多くの取引先についていちいち詳細にクレジット・リスクを推定できない(株や債券のディーリングをするとき、詳細なクレジット・リスクの評価をしている暇はない)などの場合に用いられます。あまりありがたがって経営学の教科書に掲載するようなものでもないと思うんですが、いかがなもんでしょうか。

MBA教科書の定番。本棚にないと恥ずかしい?

 

 

内田 和成異業種競争戦略』日本経済新聞社

【送料無料】異業種競争戦略 [ 内田和成 ]

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価格:1,785円(税込、送料込)

今までの常識ですと、ある業界の企業のライバルは同業他社でした。ところが、昨今ではそんな常識が通用しなくなってきて、いきなりあさっての方向から強烈なフックが飛んできて、あっという間にノックダウン、なんてことになりかねなくなってきました。この世の春を謳歌していた天下の任天堂も、ここ一二年赤字を計上しています。PSPX-BOXとの競争に敗れたのかというとそうではなく、敵はスマートフォンだったのだそうです。

天下のトヨタだって明日のライバルはコカコーラなんてことにならないとも限りません。もしそうなったらどうすんだろ、という疑問に対する一つの答えが本書です。

と言っても、あなたの会社もこうしていれば絶対、などという戦略が語られているわけではありませし、こうすればあなたもアントレプレナーになって大金持ち、なんて作戦が書かれているわけでもありません。ま、そりゃそうだな。

本書の後半で「敵を知り、己を知れば、百戦して危うからず」という孫子の言葉が引かれています。経営学だ何だって偉そうに言っていますが、人間なんてここ数千年そんなに変わってないんだって。というか、現代流の飛び道具がない分、孫子の方が考えに考え抜いていたんだってことが良く分かりますよね。そういえば、バーニーさんの本にも、ある業種で長年業績を上げているにもかかわらず何が競争優位の源であるのか良く分からない会社の例が引かれていました。その会社は革新的な製品も、独創的な組織も持っていなかったそうです。その会社は全ての業務をきちんとこなしていただけだったのだそうです。ひとつひとつは大したことがないのですが、それが積もり積もると一朝一夕には追い付けなくなってしまうのです。経営学、なんて言っても、何か特別なことがあるんじゃないんですね。

本書はMBAコースの教科書と言うよりは新入社員が通勤の途中にお手軽に読む本といった体裁に仕上がっています。気軽に読めますので、ポーターだとかバーニーだとか(重いし読みにくいし)を読む前に一読しておくと、その後の勉強が楽になるかもしれません。

 

 

恩蔵 直人マーケティング』日本経済新聞出版社

【送料無料】マーケティング [ 恩蔵直人 ]

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価格:903円(税込、送料込)

 

本書はサラリーマンが通勤電車の中でよく読んでいる日経文庫の一冊です。ということで想定読者像や学術的水準はお分かりいただけるものと思います。

本書の中にも孫子の言葉が引用されています。「私が敵を攻略した戦術は、全ての人が理解できる。だが、勝利を導きだした戦略は誰にも分からない」偉そうなことを言っている経営学者だか何だかに分かる訳ないだろう、って意味かしら。

それはともかく、「マーケティング」という言葉はあちこちで使われていますが、人によって“販売活動”であったり、“市場調査”であったりして、いまひとつ意思の疎通が図れない場合があります。私もヘッドハンターに「マーケティングの仕事はやったことがありますか」なんて漠然と聞かれて困ったことがあります。社長じゃないんだから、仕事ったって末端の末端、誰でも出来るような半端な仕事しかやった事ありませんよ、どーせ。

またまたそれはともかく、本書ではマーケティングの本質として「マーケティングの目的は販売を不要にすること」だというドラッカーの言葉が紹介されています。なるほど、と思わなくもないのですが、私はマーケティング・オリエンテッドな会社の作る車は今一つ好きになれません。タクシー会社やってるんならそういう車を買うんだろうけど、自分用としてはね。どちらかと言うと、ほとんど独りよがりで作ってるようなエキセントリックな車、もしくはそこらで見かけない車の方が好きですね。マーケティングで顧客の意思を実現することも大事でしょうが、自分が作りたい、自分が乗りたい車を作ろう、って思わなきゃロータスは生まれませんよね。もしかしたらフェラーリは生まれたかもしれないけど。運転は下手なくせして速い(速そうな)車を欲しがるアホな金持ちに車売ってレース代稼いじまえって。エンツォ・フェラーリは長らく自分の作る車に乗ってなかったって言われてますもんね。ま、フェラーリに乗ってる人たちへのやっかみが半分ぐらい入ってますが。

ところで、営業活動(マーケティングの一部です)の進化として本書では取引マーケティングからリレーションシップ・マーケティングへという動きが紹介されていますが、本書が出版された2004年ごろ、私はGNP営業(義理・人情・プレゼント)で名高い生命保険業界に居りましたが、そんなものを実践しているかどうかはともかく、すでにソリューション・マーケティングを標榜する時代になっていました。各社同じようなキャンペーンを張ってましたね。きっとマーケティング学会だか何だかでの流行りだったのでしょう。

またまた、またまたそれはともかく、マーケティングの概要を手軽に概観できる一冊でした。

 

 

ジェームズ・C・コリンズ 山岡洋一訳『ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則』日経BP

 

本書はコリンズさんの書いた『ビジョナリー・カンパニーが、「あの本に書かれている企業はほとんど、はじめから偉大だった。良い企業から偉大な企業に飛躍する必要はなかった」、だから役に立たないという思いがけない批判を受けたため、「良い企業は偉大な企業になれるのか。そして、どうすれば偉大な企業になれるのか」という観点から書き起こされました。本書に取り上げられている偉大な企業は11社ですが、コリンズさんは過去35年にもわたる資料を収集、単に良い企業と偉大な企業を分かつ要因を明らかにしています。したがって、本書の原題は『GOOD TO GREAT』となっています。

本書で偉大な企業として取り上げられている企業は、一般的に偉大だと思われているような3M、コカコーラ、GEなどではありません。それは、「株式運用成績が15年にわたって市場並み以下の状態が続き、転換点の後は一変して、15年にわたって市場平均の3倍以上になったこと」という基準を満たす企業を探したためです。つまり、長年にわたって大したことない企業であったにも関わらず、ある明確な出来事をきっかけとして偉大な企業になったという、研究するには真に都合がよい企業を探したためです。

でも待てよ、そうするとその逆の可能性もあるってことか、と思って偉大な11社を眺めてみると、本書の出版後、サブプライムローン問題の直撃を受けてずっこけてしまったファニーメイなんてのが入ってます。本書では、「モーゲージ証券のリスク評価については他社にない能力を開発できる」と評価されてますが。一時偉大であっても持続する保証はどこにもない、ってことでしょうか(実は“偉大な企業の持続”というのが前書『ビジョナリー・カンパニー』のテーマです)。いやあ、難しいもんですねえ。

コリンズさんは「ほとんどどの組織も、この調査から導き出された枠組みを適用して努力を続ければ、地位と実績を大幅に向上させることができるし、おそらく偉大な組織になることすらできる」と書いてはいますが、誤解してはいけません。皆が皆同じように努力をしたら、皆さんただの平均点なんです。誰も偉大だとは評価してくれません。皆が皆ビル・ゲイツと同じだけお金を持っていたら、世の中インフレになるだけであなたがお金持ちになれる訳じゃないんです。他所の書評でも触れましたが、どうもここら辺が経営学の限界なのでしょうか。

と、ケチをつけてみましたが、私は極めて興味深く、そして、経営学の教科書の感想にしてはいささか変ですが、感動しながら本書を読了いたしました。本書で取り上げられている経営者たちは経営学の教科書で何度も取り上げられているカリスマでも、自伝がベストセラーになりタイムやニューズウィークの表紙になるようなスーパースターでもありません。優秀ではあるが普通の人たちが、見たくない現実を直視し、課題をひとつずつ片づけていった結果(そして若干の幸運も…)として偉大な企業を築いたのです。本書冒頭に書かれている偉大な企業の“〜ではない、〜ではない”という部分には大いに感銘いたしました。へー、なるほど、それなら俺だって。その内容は……、本書をお読みください。

 

 

20136

W・チャン・キム、レネ・モポルニュ 有賀裕子訳『ブルー・オーシャン戦略』武田ランダムハウスジャパン

 

“ブルー・オーシャン戦略”とは、キムさんが提唱する新しい競争戦略のことです。本書評でもポーターさんの『競争優位の戦略を紹介いたしましたが、ポーターさんの競争戦略が低価格戦略か差別化によって競争のある既存市場(血で血を洗うレッド・オーシャン)において競争優位を得るとしているのに対し、キムさんは競争のない新しい市場(ブルー・オーシャン)を開拓することにより低コストなおかつ高収益の得られる競争優位を得るべきだとしています。

この話を読んでいて、世界の高級車ロールス・ロイスの話が頭に浮かびました。ロールス・ロイスは自動車会社ですが(ロールス・ロイス・モーターカーズ。航空機エンジンで有名なロールス・ロイスPLCは現在別会社)、その製品は自動車のヒエラルヒーにおいて孤高の存在。ロールス・ロイスを買う(というか、買える)顧客は世界のスーパーリッチであり、どーせ車なんぞ何台も持っています。ですから、新たにロールス・ロイスを買う時に考えるのは、新しい別荘を買おうかな、とか、クルーザーが良いかな、ってなるんだそうです。ライバルは車じゃない。これが、メルセデス・ベンツとかだと、いくら高級車とは言え買う時に比較対象されるのはBMWとかアウディになるわけです。

ところが、このロールス・ロイスは現在BMWの傘下になってしまいました。ロールス・ロイスの見つけたブルー・オーシャンは青くなかったのでしょうか。

まあ、普通に考えれば、世界中の頭の良い人たちがありとあらゆることを考えてビジネスをしているはずです。あ、ブルー・オーシャン見っけ、と思った瞬間、世界中からライバルが殺到することだってあるはずです。ブルー・オーシャンったってそんなに広くない場合だってあるでしょうし、バブルの崩壊によって干上がっちゃうブルー・オーシャンもあるはずです。ですから、本書でも高く取り上げられているドコモのiモードなんて、今でもやってるのって感じですもんね。

ま、結局のところ、企業経営ってのはエンドレスな営みってことなんじゃないでしょうか。

 

 

クレイトン・クリステンセン 玉田俊平太監修/伊豆原弓訳『イノベーションのジレンマ』翔泳社

奢れる平家は久しからず、というわけで、一時はビジネス界の風雲児だかなんだかともてはやされた企業も、何かのきっかけで没落してしまうことがあります。

運・不運もあるでしょうが、一般的には何らかの経営上のミスが後々の失敗につながった、なんて感じに理解されているのではないでしょうか。クリステンさんは「すぐれた経営こそが、業界リーダーの座を失った最大の理由である」としています。

ある企業(DEC、シアーズ、ゼロックスその他が取り上げられています)が業界のリーダーになれたのは、「顧客の意見に耳を傾け、顧客が求める製品を増産し、改良するために新技術に積極的に投資したからこそ、市場の動向を注意深く調査し、システマティックに最も収益率の高そうなイノベーションに投資配分した」からこそリーダーになったのであり、同じことが原因でリーダーの座を失ったのだ、としてます。ま、過剰適応ってやつですね。

過剰適応といえば、日清・日露戦争に勝って思いっきりそっくりかえっちゃった日本軍部の先の大戦における失敗なんぞでも語られているストーリーでありますね。ま、ここら辺は拙論でも採りあげているところです。

これに対してクリステンさんは5つの対策を提言しています。その内容は本書をお読みいただきたいと思いますが、平たく言えば、いくら成功したからって何でも分かってるわけじゃないのよ、思いあがっちゃダメよ、ってことなんじゃないでしょうか。なんだか経営学も宗教的になって来ましたねえ。

 

 

佐々木 久臣いすゞの生産現場から生まれた完璧品質をつくり続ける生産方式』日刊工業新聞

佐々木さんは生産技術者として世界各国においていすゞの工場の立ち上げに携わってこられた方です。退任後東京大学大学院経済研究科特任研究員として日本の“ものづくり”の学術的観点からの研究及び推進・普及に携わっておられます。本書も豊富な実例とそこから生み出された普遍的法則の両面から書かれていますので、大変面白く読めました。

本書の中で佐々木さんは「品質管理が第1優先、生産性は第2」と書かれています。二兎を追うものは一兎を得ず。実は、同様のことを本書評でもご紹介したかの小倉昌男さんもおっしゃっています。小倉さんの場合は運送業の現場における「安全第一、営業第二」ということでした。

でも、安全第一では営業活動がお座なりになり、経営的に立ちいかなくなるのではないか、というとそうではなく、しっかりと安全が確保されれば、営業効率だって必然的に良くなるのだそうです。ところが、安全も営業も両立させろ、とか品質管理も生産性も上げろ、なんて二つのことを欲張ると結局どちらも中途半端になってしまうのだそうです。ま、分かりますよね。

同じようなことをコンプライアンスの現場でも感じてまいりました。“コンプライアンスの確保と営業効率の向上”なんてね。ま、うまくいかないんですよ。営業成績が悪いと“コンプライアンスなんてやってられっか”って話になっちゃうし、営業成績が良けりゃ良いで“コンプライアンスは黙ってろ、どうせコンプライアンスじゃ食えないんだし”って言われちゃうんです。経営ってのは言うは易し行うは難しですねえ。

佐々木さんの経験に基づいた豊富な実例を経営学的な観点から補強してありますので、生産現場の実務ばかりでなく、経営全般的な観点からも大変参考になるアイデアが満載でした。ぜひご一読を。

 

 

山田 英夫逆転の競争戦略[3]』生産性出版

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日本における(世界的視点から見ても)自動車業界のガリバーはトヨタです。他社の人商品が売れたと見るや同じような商品(しかも欠点をつぶしてある)を投入、市場をかっさらって行ってしまうそうです。最近の有名な例としてはホンダ・ストリームとトヨタ・ウィッシュ。まともに勝負しても、勝負になりません。ジャイアンに喧嘩をっ吹っ掛けるのび太みたいなもんです。鎧袖一触。あれ〜。

じゃ、ジャイアンには永遠に勝てないのか、って言うとそうではありませんよ、というのが本書のテーマ。細かい戦略の詳細は本書をお読みいただきたいと思いますが、一言で言ってしまうと、何らかの要因でガリバー企業が採りにくい商品や市場で勝負をかける、というものです。なるほどねえ。

本書第1版が出版されたのは1995年ですが、その後2004年に第2版、2007年に第3版とアップデートされています。特に第3版では事例の三分の一が入れ替えられているそうです。翻訳ものですと翻訳の遅れ、事例そのものになじみがない、など日本人の読者にとっては理解しづらい部分があるものですが、本書ではそのような心配もなく読み進められました。ぜひご一読を。

 

20135

フィリップ・コトラー 村田昭治監修 小坂恕・疋田聡・三村優美子訳『マーケティング・マネジメント 7版』プレジデント社

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邦訳も12のまで出版されているようですが、私が持っているのは大学院に在籍していたころ買った本ですので第7版の邦訳です。英語版では現在14版が出版されているようです。ま、基本は同じだろう、という希望的観測で第7版をベースに書評を書いておきましょう。

コトラーの『マーケティング・マネジメント』といえば、マーケティングの上級テキストの決定版だそうですから、読まれた方も多くいらっしゃるかもしれません。

「マーケティングは、まだ満たされていないニーズとウォンツを発見し、定義し、その程度を測定し、どのターゲット市場を対象とするべきか選定し、それらの試乗に適合する製品、サービスそしてプログラムを開発し、組織全体に顧客視点に立つことを要請するビジネス機能である。社会的な観点からいうならば、マーケティングは一国の産業能力を社会のウォンツに適合させる力といってよい」

「真のマーケティングは、どう売るかの販売技術ではなく、何をなすべきかを問うものである」

つまり、マーケティングとはセールス・テクニックの問題じゃないよ、ということです。

本書は何しろ大学院の教科書ですから、利益最適化のために限界概念(要するに微分ですね)を使ったりしていますが、そもそももととなる関数が定義されていなければ微分もくそもないじゃないか、などとも思えるのですが、マーケティングにおいてはもっと抽象的な場合、例えば製品価格をどれだけ下げれば他社顧客のうちどれだけを奪えるか、なども数式化して考えたりします。そんなものやってみなきゃ分からないじゃないか、と言ってしまえばその通りなのですが、MBAの授業ではそのような推計をどのようにするのか、なども課題になるようです。分からないからできない、のではなく、分からないのであれば、どのようにして推計するか、どのような数値を持って代用するか、そしてそれらの数値が使用可能である根拠は何かが問題になります。決して当てずっぽうではないのです。そして結果が出れば、適宜推定値にフィードバックされます。

このようなことを企業文化として適切に行っているマーケティングの優秀企業としては「プロクター&ギャンブル、ヒューレット・パッカード、ディズニー、エイボン、マクドナルド、マリオット・ホテル、デルタ航空」などが挙げられています。確かに、社名を聞いたことがあるのはもちろんのこと、製品や企業イメージがはっきりとしている会社が多いようですね。でも、デルタ航空はその後再上場を果たすものの2005年、連邦倒産法第11の適用をニューヨークの連邦破産裁判所に申請しています(簡単に言ってしまうと会社更生法の適用)。また、マクドナルドも世界的には好調のようですが、日本では最近いささか陰りが見えるようです。また、本書で業界トップ企業として各所で取り上げられているGMやコダックが本書執筆後の20年ほどで味あわされた困難はご存じの通り。

いやあ、会社の経営って難しい。ま、だから面白いんでしょう。

 

 

M.E.ポーター 土岐坤・中辻萬治・小野寺武夫訳『競争優位の戦略』ダイヤモンド社

本書は1985年に出版されていますので、現在でもつかわれている経営学の教科書としてはクラシックといってもよいのではないでしょうか。日本語版も1985年の初版以来36刷を数えていますので、その価値は現在でも色褪せていない不朽の名著、なのでしょう。

本書はいかにして「競争優位をつくり、持続させる方法」に焦点を当てています。競争優位とは、同業他社その他の競争相手に対して自社の持つ優位性のことです。しばしば間違われるのですが、優位であるとは、単純にシェアが上回っている、ということではありません。スポーツカーのトップブランドであるフェラーリは決して単純な拡大路線を選択したりしません。

企業にとって重要なのはよい業績を持続的に上げていくことであって、“一花咲かせる”ことが重要なのではありません。で、本書は縷々いかにして競争優位を築くかについて述べていくわけですが、決して斬新なアイデアがあるわけでもなく、また、どんな会社が採用してもうまくいく魔法のような作戦を紹介しているのでもありません。地道で持続的な努力あるのみ。ま、そうじゃないと何十年も前の教科書が使われ続けるなんてことはありませんよね。

とはいえ、競争優位を持っていたはずのフェラーリだってつぶれかけて今じゃ親方日の丸ならぬフィアットの傘下。私も持っているロータスなんぞだともっとマニアックな路線をひた走っていましたが、やっぱりつぶれかけてプロトンの傘下。ま、エンツォ・フェラーリやコーリン・チャップマンがポーターさんの本を読むとも思えませんもんね。本書でも触れられていますが、競争優位ったってどんな分野でもいいから一番ってだけじゃ存続不可能。選択が難しいんですね。でも、それじゃフェラーリとかロータスなんて生まれてこなかったんじゃないですかね。それも寂しい。

ところで、本書では多角化経営を行っている大企業などにおける事業単位間における相互関係についても多く語られています。競争優位を確立するうえで相互関係を大いに活用することの効用を説く一方、企業内における相互関係を築くためには実に多くの障害があることもポーターさんは認めています。私は論文の中で業績評価の困難さなどを指摘するとともに、コミュニケーション手段の発達なども相まって大企業型の組織を維持していくことは困難であり、さまざまな小企業が業容によってフレキシブルな協力体制を築き上げるネットワーク型の組織へ移行していくことを予測しました。本書では企業がともすれば相互関係を社内ではなく社外へ求めてしまうことの危険性について警鐘を鳴らしています。本書が書かれたころとは企業の在り方も変容していると思いますが、現状は、そして将来はどのような方向へ向かっていくのでしょうか。興味あるところです。

 

 

藤本 隆宏、東京大学21世紀COEものづくり経営研究センター『ものづくり経営学』光文社

 
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  21世紀COEThe 21st Century Center of Excellence Program)というのは、「大学の構造改革の方針」(20016月)に基づいて2002から新たに開始された文部科学省研究拠点形成等補助金事業のことです。21世紀COEは、「我が国の大学に世界最高水準の研究教育拠点を形成し、研究水準の向上と世界をリードする創造的な人材育成を図るため、重点的な支援を行うことを通じて、国際競争力のある個性輝く大学づくりを推進することを目的としています

アジア各国の大学の追い上げも厳しく、世界の大学と比べたときの日本の大学の地盤沈下が懸念されていますので、そのテコ入れのためにお金を出しますよ、ということでしょう。

戦後の日本は“ものづくり”によって生産された製品を輸出することによって経済大国になった訳ですが、この“ものづくり”とは一体何であるのか、なにが優れていたので成功したのか、などについては深く追求されたり、理論化されたりすることはありませんでした。

昨今、日本の“ものづくり”の現場が疲弊している、“ものづくり”の拠点である工場が海外に流出し、貴重なノウハウが失われつつある、などと言われています。ということで、あらためて“ものづくり”について研究、得られた知識を共有しようではないか、ということでものづくり経営研究センターが設置されたそうです。

本書では“ものづくり”の概念的な分析は当然ですが、多くの日本企業における実践例が掲載されています。米国のビジネス・スクール用の教材ですと、企業名がピンと来なかったり、企業イメージが日本におけるものと異なっていたりで、いまひとつ実感が伴わないきらいがありますが、本書に登場するのはおなじみの名前ばかりですので、そういった意味からも読みやすく仕上がっています。

一読して感じたのは、バブルがはじけた後無批判に導入された“構造改革”がいかにまやかしであり、日本を疲弊させたのか、ということです。責任者出て来ーい!

日本のお家芸である“ものづくり”を復活させ、景気も回復、と行きたいものです。

 

 

常盤 文克コトづくりのちから』日経BP

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著者の常盤さんは花王の代表取締役を務められた方ですが、理学博士号を持っていらっしゃるように、研究開発方面で大いに力を発揮した型のようです。

常盤さんは“モノづくり”ではなく“コトづくり”という概念を提唱しています。

これは本書冒頭の小話が大変良い説明になっているようでした。

概略は、中世ヨーロッパの旅人が旅の途中で3組のレンガ職人たちに出会いました。何をしているのかと聞くと、一人目のレンガ職人はぶっきらぼうに「レンガを積んでいるんだ」と答え、2番目に出会った職人たちは「家を造っているんでさあ」と答えました。そして、3組目の職人たちは目を輝かせながら「あっしらは新しい町をつくっているんですよ」と答えた、というものです。

いくら“モノづくり”の効率を上げたところで、現場は疲弊するだけ。本当にモノを作るときの心の持ち方は違うのではないか。この本当のモノづくりをしている時の心の持ち方を“コトづくり”と名付けたわけです。何だか分かる気がしますね。

昨今、せっかく就職してもすぐ辞めてしまう若い人が増えているといった嘆きが世の中高年から聞こえてきます。でも、なんで辞めちゃうのか、って言うと、仕事が詰まんないからなんです。我慢して仕事をしていれば、より責任の重い仕事にも就けるし、仕事も面白くなるんだ、って言われても、信用できませんよそんなもん。大企業はリストラして経費を浮かせようとしているだけにしか見えませんし、中小企業はブラック企業ばっかりじゃないのか、なんて疑ってしまいます。最近じゃ社員を大事にする会社なんて話はとんと聞きませんからね。

本書ではコトづくりに成功した事例(アポロ計画、トヨタのプリウス、ホンダの役員大部屋などなど)が紹介されていますが、これらを形だけ真似したとしても本当の意味でのコトづくりにはならないということは強調しなくてはいけないでしょう。なんとかセミナーに出席した社長だとか役員が感銘を受けて、ま、思いつきなわけですが、新しい戦略だとか組織だとか何だとかかんだとかを採用しよう、なんてぶち上げることがありますが、ま、うまくいかないですね。理由は、分かるでしょ。

著者の常盤さん自身が経営者であったことも影響していると思いますが、本書ではいわゆる机上の理論は登場しません。そうではなく、常盤さん自身が感銘を受けた事例が多く取り上げられています。本書を読んでいると、日本もまんざら捨てたもんじゃないわい、と思えるようになります。是非ご一読を。

 

 

20134  

猪木 武徳経済学に何ができるか』中公新書

 

昨今の世界的不況を背景として、“経済学なんて役に立たないじゃないか”という論調が世にはびこっています。猪木さんは「われわれの知的遺産としての経済学の価値は一般に評される以上に大きいと筆者は考える」としています。あら、一般的評価が低いことは認めてるのね。

人間は経済学で想定するような完全な知識を持った合理的存在ではありません。人間は「一つの精神が、同時に相矛盾する二つの心情を持ち、その双方を受け入れることができる。そしてなおかつ、その矛盾を受け入れたことを忘れ、忘れたことも忘れ去ってしまえる」存在なのです。

本書の冒頭で猪木さんは不況が続く国民経済への「「完全な治療法」が見つからない大きな理由は、時に政策が、異なった立場の人々の富と所得の分配を左右するからであり、経済活動に参与する人々は同時に「利害関係者」でもあるがゆえに、議論や主張が自己の利害関心から自由になれないからである」と喝破しています。そう言えば、構造改革を実施した後、ちゃっかりと構造改革で思いっきり恩恵を受けただろう会社に天下っちゃった大臣もいたもんね。

本書において猪木さんは経済学について、その限界をきちんと見極めつつ、なおかつそこから得られるものもあるのだ、という見方をしています。昨今の金融政策に関する議論などを見ていると、経済(学)の専門家と称する人々がまことに不毛な“経済学的”議論を繰り返しています。経済学においては数学的な理論の正確性を期することは本質的にできません。従って、政策を議論するときにも“理論的にはこのようになる”などという議論は意味がありません。意味があるのは、このような期待に基づいてこのような政策を取ったが、結果としてはこうなってしまった、だから次の政策はこうする、といった自ら行ったことを評価し、動的な修正を加えていくことしかないのではないでしょうか。

人間、後悔はしちゃいけないけど反省はしなくちゃ。

 

 

高山 信彦経営学を「使える武器」にする』新潮社

   

私も起業に所属していた時代、様々な「研修」を受ける機会がありました。多くの研修が他の企業が採用して上手く行った手法を学ぶ「ケース・スタディー」やそれらを体系化した「ハウ・ツー」を教えるモノでした。講師が上手な場合、こういった研修も知的好奇心をそそるものではありましたが、だからと言ってそれで企業の生産性や個人の生産性が向上した、なんて目に見える効果は少なかったように思います。

実際にあったケースでは、部長が突然「今度の会議はブレイン・ストーミングの形式でやろう」なんて言い出したこともあります。なんでそんなことを言い出したのかと言うと、十中八九は社長だか役員だかが研修で聞いてきて、部下に話を振ってきたからです。そんなに効果があるんだったらまず役員会に取り入れてみよう、なんて提案は絶対にありませんからね。でも、こんなことを言い出す会社ってのは、風通しが悪くて言いたいことも言えない会社が多いんですね。ブレイン・ストーミングができる会社ってのはそもそも風通しが良い会社なんです。だからブレイン・ストーミングの効果が上がる。風通しが悪いからブレイン・ストーミングをやってみよう、なんて会社は、そもそも風通しが悪いからブレイン・ストーミングなんてものが機能するはずがないですよ。現象として表れていることと原因を取りちがえちゃってる。あーあ。

高山さんの現職は「経営コンサルタント」ではありますが、「私は契約を結んだ企業に対して1枚のレポートも提出しません。中期経営計画の草案を書くこともないし、新手の経営手法を押しつけることもない。パワーポイントできれいな資料を作って、永遠に実現できない「輝かしい空想上の未来」を示すこともありません」

では、何をやるのかというと、「人材研修」。ただし、題材はその企業の経営戦略そのもの。生徒たちにその企業が取るべき戦略を徹底的に調べ、考えさせるのです。それも1日、1週間といった単位ではなく、何年も。10年以上継続契約している企業も多くあるそうです。いやあ、すごい。

高山さんが受講生に考えさせるのは「「How」はいらない「What」を考える」ということです。受講生は実際に会社で働いているわけですからいろいろと改善提案もありますし、もちろん不平不満もあるわけです。でも、高山さんが受講生に求めるのは業務に直結したカイゼン提案ではなく、もっと大きな戦略。そんなもん、普通は考えていませんよね。だから大変。

まあ、通常業務を漫然とこなしているだけの社員って結構多いんですよね。その仕事がどのような意味を持っているか、なんて考えないで流れ作業でやっているだけ。内容を詳しく問われると良く分かっていない。だからミスも多い。ま、私はその一人じゃなかった、って言い張る自信はありませんが。

本書に書かれている高山さんの講義のアイデアは、斬新で独創的か、というと、実はそうではありません。選ばれている経営学の教科書もオーソドックスなものです。では、何が違うのか、と言うと、そのようなアイデアを“業界の常識”や“村の論理”に囚われることなく経営学というツールを使って徹底的に考え直すことを実行させるところにあります。そして、考えるのは高山さんではなく、実際にその企業に勤めている受講生たち、なのです。

なるほど。私も経営学の教科書を読み直してみましょう。

   

 

鍋島 高明人はみな相場師』河出書房新社

【送料無料】人はみな相場師 [ 鍋島高明 ]

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価格:1,785円(税込、送料込)

   

本書は著名な相場師たちの残した相場格言などを通して「勝つための法則」を見出そうと試みたものです。

鍋島さんは日本経済新聞で様々なコラムを担当していた元ジャーナリストです。相場の世界(それも兜町ではなく蛎殻町の方みたいです)に魅せられ、現在は市場経済研究所会長として様々な相場師たちの足跡をたどる活動を続けておられる方だそうです。ただし、経歴からは本人が相場を張っていたのかどうかは分かりません。

ということで、鍋島さんは自身の言葉として本書にはっきりと書かれていはないのですが、ギャンブルとか博打(鍋島さんは相場とは投資活動であり、ギャンブルとは異なるのだと力説していますが……)ってのはおもしろいものなんです。私の十数年に及ぶプロの為替ディーラーとしての経験からも間違いないと思います。読み勝った時の快感は間違いなく依存症になるレベル。本書でも福沢諭吉の女婿福沢桃助の言葉として、「実に色情と賭博は人間本来最も愛好するもの。好むとところに溺れるから過ぎる。快楽に淫するから、身を滅ぼす」が紹介されています。福沢桃助さんは相場界を勝ち逃げ、実業界へ転身したそうです。私も足は洗いました。何もしなくても食って行けるほどではないので完全な勝ち逃げとはいえないかもしれませんが。

本書には内外の様々な相場で名をはせた男の中の男たち(女性もいます)が文字通り意地を(もちろんお金も)賭けて丁々発止とやりあった名場面が多く語られています。その名を今に残す相場師たちから、一瞬の輝きで終わってしまった相場師たちまでその人生は様々。

あなたはこの本を読んで相場を張ってみようと思いますか、それともやっぱりやめておこうと思いますか?

 

 

中野 剛志・柴山 桂太グローバル恐慌の真相』集英社新書

   

2008年のリーマンショック以来、世界経済は荒波にもまれ続けています。2012年、各国で政権が交代しましたが、経済の再建は多くの選挙でテーマとなしました。経済学が万全のものであれば不況などあっという間に終わるはずですが、残念ながら経済学の碩学たちのご託宣もあまり効果がないようです。柴山さんはなぜグローバル経済が不安定なのかを簡潔に説明しています。「そもそもグローバル経済が不安定なのは、当たり前のことです。グローバル経済は、国内経済と違ってだれも管理する者がいません。世界的な再分配の仕組みはありませんし、市場の失敗を補ってくれる制度も発達していません」「問題は、資本主義をうまく枠づける制度や仕組みがなくなっていること、それを導く思想やアイデアが、まだ十分に準備されていないところにあります」なるほどねえ。

本書では、グローバル化だってよくよく考えれば今までの歴史で何度も繰り返され、そして終わって来たサイクルの一つなのだと指摘されています。言われてみれば、アレキサンダー大王による東征だって、ローマ帝国だって、モンゴル人による大陸制覇だって、大航海時代だって、その時代に生きていた人々にとってはとんでもないグローバリゼーションの嵐が突然吹き始めたようなもんだったんではないでしょうか。でも、そのような繁栄は必ず大きな混乱とともに終わって来た、と。

ただ、最近ではいろいろと研究も進んできていますので、なるべくクラッシュを避けようと策を弄するわけです。で、現在の経済体制の最大のガンはアメリカ経済です。何としてでもアメリカ政府はアメリカ経済を支えなくてはならない。いや、誰かに支えてもらわなくてはならない。アメリカ経済を支える金を持ってる誰かってのは誰かっていうと、日本。で、TPPなんて話が出てくるわけです。自分たちで苦労して働くより誰かからかっぱらって来よう、って訳です。さすがジャイアン。

しかし、人類はこんなしょーもないことを何度も繰り返していて進歩しているって言えるんでしょうか。アインシュタインは「問題を生じさせたときの考え方で、その問題を解決できるわけがないだろう」と言ったそうですが、その通りですね。人類を今一歩進歩させるブレークスルーはいつ来るんでしょうか。アセンションは起こんなかったし。

本書は基本的に中野さんと柴山さんの対談という形式を採っていますので、必ずしも議論が深く掘り下げられているわけではありません。経済学の研究者などにとっては浅薄な議論に映るかもしれません。しかし、元となるアイデアは決しそんな安っぽいものではないと思います。これからの日本の針路を決める上で大変参考になる議論の原点が満載だと思います。せひご一読を。

 

 

20133

 ジョン・ロンソン 吉川奈々子訳『サイコパスを探せ』朝日出版社

ロンソンさんはイギリス人のコラムニスト。本書表でも実録・アメリカ超能力部隊という本をご紹介したことがあります。その他、ネオナチやKKKに取材した本なども書かれているそうですから、ダークでディープな世界に関する取材がお好きなようですね。

本書は世界の複数の学者がスウェーデンのイェーテボリから「我戻りしとき、汝はさらに知るであろう!」と記された奇妙な封筒に入った謎めいたメッセージに満ちた本を受け取け取ったものの謎は解けず、ロンソンさんになぞ解きを依頼するというとてもノンフィクションとは思えない場面から始まります。

サイコパスとは「非常に独善的で、「他人への同情」や「良心の呵責」、「罪の意識」を持たない捕食者である」

「罪の意識も後悔もなく社会的規範を破り、期待を裏切る」

「その一方、彼らはしばしば容姿端麗で、口がうまく、人当たりがよく、チャーミングで人を惹きつける」

「刑務所人口の25がサイコパスで、一般社会においては人口の1を占めるといわれているが、CEOや政治家など社会の上層府に限ると、サイコパスの割合はその34倍になるという」

犯罪者はともかく、起業の上層部なんてイヤミな奴ばかりだもんね。サイコパスが多い、って話はそうなのかもしんないなあ。

それはともかく、ロンソンさんは様々なサイコパスと思われる人物やサイコパスに関するインタビューを繰り返して行くうちに、あることに気がつきます。それは、正常な人間とサイコパスの人間と言う二通りの人間が存在するわけではないということです。二者の間には広いグレーゾーンが広がっているのです。あなたや私だって少しはサイコパス的な要素を持っているのです。

CEOや政治家なんかにはサイコパスが多い、なんていうサイコパスの専門書をまず読んでしまうと判断にバイアスがかかってしまう恐れがあります。サイコパスって何だ、と思った方ははず本書のような本からお読みになることをお勧めします。何と言ってもロンソンさんはジャーナリスト。物書きが本業ですから大変読みやすく書かれています。ぜひご一読を。

 

 

ジェームズ・ブレア、デレク・ミッチェル、カリナ・ブレア 福井裕輝訳『サイコパス―――冷淡な脳

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本書はジャーナリスティックな観点からサイコパスに迫ったロンソンさんの本とは異なり、アカデミックな立場からサイコパスに迫ったものです。一般読者というよりは専門家に向けて書かれています。

どのような症状を示せばサイコパスであるか、という問題については学者の間でもかなりの程度まで合意がなされているようですが、何が原因でサイコパスが引き起こされるかについてはまだまだ議論の余地があるようです。本書では様々な仮説について検討を加えています。私は門外漢ですから個々の論点を理解しているわけではありませんが、要するに良く分かってはいないんだ、ということは分かります。

最近脳科学がテレビなどでも頻繁に取り上げられているので皆さんも目にする機会が多いと思います。私は常々ああ言った番組に登場する立派な肩書の“脳科学者”たちがよくあそこまでよく分かっていないことを断言できるものだと感心しておりました。 “脳科学者”たちばかりではなく経済評論家なんかにも同じ匂いがしていますね。

医学や生物学においては厳密な再現を前提とする実験を行うことがきわめて困難なので統計処理を行うことが多いのですが、まあ、これがいい加減。ほとんど感覚的に決めつけているとしか言いようがないレベル。これが経済学なんて言うと、そもそも実験ができませんので、厳密な科学ではありえないはずなのに最新の経済学理論ではどーのこーのとか難しいことを言って煙に巻いているだけじゃないですか。そんなに経済学が役に立つんならなんで日本は20年も景気が良くなんないの?アホか。

本書ではサイコパスの特徴として道徳的違反と慣習的違反の区別ができないということが取り上げられています。「重要なのは、健常に発達している子供は、ある行動を禁止する規則がなかった場合を想像するように言われた時、ふたつのタイプの違反を正しく識別することである。健常な子供や成人であれば、その行動を禁止する規則がなかったとしても、道徳違反は許されないものと考える(たとえそれを禁ずる法律が存在しないとしても、理由なく他人を殴ることは悪いことであると判断する)。一方、慣習的違反の場合、それを禁止する規則がないならば、許されるものとしばしば考える(イギリスで午後11時過ぎにパブで飲酒することは、それが法に反しているとしても、比較的受け入れられやすい)」としています。これは、コンプライアンス違反などでも問題になるポイントなのです。「だって、法律で禁止されているわけではない」って言い訳はあっちこっちで良く聞きますよね。弁護士とか法律関係の仕事をしてる人種(法律を盾にしてイヤミなことを言ってくる奴ら)ってのはみんなサイコパスなんでしょうか。皆さんどう思います?

ま、それはともかく、サイコパスについて知りたいのであれば、やはりある程度は学術的な参考書も押さえておかないと危ないですよね。ということで、現在精神学会ではどのような議論が行われているのか、なんてことを一般読者も垣間見ることができる一冊でした。

 

 

ジェロルド・J・クライスマン、マル・ストラウス 白川貴子訳『境界性人格障害のすべてVOICE

 

境界性人格障害は一般的(「米国では、境界性人格障害を患う人は1千万人以上に達すると推定されている」のだそうです)であるにもかかわらず、理解は進んでおらず、患者本人はもとより社会的にも無駄なコストを支払わされる事態になっています。このような事態を打開するため、本書は境界性人格障害(BPDborderline personality disorder)に対する啓蒙を目的として一般読者も視野に入れて書かれています。

境界性人格障害が理解されにくい原因のひとつは定義が難しく捉えどころがないことが原因だと思われているようです。精神医学の専門家の間でさえひとつの独立した疾患として捉えるべきかで議論が分かれおり、「この障害はまた、ヒステリー、双極性障害(躁うつ病)、総合失調症、心気症、多重性人格障害(解離性障害)、性格異常、アルコール依存症、摂食障害、恐怖症、強迫性その他のパーソナリティ障害などとも共存し、それらの境界に位置するようにも見受けられる」のだそうです。

では、境界性人格障害とは具体的にどのような症状を示すのでしょうか。友人に対して些細なことから絶交宣言をしたかと思えば時間がたつと何事もなかったように連絡をしてくる、今日はあなたを褒めちぎった上司が次の日には些細なミスであなたを怒鳴りつける、といった一貫性のない矛盾した振る舞いが境界性人格障害患者に特有なものなのだそうです。まあ、多少のブレは誰にでもありますよね。でも、それが自分でも収拾がつかなくなるぐらいになっちゃった(普通は、なぜそのような行動をとってしまったか自分でも分からないそうです)のが境界性人格障害って訳でしょうか。

境界性人格障害が厄介なのは、「もっとも大切に思っている人たちに対して抑制の利かない怒りをぶつけてしまう」ことだそうです。そのような怒りをぶつけられた方は訳が分からず、対応しているだけでへとへとになってしまい、家庭などは崩壊の危機にさらされてしまうのです。

境界性人格障害の人たちは自分のアイデンティティーを確信できないのでそのような行動をとってしまうのですが、決して知能が劣っているわけではありませんので、大きな組織のような職場環境では能力を発揮することができます。また、医師や保育士、聖職者、カウンセラーなどの他者を助ける職業に就く人も多くいるそうです。「そうした役割を担うことによって、自分の渇望する献身を職業的に他者に向ける」ことができるためです。また、知性や芸術性にも優れるため、クリエーティブな仕事、ひとりでも食っていける仕事に就く方も多いそうです。そう言えば、独立した立場で仕事をする人たちって大体わがままだもんね。

それでは境界性人格障害の人たちとどのようにコミュニケーションを取ればよいのでしょうか。本書で提唱されているのは「SET」(サポート(支持)、エンパシー(共感)、トルース(真実))という体系です。これは「自分が心から力になりたいと思っていることを伝え」(サポート)、「混乱した気持ちを受け止める姿勢を表す」(共感)ことを通じて、「自分にかかわる最終的な責任はBPDである本人にしかとれないこと」を直視できるようにすることです。

いやあ、大変そう。本書を読んでいて、あるトラブルメーカーだった部下を思い出しました。とにかく気分屋である時はべっとりとまとわりつくような態度を取るくせに些細なことで突然怒り出すし、自分がミスをしても自分のせいではなく周りの人間のせいであると言い募る、って人でした。“SET”を知っていたら少しは違う対応ができたのでしょうか。まあ、対応がうまく行かなくても、どんな風にすればもうちょっと受け入れてもらえるのかなんてことを考える材料にはなりそうですね。でも、理不尽な対応を取られたらどこまで我慢できるか心配だなあ(「ある大学の医学部では、そのために若い精神科の医師が何人か辞めていった」そうです)。境界性人格障害の患者に立ち向かうには、医師でも単なる知識ではなく人間としての成熟が求められるそうです。私じゃ無理だわ、きっと。

あなたの周りにも結構いるはずの境界性人格障害あるいはその傾向を持った人たちを理解するために本書は大いに役立つことでしょう。ぜひご一読を。

 

 

ロバート・M・ブラムソン 鈴木重吉/峰敏之訳『「困った人たち」とのつきあい方』河出文庫

著者のブラムソンさんは「組織体の中の人間行動と小集団における心理についての論文によって哲学博士号を受け、その後十年間は米国内の経営コンサルタント会社の社長を務めた」方です。もちろん学者としても実績のある方ですが、個々の患者に向き合う医師ではなく、経営の観点から「困った人たち」を分類し、それぞれのタイプへの対処法を示してくれているところが本書の特徴と言えるでしょう。

ただし、本書を読んだからと言ってあなたや私が「困った人たち」のエキスパートになれるわけではありません。そうではなく、あなたや私が「困った人たち」と対峙した時に、こっちもかっとなって売り言葉に買い言葉、なんて非生産的な対立に陥る前に、どうすればいいかのヒントを与えてくれるのです。

本書では「困った人たち」を7種類に分類していますが、現実の「困った人たち」がこの分類にぴったりとあてはまるわけではありません。これらの分類基準をごた混ぜにした人や、想像もつかない突拍子のない反応をする人だっているかもしれません。そんな人たちに出会ったとき、私たちはひどく混乱させられ、困惑することになるのですが、「うーん困った」と思った時に本書をパラパラとめくってみれば、ああ、あの人はこうなのか、と思い当たることもあるのではないでしょうか。本書に示されている対処法がそのまま有効であるかどうかは文化的・時代的背景の違いもありますので保証しかねますが、あいつのことを考えただけでムカつく、なんて状態も少しは緩和されるのではないでしょうか。また、そのように考えることで、無意識のうちに私たち自身が取っている人をムカつかせる態度を反省し、見直すことにつながるかもしれません。

職場のストレス軽減のためにもご一読を。

 

 

20132

森 達也オカルト  現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』角川書店

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価格:1,575円(税込、送料別)

   

本書は『死刑でご紹介したことがある森さんの新刊です。

オカルトの歴史は大変古く、それこそ人類が文化文明を持ちだした頃からあるのではないかと言われています。が、未だに何も解明されていません。「それを信じたい人には信じるに足る材料を与えてくれるけれど、疑う人にまで信じるに足る証拠はない。超常現象の解明というのは本質的にそういう限界を持っている」

私は超能力はあるのかもしれないと思っています。ただし、その能力は不要だとして淘汰されてしまったのではないかとも思っています。昆虫などは紫外線を見ることができると言われています。十分に超能力でしょう。昆虫に見られるわけですから、生物としての人間に見える能力があったとしてもおかしくはない。でも、見えない。人間はそのような能力が必要な方向には進化しなかった、ということでしょう。

スプーン曲げ、という超能力が一世を風靡しました。ニセモノという評価が下されているようですが、全部が全部偽物だったのかどうかは分かりません。が、あの能力がもっとすごかったら、例えば金属パイプをひしゃげさせることなく曲げることができたら、役に立ちそうですよね。1970年代のF1マシンの排気パイプはマイク・ザ・パイプなんて名人が文字通り名人芸で曲げていたそうですが、昨今のF1マシンでは排気パイプはサスペンション、エンジンの補機類、空力デバイスなど様々なものを、文字通り針の穴を通すように縫って行かなくてはなりませんので、いろんな曲率のパイプを溶接してつなぎ合わせて使っています。ですからあまり美的ではありません。超能力で曲げられるんならそうすれば、と思いますが、とんと聞いたことはありませんよね。

テレパシーも潜水艦との交信などでかなり研究したようですが、実用化はされていません。テレパシーなどは送信者がイメージを送り、受信者がそれを受け取り解釈する、なんて手順が必要になるんだと思いますが、どうも複雑なメッセージを送るのに適した特性を持っているとは思えません。これこれの条件では作戦1、そうでなければ作戦2、うまくいかなかったらオプションA、うまくいったらオプションBなんてメッセージを送れるとは思えませんよね。作戦を実戦部隊に伝えたいと思ったのに潜水艦1号と2号では解釈が違っていた、なんて軍事行動ではあってはならないことです。だったら他の物理的通信手段の方がいいんじゃないの、ってなるんじゃないですかね。

ま、そんな超能力ですが、本書では森さんが長年のジャーナリスト経験を総動員して、森さん自身が取材した“え、マジ”、“本物かもしれない”という例を集めています。信じる信じないはあなた次第……なんてね。でも、超常現象なんてものは一切無くって、人間の自由意識も含めてあらゆる事象が合理的に説明される世界、なんてのはぞっとしませんよね。なんだかよく分かんないことがある方が人生楽しそうじゃありませんか。

 

 

リチャード・ワイズマン 木村博江訳『超常現象の科学 なぜ人は幽霊が見えるのか』文芸春秋

 

著者のワイズマンさんは英国ハートフォードシャー大学で心理学担当の教授です。と同時に実はプロのマジシャンとしての修行も積んできた、という経歴の持ち主です。超常現象のからくりを暴くにはうってつけの経歴の持ち主と言えるでしょう。

ただし、本書のテーマは超常現象そのものがあるのかないのか、ということではなく、なぜ人はそのような非合理的なものをいともたやすく信じてしまうのか、を心理学的アプローチによって解明していくことにあります。

という訳で、本書ではいわゆるオカルト“懐疑派”の見解が縷々述べられていくことになります。オカルト“容認派”の方は心して読んでください。

ところで、本書でも体外離脱について取り上げられています。実は私も体外離脱を何度も経験していますが、だからと言って私のアルトラル体だかなんだかが私の体から離れてあっちこっちに行っているとも思っていません。でも、あのフワフワ飛んでいる感覚なんかは絶対に気持ちいいと思っています。そんな体験をしたくはありませんか?お金を払ってジェットコースターに乗りに行くよりは安上がりですよ。

本書によると、体外離脱の経験者というのは、「生まれつき自分の体験から想像を膨らませやすく」、そうでない人は「もっと現実的で実際的であり、自分の空想と現実をとりちがえることはめったにない」のだそうです。だったら体験派の方がいいなあ。実際的なのは悪くはありませんが、私はいくつになっても“あ、あの雲はお猿さんに見える”なんて感覚を持ち続けたいと思います。そうじゃないと人生が無味乾燥になっちゃうじゃないですか。

 

 

藤倉 善郎「カルト宗教」取材したらこうだった』宝島新書

 

本書は、ニュースサイト「やや日刊カルト新聞の主筆である藤倉さんが「体当たりで取材を挑み続けた著者が綴る、カルト集団との交流(笑)&暗闘記」です。中には、断食デモを行う統一教会信徒を前に暴飲暴食カウンターデモを行い、逆に「断食より暴飲暴食の方が体に悪いんじゃない」と同情される、なんて活動もあります。面白いじゃありませんか。

本書の「あとがき」で藤倉さんは例え「おもしろいから」という理由だけにせよ、カルトについて語ることの重要性についてうったえています。カルトについて何も知らないと容易に付け込まれてしまいます。

私も同感ですね。日本では宗教について教えることがタブーになりすぎて、宗教的なことは何一つ教育に持ち込むべきではない、というような態度が一般的だと思います。しかし、何も知らないために免疫ゼロになってしまい、逆に付け入るすきを与えているのではないでしょうか。むしろ様々な宗教についてどのようなことを教えているのか、なんてことを比較、知識として身につけておくことはカルトのトンデモぶりを理解するには不可欠だと思うんですがどんなもんでしょうか。

カルト宗教を取材する過程で藤倉さんは様々な抗議や妨害に出会う訳ですが、それらへの対処法を本書の後半で公開しています。ライターとして何かを書いて公開すれば、絶対に訴えられない方法などはありません。ではどうするか。藤倉さんによれば、「訴えられても勝つ」だけの根拠を備えた文章を書け、ということのようです。間違っても憶測だけで書いたり、誹謗中傷としか言いようのない言葉使いはするな、ということです。相手はカルトだ、社会の敵だ、悪魔だ、だから何を書いても言っても良いんだ、では低次元の罵り合いになってしまいますし、訴えられた負けちゃいますよ、ということです。

これは、私などがネット上に文章を公開する場合でも心しなくてはならない注意点でしょう。私も心して文章を書くことにいたしましょう。

 

 

チャールズ・サイフェ 林大訳『異端の数ゼロ』早川書房

 

本書のテーマはゼロと無限。超能力とかカルトに関係した本を紹介している今月の書評では異色ではありますが、ゼロとか無限がきちんと数学理論に組み込まれたのはそんなに昔のことではありません。場合によってはほとんどタブーのような扱いを受けてきたのです。本書はそのゼロと無限にまつわるお話です。

「ゼロは東洋と西洋との争いの核心にあった」

「ゼロは宗教と科学の闘いの中心にあった」

「だが、ゼロは、その歴史を通じて、排斥され追放されながらも、それに立ち向かうものを常に打ち負かしてきた。人類は力ずくでゼロをミスからの哲学に適合させることはできなかった。それどころか、ゼロは宇宙に対する―――そして神に対する―――人類の見方を形作ったのだ」

おー、そうだったのか、って、ずいぶんとオカルトちっくではありませんか。

なぜゼロはタブー視されたのでしょうか。何にゼロを掛けてもゼロ、何にゼロを足しても元と同じ、何かの数字をゼロで割ると……「論理と数学の基礎が崩壊してしまう」のです。このようなゼロ(とその相棒である無限)をいかに取り扱うのか、は長らく良く分からなかったのです。存在はするのだけれど良く分からない。だもんで、あたかもそんなものはなかったかのように振る舞う、知らなかったふりをする、なんてのはオカルトに対する私たちの振る舞いにも似たものがありますね。

本書を読めば、あなたが数学嫌いになった原因である微積分も、実は長ーい年月をかけて頭の良い人たちが寄ってたかって考え抜いてやっと何とか使えるものにしたんだ、なんてことも分かります。微積分を振りかざして惑星の軌道だの金融工学だのほざいている奴らだって、一人で分かったわけじゃないんだって。そう考えれば少しは楽でしょ。

ただし、ゼロと無限に関するなぞは今でも現代物理学の中に、超ひも理論だとかなんだとかの中に残っているようです。一般相対性理論と量子力学を統一する理論が現れれば解決するのではないかと期待されているようです。うーん、私が生きているうちに解決するのかしら。

哲学者や数学者たちがいかにしてこの難題を解決してきたのか、そしてどのように解決しようとしているのか、本書ではその苦闘の歴史が描かれています。以前ご紹介したゼロをテーマにした小説『ゼロの迷宮なども合わせてご覧ください。数学の話ではありますが、最後は何やら哲学めいたお話になっています。数学と哲学の融合、でしょうか。

 

 

20131

半藤 一利日露戦争史1』平凡社

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昭和史、太平洋戦争史の大御所半藤さんが満を持して描く日露戦争史です。

学校では歴史を編年形式で教えるため、近現代史は明治維新あたりで時間切れ、明治維新は成功しました、めでたし、めでたし、なんて感じで終わってしまうのが常でした。だもんで、今でも新撰組とか維新の志士たち、なんてのは熱狂的なファンがいたりしますが、日露戦争、あるいは太平洋戦争、なんて言うと、より現代に近いにもかかわらずあまりよく知られていなかったりします。

また、長らく日露戦争に関する最も影響力の大きい書籍は司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』でした。大変面白かった記憶がありますので、今回私も再読してみました。本書は学術的な歴史書ではありませんので、必ずしも史料に裏付けられているという訳ではなく、いわゆる“司馬史観”で描かれています。その受け取り方も読み手によって様々。で、未だに賛否両論。

ただし、その影響力は甚大で、半藤さんも「昭和の陸海軍は成功体験すなわち日露戦争の勝利の身を金科玉条としていたと、なんど同じ文句をくり返しかいてきたことか」と書いています。司馬さんが初めてこのような歴史解釈を思いついたのかどうか私は知りませんが、広めるのに大きく貢献したのが司馬さんだったことは間違いないでしょう。

「この国の民には敗北を学ぶということが欠けている」と1905年当時日本に滞在していたあるフランス人が書いているそうですが、まことに鋭い観察であるとしか言いようがありません。当時、外国勢力との戦争と言えば、10年ほど前の日清戦争ぐらいしかありませんが、これは一応勝利を収めています。むしろ、私たちが“敗北”の言葉で思い起こすのはそれから40年後の第二次世界大戦での敗北でしょう。そしてその敗北をきちんと反省し、学んでいないのは私が本書評でも主張し続けてきたとおりです。昔っからの日本人の気風なのでしょうか。

ただし、“学ぶ”という観点からであれば、勝利を収めた戦いからも学ぶことはあるはずです。日清戦争であれば、なぜ、どのような点が優れていたから“眠れる獅子”と恐れられていた清国に日本は勝つことができたのか、清国の施策の何が失敗で日本に付け込まれたのか、など戦術から戦略までいくらでも考察すべきポイントはあったはずです。一般大衆はともかく、軍人までもが、“勝った、勝った”で終わり。考えに考え抜いた後で“天命を待つ”んじゃなきゃね。何も考えないで神風が吹くのを待っているようじゃダメでしょ。

ということで始まった日露戦争。第1巻は開戦後三月ほどで終わっています。まあ、勝ったとは分かっているのですが、結構薄氷を渡るような勝利であったようです。どのような苦労があったのでしょうか。今後の展開が楽しみです。

 

 

司馬遼太郎坂の上の雲』文春文庫

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日本における日露戦争に関する書籍の内で最も読まれている本と言えば、『坂の上の雲』でしょう。司馬さんは戦争賛美的に描かれることを恐れ、映像化を許可してこなかったそうですが、最近NHKでドラマ化されましたのでご覧になった方も多いと思われます。

半藤さんの『日露戦争史1』の項でも書いたとおり、本書に対してはいくつかの事実関係の誤りも指摘されていますし、特に“無能”などと評された人物評価に対しては現在でも反論が提出されています。

竜馬がゆく』などもそうですが、司馬さんの評価がその後の人物評価を決定づけてしまったのはなぜでしょうか。まずに考えられるのは、その圧倒的な筆力でしょう。司馬さんは新聞記者経験がありますので、文章を早く、しかも要点をきちんと押さえた分かりやすい文章を書く訓練ができていたのではないでしょうか。『坂の上の雲』は文庫本で8冊もありますが、面白い、と思って読むと意外とすんなりと読了することができます。

いまでは常識となってしまった司馬史観を検証するためにもご一読を。

 

 

関川 夏央「一九○五年」の彼らNHK出版新書

 

「日本の国民国家としての頂点は、1905年の527日である」という書き出しで本書は始まります。この日の午後、対馬海峡東方において日本海軍連合艦隊とロシア海軍バルチック艦隊の海戦が行われていたのです。この海戦の勝利を持って日本の国民国家は完成するのですが、勝利に酔ってそっくりかえってしまった日本人は足元が見えなくなり、第二次世界大戦の敗北というとんでもない対価の支払いを余儀なくされるきっかけともなったのです。

本書は1905年という年に焦点を当て、当時活躍していた森鴎外、津田梅子、幸田露伴、夏目漱石、島崎藤村、国木田独歩、高村光太郎、与謝野晶子、永井荷風、野上弥生子、平田らいてう(明子)、石川啄木の12人を取り上げています。「1905年の彼らの姿と、その際晩年を点描することで現代日本の成立と成熟、そして衰退までをも暗示できるのではないか」というアイデアのもとに本書は書かれました。

現代の日本において伝統だとか日本文化だとか言われていることって実はこのころ確立したものが多いんですよね。何しろ国民国家の成立ですから全国民が依って立つものがあれやこれや必要とされたんですね。それまでは各地方、江戸時代の藩が一つの国みたいなもんですから、極端に言えば、南と北じゃ言葉だって通じなかったんじゃないですか。だもんで教育システムや軍隊などを通じて標準化することが必要とされたわけです。

本書の「はじめに」で1905年当時を生きる人は明治15年(1882年)生まれを境として、「漢籍的教養の上に西洋的教養を積んだものたちが「明治15年以前生まれ」なら、白紙の上に西洋的教養を積んだのが「明治15年以降生まれの青年たち」であろう」としています。明治15年以前に生まれた日本人が江戸時代のサムライの匂いを残していたのに対し、それ以降に生まれた日本人は詰襟を着た軍人になってしまったのです。即席の「日本の伝統」を純粋培養で叩き込まれた世代、なのでしょうか。

当時の日本人が何を見、何を考えていたのかを忍ばせる一冊でした。ぜひご一読を。

 

 

塩野 七生十字軍物語3』新潮社

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第八次まである十字軍のうち、『十字軍物語1では第一次、『十字軍物語2』では第二次十字軍を取り上げました。で、この三巻目で第三次から第八次までを取り上げています。あれ、端折り過ぎではないの、とお思いでしょうが、さすが塩野さん、何とかまとめちゃってます。

本書の中心は何と言っても第三次十字軍。サラディンによるイェルサレム奪還をきっかけに組織されたこの十字軍こそ、獅子心王リチャード(Lion Heartですね)とイスラムのエース、サラディンの激突という、私たちが十字軍と言って思い浮かべるキリスト教徒とイスラム教徒の真っ向勝負です。間違っても十字軍のくせしてキリスト教異端派や同じキリスト教国であるビザンチン帝国を攻撃したとか、進軍の途中で占領した地域に居座ってしまったとかのお話ではなく、塩野さん好みの知性と胆力を兼ね備えた男の中の男同士ががっぷり四つ相撲で競い合うお話です。

リチャード獅子心王は大変高名かつ大人気ではありますが、結局第三次十字軍一定の成果は上げたもののイェルサレムの奪還はならず、講和という形で終結しました。

今から800年ほど前のお話ですが、ここに登場する指揮官としてのリチャード獅子心王はちゃんとロジスティクス(兵站)の重要性も理解しています。どのように食料や武器を運び、傷病兵を後送するか、なんてことにもちゃんと配慮を払っています。もっとも、イスラムの大海に浮かぶキリスト教徒の領土をどのように維持していくか、なんて課題は現代でもイスラエルの問題として残されていますがね。

イスラム教徒は目障りなキリスト教徒の領地に圧力をかけ続け、1291年のアッコン・ティロス・シドンの陥落を最後に地中海東岸のキリスト教徒の領土は一掃されてしまいました。とはいえ、十字軍時代以降でもキリスト教徒とイスラム教徒の交易などの経済交流や巡礼(パッケージ旅行!)が全くなくなってしまったのではないそうです。なんだかほっとしますね。ここから先は塩野さんの「海の都の物語」をどうぞ。

でも、最後のところで塩野さんは十字軍を最後に宗教戦争と言えるものは終わったとしています。それ以後は領土や利権を巡っての争いになったと。宗教戦争も嫌ですが、ゼニ金を巡っての戦争ってのもあまりぞっとしませんねえ。

これで塩野さんはヨーロッパの歴史をローマに始まる古代、中世は十字軍の時代、中世からルネサンスにかけてのヴェネツィアと描いてきました。残されたのは近現代。どんなテーマを選ばれるのでしょうか。塩野さんは結構な御高齢ですし。塩野ファンとしては気になるところです。

 

 

ウンベルト・エーコ 堤康徳訳『バウドリーノ』岩波書店

 
 

 いやあ、またウンベルト・エーコの作品を買ってしまいました。『薔薇の名前でこりごりしましたからね。大体『薔薇の名前』なんて、買ったもののちゃんと通読した人は少ないんじゃないですかね。私は一応全部読みましたよ、って読書は我慢大会ではありませんよね。

本書、本文1ページ目の1行目にいきなり文字の上に×が描かれていて面喰います。これ、主人公のバウドリーノが最初に書いた日記、という想定になっているからなのです。バウドリーノは12世紀北イタリアの貧しい農民の子として生まれますが、読み書きを習い、さらに数カ国語に通じているなど当時としては知識人であった人物として描かれています。そのバウドリーノが語る伝説の司祭ヨハネの王国への冒険が本書の骨子となっています。その物語に登場するのは「角を生やした人間や、腹に口のある人間」、ばかりではありませんが、いつでもバウドリーノは都合のよい時に都合のよい場所にいて大活躍する英雄として物語られます。嘘か真か法螺か詐欺か。ま、真以外の三つのうちのどれかだな。これらが塩野七生さん描くところの『十字軍の物語の時代を背景にこれでもかと細かい蘊蓄を背景に描かれます。

ところで、本書にちりばめられている、現代社会に生きる我々にとってはとても信じることができないようなエピソードのあれこれは、実は当時の文字記録に残されているものだということには驚かされます。それらを歴史家でもあるエーコさんが本書の執筆に際して活用したのだそうです。中世は本当に龍(ドラゴン)が生きていた時代だったのです。

本書が書かれたのは『薔薇の名前20年後、エーコさんの長編小説としては4作目だそうです。ということで、『薔薇の名前よりは遥かに読みやすく書かれています。現代作家による中世物語の復活版。上下二冊の分厚い本書ですが、楽しく読了いたしました。

 

 

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