2006年12月
白洲次郎『プリンシプルのない日本』新潮文庫
サンフランシスコ講和会議の最後に吉田首相は日本語で演説した。実はこの演説の原稿は、2日前まで英文でした。白洲次郎は「日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」と言い、吉田首相に独立国の面子として日本語で演説するように諫言したのです。
GHQの米国将官より英語がうまかったなど数々のエピソードに事欠かない白洲次郎ですが、意外にも著作というものを残しませんでした。戦後さまざまな企業で重要な地位を占めていましたが、いずれも長居することなく自分に課せられた使命が完了するとさっと身を引いてしまったような人柄ですから、ことさらに著作などで名を残したいと思わなかったのかも知れません。本書はそんな白洲次郎が珍しく1951年ごろから「文芸春秋」誌上に発表した文章をまとめたものです。
今から50年以上前に発表された文章ではありますが、今でも通用する箴言に満ちています。というか、このころ確立した対米従属姿勢が今なお変わっていないと言うべきなのでしょうか。
「私は占領中に、最下等のパンパンすら風上に置くまいと思われる様な相当の数の紳士(?)を知っている。軍国主義全盛時代は軍人の長靴をハンカチで拭き、占領中は米国人に媚びた奴等とパンパンとどう違うか。私はパンパンを非難攻撃するのなら彼等男性も排撃せよといい度い。」
終戦直後、「一番平気で米軍側に立ち向かったのは、昔の内務省出身の役人に多かったこと。一番ビクビクして米軍側に追従したのは外務省出身の役人に多かったこと。」
彼は子役人根性や他力本願の乞食根性というやつが大嫌いだったようです。弱い相手には威張り散らして強い相手にはぺこぺこする。今も変わらない日本人であるような気がするのはどうしてでしょうか。
外務省を石もて追われた(正確には休職中だそうですが)佐藤さんが、国策捜査を暴きだした『国家の罠』(新潮社)に次いで書かれた本です。佐藤さんが書いた本を出版してくれたのが新潮社と扶桑社ってのがすごいですね。
佐藤さんのスタンスが終始ぶれないことに感心しました。佐藤さんは役人であり、役人であるからにはそのときの政府の方針に従うのが当たり前であるとしています。役人でありながら政府に従わないなんてのはもってのほかであるとしています。佐藤さんは休職中とはいえ役人な訳ですから、政府の悪口を言うわけには行かないと。私のような下衆は佐藤さんが正式に外務省を首になったらなんていうかが楽しみだなんて思っちゃいますが。
そういう視点から見ていくと、今の外務省なんてのは「外務省の論理」に従って出世することを最優先にしているお公家さんばっかりなんだそうです。この前ご紹介した白洲次郎の感想と同じではありませんか。国民や国家の公僕、何て意識はゼロ。そういや外務省のキャリアって給料高いんですってね。海外にいると本給と同じくらい手当が付いて「恥ずかしくない」生活が送れるようになっているんですって。意識しているのは外人の目だけ。比較の対象は各国の(民間を含めた)エリート。エリートと交際するには、ちゃんとして家に住んでワインなどもストックし、絵画などもさりげなく飾っとかなくてはならないわけです。日本人だったら裃で正装して日本酒でも飲んでろ!
とても読みやすく興味深い本であることは確かですが、外務省のことが書いてある本を読むと無性に腹が立つのは私だけでしょうか。小泉前首相の任期終わりごろの外遊で何億か使ったなんて話題になってました。外務省の役人は大喜びで付いて行ったんじゃないですかねえ。政治的問題は何にもないとこばっかりだったし。やっぱりプリンシプルがないんでしょうか。
山野車輪『マンガ嫌韓流(2)』晋遊舎
ウリナラ主義(何でも韓国が一番って感じですか。ウリナラの意味は「我が国」)に凝り固まった韓国に対して、日韓の間のさまざまな問題(反日、歴史認識問題や竹島問題、外国人参政権、韓国起源説など)は、ありゃ全部韓国の妄言じゃないか、という観点から描かれたマンガです。
ま、いろいろ実例が載っているわけですが、「韓国・子どもたちの“反日絵画展”」なぞを見てしまうと、さすがにいくらなんでもコリャひどいんじゃないかね、と思ってしまいます。まあ、日本もついこないだまで鬼畜米英って言ってたわけですけどね。でも今じゃ言わないでしょ。この事件、ネットでは結構有名だったようですが、新聞TVといったメジャーな媒体では紹介されなかったみたいですね。まーねー、ミサイル発射の瞬間大手マスコミの方々はほいほいと平壌までお出かけしてましたからねー。
その一方で、事実誤認や一方的断定もWikipediaでは指摘されています。
例えば、広島の世羅高校が韓国謝罪修学旅行を行い、生徒全員で土下座をした、などとも書かれていますが、そのような事実はないそうです。ただし、韓国でこの本に描かれているような報道がなされたのは事実のようです。ま、このマンガではこんなことをさせたとされる日教組が批判されているわけですが、もし本当にそんなことがなかったのだとすれば、こんな報道をする韓国マスメディアはちょっとね。(以上の記述は『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照いたしました。)
ただ、このマンガ、最後に「ATTENTION(ご注意):この物語は歴史的事実や実在の事件、事象などを題材にしておりますが、登場する人物、団体は一部を除き架空のものとなっています。実在の人物、団体とは一切関係がありませんので、ご注意ください。」という但し書きが入っています。マンガだから細かい間違いには目を瞑ってね、ということでしょうか。こういうマンガを読んで全部本当だ、と信じるのではなく、こういう意見の人も居るのだなあ、こんな考え方もあるのね、と思って読めば良いのでしょう。
それにしても、どうしてライトウィングの方もレフトウィングの方も政治的意見というものは極端に偏ってしまうのでしょうか。日教組が悪いとなれば諸悪の根源は日教組にあり、となっちゃうし、日本の反動保守勢力が悪いとなれば保守反動勢力を駆逐しない限り日本に明日はないってことになっちゃうし。
ガキじゃないんだから。大人は中庸の徳を持たなきゃいけませんよ。
嫌韓流ばかりでは何ですので、韓国で日本がどのように思われているかを探ってみました。
本書で描かれている日本の姿は、全くうそではないものの、針小棒大を地で行くような描き方がなされています。日本の風呂はどこでも混浴みたいに描かれていますが、全部がそうじゃないことぐらい分かるでしょう。
で、韓国がどんな国かというと、
「全国民の90%が国旗を持っている愛国者の国
IQが世界で最も高い国
中高生の学力が世界一高く
世界の有名大学へトップで入学する学生を生む頭脳明晰な国
文盲率が1%未満の世界唯一の国家
全国民が5歳以前に自国語を学ぶ世界唯一の国家
文字がない国々に国連が提供する文字はハングル
(アフリカのいくつかの国々ではハングルが用いられている)
大学進学率が世界最高の国
公共交通機関に老人や弱者優先席がある国
女性が世界で最もきれいな国
世界にその類例が珍しい単一民族国家
働く時間は世界最高、遊ぶ時間は世界最低の世界で最も勤勉な国
世界で最も根性があるといわれている三大民族ドイツ人、ユダヤ人、日本人を合わせた以上に根性がある民族の国
アメリカも無視できない日本に意見を言える世界唯一の国」
なんだそうです。根性がある世界三大民族って何のことでしょうか。自慢もここまで来れば立派、ってことでしょうか。日本をおちょくるときも針小棒大なら、自分の自慢をするときまで針小棒大な感じがしますがいかがでしょうか。
日韓両国でお互いに罵り合っているだけの非生産的な争いにはそろそろ終止符を打たないといけないと思います。これじゃガキのけんかだって。
2006年11月
藤尾
秀昭『小さな人生論―「致知」の言葉
』致知出版社
『致知』という月刊誌の25年にわたる総リードの中から、“特に良かった”とのご意見を多くいただいたものを集めたベスト本です。
『致知』とは人の生き方を探求する“人間学の月刊誌”だそうです。各界のリーダーから多くの賛同をいただいているということで、ホームページを拝見すると
多彩な顔ぶれの方々が掲載されています。私も知り合いの社長さんにいただいて読みました。会社の経営なんぞに関わると、どうしてもこちら方面の知見が欲しくなるのでしょう。
最近は物事を真面目に考えることをダサいと思うような風潮が蔓延しています。でも、このままでは大変なことになりますよ、ということで、いくつか目についたフレーズを転載しておきましょう。
「「最近は年輪を刻むように年を取る人が少なくなった」と言ったのは小林秀雄だが、年輪を刻むどころか、肉体的年齢はおとなだが精神的年齢は子どものままといった人がめっきり増えた。憂うべきことである。」ほんと。
「あるとき、経営の神様松下幸之助氏は若者から「国の政治と会社の経営は同じものか」と問われ、「同じだ」と答え、「業種を問わず、会社経営に成功するには三つの条件がある」と続けた。
一つは絶対条件で、経営理念を確立すること。これができれば経営は五十パーセントは成功したようなものである。
二つは必要条件で、一人ひとりの能力を最大限に生かす環境をつくること。これができれば経営は八十パーセント成功である。
三つは付帯条件で、戦略戦術を駆使すること。これを満たせば経営は百パーセント成功する。
この条件に照らせばいまの日本という国に最も必要なのは、国家の哲学、理念の確立だろう。「聖域なき構造改革」という二十パーセントの比重しか占めない戦略戦術が、目標のすべてになっているところに、この国の危うさがある。」
理念のない人の議論はどうしても枝葉末節のテクニカルな部分にこだわりがちで、「え、こんなことも知らないの、議論にならないね」なんてなっちゃうんです。蛸壺で議論するのは止めて人生を語ろうではありませんか。
根本的理念がないまま漂うように生きているとどうなっちゃうか、ということで以下の本をご紹介しましょう。
1946年から2005年までに雑誌「世界」に掲載された論文のうち、憲法に焦点を当てたものの中から、憲法というものを多角的に見直すことを促すという観点から選ばれた論稿が収録されています。従って、いわゆる憲法学者が書いたような論稿はあまり収録されていません。
トルストイの「戦争と平和」も、島崎藤村の「夜明け前」も、もととなる出来事のあと60年ほど経ってから書かれたのだそうです。日本国憲法も誕生からほぼ
60年をすぎました。人で言えばちょうど還暦をすぎたわけです。痛みを伴う思い出も、忘却のかなたに沈むことなく思い出すことのできる時間が経った、ということなのでしょうか。
全て新仮名遣いに改められていますので、書かれた年代をチェックしないと最近発表された、といわれても気づかない論稿が多数ありました。つまり、今も昔も似たような論点をめぐって議論がなされているということでしょう。進歩がない。いや、むしろ新憲法制定から時間を置かずに書かれた論考のほうが、明るい未来に対する希望にあふれた明るい論調が多く、現在に近づくほど将来への不安が感じられる、というのは岩波書店という出版社の性格が現れている
のでしょうか。
最近の政治家たち(特に二世・三世議員たち)の言動を見聞きしていると、退歩してしまったのではないか、彼ら彼女らのご先祖様が復活してしゃべっているのではないかと思われるような復古調の言動が目に付きます。まあ、三世政治家などが昔を懐かしがる気持ちは分かります。なんたって彼らのおじいさん世代の政治家といえば、戦前の日本でも最も偉いセレブの一員だったわけでしょう。そりゃ良い時代だったって、お偉いさんの一族にとってはね。
君が代、日の丸、愛国心。そして憲法、天皇。
戦後日本に押し付けられたものには、憲法のほか学校給食があるそうです。学校給食はGHQのサムス准将という人の発案になるそうです。敗戦直後の 日本で明日を担う人材である子供たちに栄養をつけさせようというものです。で、彼は日本国政府と協議に入ったのですが、大賛成してくれると思った日本の文部省も厚生省も大反対したそうです。大人が飢えているのに何で子供に給食する必要があるのか。大人は勤労に励んでいるが、子供は何の生産活動も行っていないではないかと(日本人の生命を守った男―GHQサムス准将の闘い 二至村 菁)。
こんな政府が発案する憲法より押し付け憲法の方がずっとましだと思うんですがね。
それにしても日本の為政者というものは、自分には一方的に愛情を求める割にはさっぱり周囲に愛情を注がない勘違い男みたいな感じがするんですがいかがでしょうか。
日本国憲法で一番大事なのは天皇でも戦争放棄でもなく、前文にも書かれている主権在民ってことじゃないでしょうか。国はもっと国民を大切にしなきゃいかんぜよ。
佐藤晃『帝国海軍が日本を破滅させた』上 下 光文社ペーパーバック
日本が日清・日露戦争の勝利を通じ次第に驕慢の度を強めていった、というのはすでに多くの歴史家によって指摘されているところです。で、この日清・日露戦
争を通じて最も驕慢の度を強めたのが帝国海軍であり、帝国海軍こそが大東亜戦争における日本敗北の最大の要因であったと分析しています。人気の高い山本五十六や井上成美なんかもコテンパンです。
著者の佐藤さんは1927年生まれの陸士出身ですから、敗戦時に18歳。ほとんど何もできないうちに日本帝国の敗北を目の当たりにしなくてはならなかったのでしょう。海軍への恨み骨髄、ということが文章の端々から伺えます。帝国陸軍に対しては賞賛だらけです。ま、海軍のアホどもに騙されて誤った戦略を立てた作戦課の少壮士官たちが批判されているくらいです(服部卓四郎、瀬島龍三、辻正信とか。こんだけいりゃ普通は陸軍も同罪ではないの)。
個々の戦闘・作戦における失敗は別として、佐藤さんは帝国海軍の欠陥として以下のようなポイントを挙げています。
まず、異常なほど海軍の統帥権の独立を求めたこと。確かに明治憲法において天皇という究極の統帥権者がいたことは確かですが、天皇が陸海軍を実際に統帥する、などということは戦前であっても現実的ではありません。どこの国でも戦時には最高意思決定機関が置かれるのが普通です。ところが帝国海軍と帝国陸軍は対抗心むき出しで角付き合わせていたわけです。陸軍の作戦は陸軍のもの、海軍の作戦は海軍のもの、お互いに口を出すな、というわけです。そういや陸軍は航空母艦を、海軍は戦車を開発していたそうです。融通しあえばいいのにね。それじゃ国家総力戦の時代に通用しませんって。
次に、「唯一艦隊決戦主義」に固執したこと。大鑑巨砲主義などとも言われていますね。つまり海軍の目的は戦艦対戦艦の堂々たる一騎打ちこそが真髄であり、補給路を守るとか、敵の補給路を分断する、などという男らしくないチマチマしたことはやらん、というわけです。じゃ、戦闘だけでも立派にやるのか、というと、戦艦がもったいなくて徹底的な追撃などやりません。真珠湾攻撃でも第2次攻撃をしませんでしたし、栗田艦隊も謎の反転なんていって敵を追い詰めませんでした。これも、卑怯云々というより、立派なおもちゃに傷が付いちゃうのがいやだったんじゃないでしょうか。疾風のようにやってきて疾風のように去っていく、なんて日本人の気性にはぴったりでしょ。
あと、本書でも指摘はされていますが、私としては大きく取り上げたいのが過去に学ばない、自省しないという姿勢です。絶対に反省しない。失敗しても責任を他に転嫁しちゃう。だから失敗の体験が経験として蓄積されず、同じ失敗を繰り返すことになるんです。本書でも、戦後進駐軍の将校に帝国海軍はどうして馬鹿の一つ覚えのような作戦ばかりするのかと不思議がられたというエピソードが載っています。これなどまさに日清・日露戦争の成功体験がその後の創意工夫の余地を奪ってしまった結果といえるでしょう。前例にこだわるなんて、軍人である前に役人根性丸出しではありませんか。
アメリカは戦争を契機にオペレーションズ・リサーチ、コンピュータ、ゲームの理論、原子力爆弾などなどを開発しました。ドイツも誘導ミサイルや戦後の宇宙開発の基礎となるV2ミサイルなどを開発しています。今盛んに取り上げられているノドンだのテポドンだのは、V2
ミサイルの直接的な子孫だそうではありませんか。それに比べると日本が作ったのはワンショット・ライターといわれた飛行機(すぐに火がつくって意味です。
運動性能のために乗組員の防御を無視した)や、コンピュータ代わりに人間を詰め込んだ特攻飛行機や魚雷ですか。どうも日本の役人・政治家は国民をいくらでも替えが利く消耗品程度にしか考えていないみたいですね。
陸軍の作戦の中でも極めて評判の悪いノモンハン作戦を取り上げた本です。
辻正信は明治35年石川県の山奥、現在の山中町に生まれたそうです。地元ではある程度余裕のある家庭ではあったようですが、今の感覚でいう裕福とは異なり、小さいころから家業の炭焼きを手伝うような生活を送っていました。子供のころから成績は抜群、体もすこぶる頑健であったといいます。陸軍幼年学校主席、士官学校主席、陸軍大学は3番で卒業する俊英でした。本書に書かれた行状をみると、学究肌というよりは体力で勉強するタイプであったようですね。理念もヘッタクレモなくて試験の点数さえよけりゃ良いっていう、私が最も嫌いなタイプ。あーいやだ。
ただ、辻正信は兵隊の人気は抜群だったといいます。多分に脚色されているようではありますが、行軍の際疲れた兵隊の銃を担いでやったとか、士官は担がなくてもよい重装備と同じ重さの背嚢を背負っていたとか、兵隊が水筒の水を飲み干して苦しんでいるときは自分も水筒の水を捨て同じ苦しみを味わったなどの逸話が残されています。いいとこもあったんですね。
現在では無謀の極みといわれているノモンハン作戦ですが、その失敗の原因は過剰な自尊心により自分の能力は過大に評価し、相手能力は過小に評価する辻正信の精神構造とも無縁ではないようです。辻正信はものすごい量の読書をしたそうですが、全部軍事教本。文芸作品なんて読まなかったのでしょうね。それに軍隊に所属して以来、民間人との付き合いもほとんどなかったといいます。やはり人間、極端はよくありません。何事も中庸が肝心。
そういえば、彼は新しい部署に配属されると、経理部で支払伝票を片っ端からチェック、上司たちのけしからん素行を調べ上げ、文句を言わせないようにしていたそうです。ま、女を経費で囲ったりするのはイカンでしょうが、程度問題でしょう。何でもかんでもイカンといってつるし上げるプチ正義。紅衛兵の造反有利みたい。あー、いやなやつ。それでいて自分では「天皇の命令といえども、国家に益なき場合は従う必要がない」などと思っていたんでしょう。常に正しいのは自分。本当に自尊心が服を着ているようなやつだったんでしょうね。そういえば、最近似たようなことを言った総理大臣もいましたけど。「あの人が、あの方が行かれたからとか、良いとか悪いとかいう問題でもないと思う」とかね。ま、一番偉いのは俺様っていう俺様主義には理屈は通りませんからね。軍人勅諭の第2条には「下級の者は上官の命を承ること、実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」って書いてあるんですけどね。
ところで、「帝国海軍が日本を破滅させた」で佐藤さんが挙げている帝国海軍の兵站無視とか諜報無視、絶対に反省しないといった欠点は、まるっきりこのころの陸軍にも当てはまるような気がするんですがいかがでしょうか。
湾岸戦争で一躍有名になった軍事評論家の小川さんが、日本の軍事能力を数字を挙げ極めてクールに分析しています。どっかの国があさっての方にミサイルを飛ばしただけでミサイル基地を叩け!なんて議論がまかり通ってしまう今日この頃ですので、冷静な議論を進めるため、政治家の皆さんにも是非お読みいただきたいものだと思います。
軍事費だけを比べるとすでに軍事大国の仲間入りをしている日本ですが、自衛隊の軍事能力で世界最高水準なのは、対潜水艦戦能力と掃海能力、防空戦闘能力など、ごく限られた分野に過ぎないそうです。では、何でこれらの分野の能力が優れているか、というと、第一にそれが米国の要求であるから、だそうです。日本と同じく第二次世界大戦に敗北したドイツも、軍事力では陸軍の能力は充実しているものの海軍の能力はごく限られているそうです。つまり、米国の軍事力の補完として都合のよい分野だけは整備してもよい、ということですね。あと日本の場合、装備が高価な分野ばかりだそうです。もちろん購入先は米国企業。ね、分かるでしょう。
孫子の兵法で、戦いの極意とは「戦わずして勝つ」ことにあるといいます。ところが、日本はその能力も資格もあるのに国際社会においてその存在感を示すことができていません。その原因として小川さんは縦割り行政の弊害をあげています。先の戦争でも陸軍と海軍がお互い功名心に駆られた自己保身に走っていたことが悲劇の原因としてあげられていました。しかし、軍隊こそ解体されましたが、統治機構としての戦時体制そのものは戦後もそのまま続いたと考えられます。だもんで戦後も日本は役人天国。統一性もなくやりたい放題。
もちろん、役人がイニシアチブを取って改革路線を歩む、なんてことはそもそもありえません。役人とは敷かれたレールの上の電車を安全に運行させるのが仕事であって、どこに向けてレールを敷くか、なんてのは政治の仕事のはずでしょう。逆に、役人が想像力豊かにどんどん新しいことを始めちゃったら収拾がつかなくなっちゃうでしょ。グランド・デザインを決めたり、運営をチェックする役割が本来政治には期待されていたはずです。ところが、その肝心の政治が55年体制、なんて言ってまるっきり頼りにならなかった。だもんで、いわゆる日本のグランド・デザインというものがないままになってしまっているんですね。もちろん米国にとってはそのほうが都合がよかったのでしょうが。
日本は米国の植民地ではありませんし、米国の奴隷になりたいと思っているわけでもありません。しっかりと地に足のついた議論を進めていくためにも、政治の現実としての軍事問題に目を瞑っているわけには行きません。本書は「小泉首相、そして、あとに続く政治家のみなさんへ」書かれたそうです。政治家のみならず、平和を希求する国民の方々にも、何かって言うと居丈高になる前にお読みいただきたいものだと思います。
2006年10月
写真というものは必ず被写体があって成り立つものですから、非常に客観的で証拠能力が高いと思われています。しかし、その社会的影響力ゆえ、写真は時代の権力などによってさまざまに利用されてきました。フォトジャーナリストの新藤さんが写真の嘘と真実を著名な報道写真を例に解き明かしていきます。
本書のエピソードのひとつにあの横田めぐみさんの写真(大人になってからのもの)が取り上げられています。写真そのものに手が加えられていることは新藤さんも認めていますが、全くの合成写真や捏造写真ではないとしています。
それより問題なのは、「救う会」が合成写真に違いないと発表した直後、合成だ偽造だとあれほど煽った日本のマスコミが、外務省が合成を否定する見解を出すと、塩をかけられたナメクジみたいに何も言わなくなってしまったことです。新聞社には写真を科学的に鑑定させることも可能でしょうし、追跡報道をすることも可能だったはずです。それが続報なし。いやあ、ポチのポチと揶揄される日本マスコミの面目躍如といったところでしょうか。
本書には「写真の嘘と真実、そして戦争」という副題がつけられています。そして、横田めぐみさんの事件も含め、戦争に深く関わっているか戦争そのものが題材として選ばれています。戦争で大もうけする人たちもたくさんいらっしゃることでしょう。でも、そういう人たちは決して戦争で痛い思いはしません。そんな人たちに騙されちゃいけません。痛い思いをするのはあなたなんですよ。
ある犯罪被害者は、一面識もない男にガソリンを浴びせられて火をつけられ、全身に大火傷を負ってしまいました。このような犯罪に巻き込まれるだけでもとんでもないことですが、被害者はその後も長く被害を受け続けることになります。この事件の場合、加害者は傷害罪に問われ、数年後には出所してしまったそうです。ところが被害者はその後も火傷治療のため何回も皮膚移植の手術を受け続けなければなりません。そして、何度皮膚移植をしたところで、もとの生活は取り戻せないのです。それだけでなく、被害者は治療費も支払い続けなければなりません。加害者が犯罪で怪我をすれば、国費による治療が受けられるにも関わらず、です。現在の法体系では加害者に治療費などを負担させるためには刑事裁判とは別に民事裁判を起こさなくてはなりません。加害者に経済能力がなければ、泣き寝入りをするしかありません。
何しろ日本の刑事裁判というのは被害者のために存在するのではないのだそうです。「犯罪の捜査及び検察官による公訴権の行使は、国家及び社会の秩序維持という公益を図るために行われるものであって、犯罪の被害者の被侵害利益ないし損害の、回復を目的とするものではなく、(中略)被害者又は告訴人が捜査又は公訴提起によって受ける利益は、公益上の見地に立って行われる捜査又は公訴の提起によって反射的にもたらされる事実上の利益にすぎず、法律上保護された利益ではないというべきである。」(1990年1月20日最高裁判所判決)
犯罪というのは国が決めた法律を守らなかったからいけないのであって、被害者の受けた損害なんて国には関係ないもんね、ってことです。どうも日本のお上ってやつは国民を大事にしませんね。
このような現行制度に対して犯罪被害者たちが立ち上がり、2000年の全国犯罪被害者の会結成、ついに2004年、犯罪被害者等基本法を成立させました。
ただし、犯罪被害者等基本法の成立をもって犯罪被害者の救済が図られるわけではなく、現在進行形で犯罪被害者の権利利益を救済するためのさまざまな施策がこれから実施されなくてはなりません。基本法はあくまでも最初に一歩にすぎません。でも、大変重要な一歩が踏み出されたのです。
最近ろくでもないことばかりしているように感じる我が国の政治状況ですが、少しは希望が持てる動きもあるんですね。
1990年代に起きた最悪の民族紛争といわれるボスニア戦争を経験したボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボとセルビアの首都ベオグラード。現在、サラエボが国際社会から広く援助を受け紛争の影響を感じさせない華やかさを取り戻しているのに対して、ベオグラードは国際社会に見捨てられ紛争の打撃から今なお立ち直れずにいるそうです。あの紛争でセルビアのミロシェビッチ大統領は民族浄化作戦の実行者として人類の敵というレッテルを張られました。本当にボスニア・ヘルツェゴビナだけが善でセルビアだけが悪だったのでしょうか。それとも情報操作の力に預かっているところが大きいのでしょうか。
国連防護軍サラエボ司令官として赴任していたカナダのルイス・マッケンジー将軍は「セルビア人だけでなく紛争当事者双方が悪い」「制収容所など見たこともない」と正直にありのままのセルビア情勢を語ったところ、マスコミからバッシングを受け結局定年前に退役を余儀なくされてしまいました。なぜなら、その当時すでにセルビアは現代のナチスであるというステレオタイプが出来上がってしまっており、それに反する見解は自動的に人類の敵を擁護するものだとみなされるようになってしまっていたのです。強制収容所はすでに人々の心の中でしっかりとイメージされてしまっていたのです。例え現実に存在しなくても。
最近のイスラエルのレバノン侵攻でも情報操作の可能性がささやかれています。情報操作どころかイスラエルはヒズボラのロケット攻撃を意図的に放置しているとも言われています。http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2006/08/post_9798.html イスラエルのレバノン侵攻のを正当化するためには自国の市民が殺されるている必要があるからだそうです。真珠湾攻撃を察知しながら国内世論を誘導するため何ら手立てを取らなかったと言われている米国の例もあります。戦争に勝つためには平気でナイーブな国民を騙くらかすくらいタフじゃなければいけないのでしょう。騙すほうが悪いのか、騙されるほうが馬鹿なのか。
日本人は真実は黙っていてもやがて知られるものだ、と信じていますが、PR(public
relations、パブリック・リレーションズ)の専門家からすればそんなことを信じている人間はナイーブそのものでしょう。そもそも日本でPRというと広告の英語訳程度にしか理解されていませんが、PRとは広告のみならずマスメディア、政財界の要人などあらゆるチャンネルを通じた働きかけにより顧客の利益を図る活動を指しています。ロビイングなどもその一部となるのでしょう。
テレビ報道などを見て分かるとおり、米国では報道官といったスポークスマンに極めて高い地位が与えられています。また有能な政治家は極めてPR活動に長けています。よくよく考えてみれば、民主主義社会における政治活動とはPR活動そのものではありませんか。
私は日本人ですから、嘘や誇張もゴタマゼにして効果さえあればよしとするようなやり方には違和感を覚えます。しかし、現在唯一の超大国である米国ではPR活動がごく普通の事として行われていることには気をつけなければなりません。日本政府も国際政治におけるプレゼンスの少なさに気づいているようですが、その対策はまだまだお粗末なようです。
今の日本には物を言えば唇が寒くなる気配があります。PR活動は大事かもしれませんが、自由な言論は民主主義の基本のはずです。確かヘミングウェイが言っていたと思います。「皆がおんなじ考え方をしたら、競馬が成り立たないじゃないか」って。
本書は庶民の出でありながら英国放送界の大立者となり(屋内プールとテニスコートとサッカー・グラウンドと厩舎を持つ大邸宅を構えたそうです)、ついにはBBCの会長にまで上り詰めたグレッグ・ダイクの自伝です。
2003年3月、「イラクは45分以内に大量破壊兵器の使用可能」であるとしてイギリスはイラク戦争を開始しました。これに対し2003年5月BBCは「英政府は、情報部の意向に反し、イラクの大量破壊兵器について誇張する表現を書き加えた。それは首相官邸の指示である。また官邸はそれが間違いであると知っていて行った」と報じました。これに対して英国政府は猛然と反撃、BBC批判を繰り広げました。その結果ダイクは詰め腹を切らされることになりました。辞任直後に本書を書いたわけですから、面白くないはずがないではありませんか。訳本の出版をしたのがNHK出版というのもなんだか因縁めいていますね。
それにしても、権力者というものはとにかく批判をする相手を嫌うようです。日本ではポチのポチといわれているマスコミにもポチは文句言ってますよ。
「マスコミは目を覚ませ」首相、靖国参拝報道を批判
[ 08月10日 12時29 ] 共同通信
小泉純一郎首相は10日朝、自身の靖国神社参拝をめぐる報道機関の論調について「メディアは公約を守らないと批判する。自分たちの意見に(公約の内容が)反対だと、守らなくてもいいのではないかと批判する」と指摘、その上で「日本のマスコミもちょっと目を覚まさないと(いけない)」と不快感を表明した。
首相は2001年の自民党総裁選で8月15日の終戦記念日に靖国参拝すると明言したが、これまでは見送っている。
首相はさらに「賛否両論があるのに、いつも首相を批判すればいい(のか)」と強調。「よくわたしを批判するテレビの評論家とコメンテーターに意見を聴いてみたい。首相を批判すれば格好良く見えるのだろうが、少しは冷静に目を覚ましてもらわないと」と重ねて指摘した。
公邸前で記者団の質問に答えた。
http://www.excite.co.jp/News/politics/20060810122956/Kyodo_20060810a106010s20060810122956.html
(08/10/2006)
どれだけヨイショさせれば気が済むんでしょう。
2006年9月
中村隆文『男女交際進化論「情交」か「肉交」か』集英社新書
甘酸っぱい香りのする男女交際という言葉ですが、この言葉自体はなんとあの福沢諭吉が作り出したものなのだそうです。1886年に「男女交際論」という著作を発表しています。こんな本をわざわざ読むのは当時のインテリ層です。この頃になるとインテリの中には男も女もいるようになります。で、いわゆる自由恋愛のような形で男女交際が出現してくるわけです。それまではどうだったかというと、例えば大学なんぞには女はいないわけです。どうするかというと色町に行って解消したりするわけです。こんなことをする連中を軟派といいました。じゃ硬派は、というと、実は男を相手にしていたんです。え、本当、と思われたかもしれませんが、かの森鴎外も「ウィタ・セクスアリス」の中で「硬派」の男に布団に引きずり込まれそうになったエピソードを記しているそうです。おまけに、このことを父親に打ち明けたところ、驚きもせず「うむ、そんなやつもおる。これからは気をつけんといかん。」といわれたそうです。まあ、日本ではお稚児さんは侍には付き物でしたしね、森蘭丸とか。そういえば、ギリシア哲学の時代もそうだったみたいだし。プラトンとアリストテレスとか。男女間の関係は単なる生産活動であり、それに比べると男同士の関係は精神性を伴う高尚なものだと考えられていたんだそうです。へー。
で、時代が下ってインテリ層の女性も増えるにしたがって男女交際が成り立つようになって行った、とこういうわけです。
しかし、今度はインテリ層の恋愛がもてはやされるようになり、そうするといわゆる恋愛至上主義みたいなのが流行るわけです。永遠の愛とかなんとか。文学でもその種のものが大流行したそうです。金色夜叉とか。
で、これはインテリの間、都会でのお話。田舎ではどうだったのかというと、かなり自由、というか放埓、というか、ま、現代では考えられないような習俗が現実にあったそうです。で、明治時代は平民までもがみんなお侍になろうとしていた時代ですから、そういった習俗は目の仇にされ、次第に衰退していったのでしょう。何か惜しいような気もしますが。
最後に、この本に面白い統計が紹介されていました。1883年の日本の離婚率(その年の離婚数/結婚数)は何と37.6%にも達していたのだそうです。これが大正・昭和と減少傾向にあったものの高度成長とともに上向き、2002年度の離婚率は再び約38%に復活したそうです。
早川聞多『春画のなかの子供たち』河出書房新社
それでは、江戸時代の性風俗はどんなものだったのでしょうか。その一端が伺えるのが春画に登場する子供たちです。春画に子供、なんていうと児童虐待とか思い浮かべてしまいますが、どうも春画に登場する子供たちは性の対象として描かれているわけではなく、表現のひとつの手段として用いられていたようです。
ただ、いくら男女の秘め事、といっても当時の長屋、あるいは日本家屋の造りではプライバシーなど保たれるはずもありませんから、実際問題としてそのようなことを目にする機会も多かったことでしょう。
そんなこんなで性知識を身につけ、結婚していったわけです。当時は今みたいに晩婚ではありませんでしたからね。それでよかったのでしょう。
なんともおおらかだった江戸時代の風俗がしのばれます。明治以降の日本は何でもかんでもお侍主義になって堅苦しくなってしまったような気がしますがいかがでしょうか。
この本のネタ本となっているのは江戸時代に書かれた「おさめかまいじょう」という性技指南書だそうです。地方で遊女屋を開いていた人が、いかに女性をマネージするかを記録したものです。その中には四十八手なぞが記されていることはもちろん、女性の養生、食生活上の注意まで書かれています。つまり、女性は大事な商売道具。長持ちしてくれなければ儲かりませんからね。
男女の相互奉仕などが書かれているいわゆるセックスのハウツーものとは違って、本書では徹頭徹尾女性は楽をしながらいかに男を早いとこイカセテ金をふんだくるかというテクニックが述べられています。商売が商売だけに、お客様は神様です、お客様にご奉仕することが喜びです、なんて言っていたらあっという間に身も心もボロボロになっちゃいますからね。それにしてはどうすれば男を満足させられるか、に気を配っていることには男として感心しました。満足すればいい気になって金を払っちゃいますからね、男は。やはり昔も今も商売の基本はCS(カスタマー・サティスファクション)って訳でしょうか。
最後にご注意。本書を通勤の往復の電車内でお読みになるのは止めておいたほうが良いでしょう。原書は字ばっかりだそうですが、本書は随所に浮世絵から引用された結構どぎつい図版がたくさん載っています。その方面の趣味の方は図版を見るだけでも楽しめるかもしれません。
ただ、枕絵(エロ浮世絵)の特徴はリアルさよりもマンガチックな誇張にあるように思います。だもんで、私は枕絵を見てもあまりエロい気分にならないんですよね。むしろ気色悪い。ほらちゃんと高尚な話題に戻ったでしょ。
ジャレド・ダイアモンド 長谷川寿一訳『セックスはなぜ楽しいか』草思社
最後にご紹介するのはセックスについて進化生物学的に考察したジャレド・ダイアモンドの作品です。
人間のセックスというものは生物全体から見ると結構異端的なものなのだそうです。四六時中発情しているとか、一夫一婦制を守っているとか、楽しみのためにセックスするとか、閉経した後も長く生きるとか。野生動物は生き残りに命を懸けているわけですから、無駄なことはしません。遊びとか。
人間のやっているテレビゲームなんて何の生産性もないではありませんか。それに比べりゃ子犬がじゃれているんだって、立派なコミュニケーションであり運動であるんだそうです。立派な意味がある。で、遊びじゃない。そういや「ホモルーデンス」(ホモ・サピエンスつまり知恵のある人に対して遊ぶ人って意味です)なんて本も昔ありましたね。遊びが人と動物を隔てていると。
もっとも、最近カラスは遊ぶんだという説があるそうです。雪の積もった屋根でそりすべりをするカラスや、滑り台で遊ぶカラスが目撃されているそうです。
じゃ、カラスも楽しみでセックスするんでしょうか。あ、もうひとつ人間のセックスの特徴は隠れてすることだそうです。じゃ、カラスも隠れてするのかな。
そういや、最近の日本人はセックスに縁遠くなっているという話がありましたね。セックスレス夫婦とか世界一ですって。大体、セックスレスという言葉そのものが和製英語だそうです。夫婦でセックスがないなんてのは、英語圏では概念としてありえない。だからそんな言葉はないってわけです。でも、そうすると生殖目的以外でセックスをしない日本人ってのは進歩的なんでしょうか動物的なんでしょうか?
以前「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ」だなんて言って顰蹙を買った知事もいましたけど、とんでもない。閉経後も生き続けることが人間を人間たらしめている証なのだそうです。ババァは大切にしなきゃ。
いつものダイアモンド節で古今東西あらゆる学説が紹介されています。雑多な印象を与えずにさりげなく著述する筆力はさすがです。面白い本ですが、やっぱり電車の中で読むのは避けたい本です。なにしろピンクの派手な表紙に「セックスはなぜ楽しいか」なんて書いてあるんですから。
2006年8月
住友慎一『実力画家たちの忘れられていた日本洋画』里文出版
私の岳父が去る2006年4月16日、栃木県矢板市に『住友ミュージアム』という私設の美術館をオープンしたことはお伝えしたとおりです。光琳と乾山をこれほど並べた美術館はそうないのではないでしょうか。
ウキヨエ・ウタマロ・シャラクなどが高い評価を受けているのに対し、日本人の洋画家というのは海外であまり高い評価を受けていません。黄色いサルが上手に絵を描いた、といったところでしょうか。本場フランスで評価された藤田嗣治などはむしろ例外でしょう。
海外での評価が低いからといって、別に絵が下手だとか、オリジナリティーがないとか、芸術性が低い、といったことではないはずです。しかし、一般的評価が低い(人気がない、値段が安い)作品は誰かがきちんと保存しなければ散逸してしまいます。今では珍重されている浮世絵だって、もともとは陶器が割れないように詰められた紙くずとして海外にもたらされたのですからね。芸術分野においても欧米に追いつかんとしていた明治期の日本人の意気込みを知る上でも明治期の洋画家というものには興味を惹かれます。
ところで、戦時期に日本に帰っていた藤田嗣治は戦後再びフランスに戻り、二度と再び日本の土を踏むことはありませんでした。戦時中国家の要請として戦争画を描いたにもかかわらず、戦後戦争画を描いた画家たちに対して手のひらを返すように批判が浴びせられたことに嫌気が差したとも言われています(http://www.ippusai.com/hp_home/sunset/fujita.htm)。
戦争画を描いた画家は藤田嗣治だけではありません。多くの画家が手がけています。しかし、戦後は美術界のタブーとして語られることも多くありませんでした。したがって見る機会もほとんどなかったはずです。タブーとして封印してしまったのでは何も進歩しません。戦争とは何なのか、戦時中画家たちはなにを見ていたのか知るためにも是非一度戦争画というものをご覧ください。インパクトがあります。
岳父は洋画のほか、専門分野である光琳・乾山についても多くの著作を発表しています。ご興味ある方はこちらからお選びください。
住友慎一『光琳・乾山の真髄をよむ』里文出版
住友慎一/渡辺達也『尾形乾山手控集成 下野佐野滞留期記録』芙蓉書房出版
住友慎一『光琳乾山兄弟秘話』里文出版
尾形乾山/住友慎一『乾山六十九歳の旅立ち』里文出版
ダン・ブラウン 越前敏訳『ダ・ヴィンチ・コード』上下巻セット 角川書店
本書の国内発行部数が、単行本と文庫本を合わせ、1000万部を突破したそうです。文字通りのベストセラー。私の本とはえらい違い。誰か買ってくれって。
映画も公開され、あっちでもこっちでもモナリザがどうの、マグダラのマリアがどうのってうるさいこと。でも、本書に散りばめられているモナリザやマグダラのマリアに関するお話は『マグダラのマリアと聖杯』とか『レンヌ=ル=シャトーの謎』
などですでに取り上げられています。ダン・ブラウンはそれらをストーリーの展開に巧みに織り込んで小説に仕上げたわけです。本書をアイデア盗用で訴えた方も居られたみたいですが、別にダン・ブラウンは自分の新説だなんていっているわけではないですしね。レンヌ=ル=シャトーの謎が出版された後、レンヌ・ル・シャトーなんて観光地みたいに金属探知機を持ってうろうろしている人がいっぱいいたみたいですよ。私だって読んだし。
映画の公開を機にキリスト教界も反発を強めているようですが、欧米の方々は預言者ムハンマドの風刺画問題のときは表現の自由がどうのこうのっておっしゃってたんじゃなかったでしょうか。今回はそんな声は聞こえませんよ。
ま、絵画つながりということで本書の書評を載せてみたんですが、皆さんモナリザの絵ってお好きですか。私の絵画の評価基準として、自分の寝室に掛けて長期間見ても飽きないこと、というのを使っています。この評価基準からすると、モナリザって絶対に寝室に掛けたくない絵だと思うんですがいかがでしょうか。つまり悪い絵ってこと??
『西洋絵画の主題物語 II神話編』美術出版社
近代ヨーロッパの芸術というものは、キリスト教、あるいはギリシア神話などと分かちがたく結びついて発達してきました。
現在では世俗的な題材が取り上げられているオペラも、バロック初期には題材はすべてギリシア悲劇でした。オペラ・ブッファといわれるチョイワルオペラを流行らせたのはモーツァルトだと言われています。一般庶民が音楽を楽しむ、ということもあったのでしょうが、音楽とは圧倒的にハレの日、お祭りや宗教的イベントなどで演奏される、聴かれる機会が圧倒的に多かったはずです。何しろ俺は芸術家だ、と思った音楽家はベートーベンが最初だったといわれています。それ以前の音楽家は音楽を演奏する職人さんだったわけです。iPodで個人が音楽を楽しむ、なんてのはソニーがウォークマンで作り出した20世紀の新しい文化だったわけですね。
芸術、あるいは絵画も同じことです。子供の落書きならともかく、絵画を描くには時間と労力を要します。つまり、昔は絵の値段は高かった、ということです。で、絵が飾られるのは教会かよほどのお金持ちの屋敷に限られたわけです。ということは、絵画のテーマが聖書やギリシア神話に関わることが中心であったのはなるほどうなずけるわけです。
公の場所に飾られるわけですから、それなりの様式が必要になります。聖人は頭の上にわっかを描いて区別するとか。そういえばわっかを書き入れるのをやめた最初の画家がレオナルド・ダ・ヴィンチだったそうです。あと、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画みたいにヌードばっかりだとしかられちゃうし。
その他、例えば聖母マリアを描く際には象徴である白ユリの花をどこかに添える、などという慣習があります。会ったこともないわけですから、何か描いておかないと誰だか分かんなくなっちゃいますからね。
教会のほかに絵が飾られる場所にお金持ちのお屋敷がありました。ま、宗教画なんて抹香くさいものばかりじゃつまりませんから、それ以外の主題、ギリシア神話を題材にした絵画なぞが多く描かれました。登場人物は神様ですから、これも聖人と同じようにいろいろなお約束があります。白鳥と美女が描かれていれば、それは白鳥に変身したジュピターがレダをやっちゃった場面だとか。決して白鳥をペットにしているお金持ちの夫人ではありません(そういえば、サウンド・オブ・ミュージックでトラップ大佐のお屋敷の前の池が写っている場面で、遠くのほうに白鳥が写っています。あの映画、個人のお屋敷を借りて撮影したはずですけど、白鳥がいる池ってのは凄いですね)。
しかし、私が見るところ、ギリシア神話が題材として好まれた理由は別にあると思います。その理由はずばりヌード。ギリシア神話を題材にする限り登場人物がヌードでもかまわないのですが、どう考えてもヌードを描きたいからギリシア神話を題材にしたとしか思えない絵もあります。ジェラールの「アモルとプシュケ」(本書II神話編の表紙)なんて、ものすごいきれいだと思いますけど、これってどう考えても女の子のヌードを描きたかったんでしょ、きっと。
きれいだなと思って絵を見るのも楽しいものですが、それとは別にいろいろな知識を持って絵を見直すのも楽しいものです。今までとちょっと違った角度から絵を見ることができるようになりますよ。
モナリザなんて寝室に架けておきたくない、といいましたが、ゴッホはどうでしょうか。ゴッホの絵だったら架けておいてもいいかなと思います。少なくとも気持ち悪くはないでしょ。もっとも、ゴッホの絵は何十億円もしますから実現しないでしょうが。
で、何十億円もするゴッホの絵ですから、いろいろ考えちゃう人が居るわけです。これ以上書いてしまうとネタバラシになりますからこのくらいでやめておきましょう。とにかく面白いミステリーです。
著者の高橋克彦さんは「写楽殺人事件」、「北斎殺人事件」
、「広重殺人事件」
など浮世絵研究家である自身の薀蓄を注ぎ込んだミステリーで有名な作家ですが、それ以外にも「竜の柩 上 下」「新・竜の柩 上 下」「霊の柩」といった伝奇ロマンも書かれています。「竜の柩」のシリーズは壮大なスケールで人類の謎に挑んでいます。古今東西の歴史にまつわる薀蓄をこれでもかと盛り込んでいます。読めば高橋克彦ワールドに嵌まること請け合いです。
2006年7月
ラビ・バトラ ぺマ・ギャルポ+藤原直哉監訳『ラビ・バトラ緊急予告 資本主義消滅最後の5年』あ・うん
拝金主義が世界に腐敗と貧困を撒き散らしている。このような行き過ぎた市場原理主義、アングロサクソン流グローバリズムは長続きしない、というのがラビ・バトラ長年の主張です。私もそうあってほしいと思います。企業や個人の「正直さ」や「誠実さ」のない市場社会は単なる搾取主義になってしまいます。
ラビ・バトラは(搾取的)資本主義は2010年には消滅すると分析しています。
ラビ・バトラは自分は預言者ではないと言っています。これらの予想はさまざまな事象、そして信奉する景気循環のサイクルなどから割り出したものです。巻頭に過去の予想とその当たり外れについて述べています。過去の著作に当たって本当かどうかは確かめていませんので、ご興味がある方はお調べください。
ただ、搾取的資本主義は素直に消滅するのではなく、かなりの摩擦、災厄をもたらすようです。その最初の兆候は2006年夏からの米国株式市場の暴落だそうです。
では、資本主義に続く原理は何になるのでしょうか。ラビ・バトラは明確には述べていません。私としては、「正直さ」や「誠実さ」が評価される世の中になってほしいと思いますし、そうなるのではないかと思っています。
ラビ・バトラに続く大國亨の予言は当たるでしょうか。
高巌『「誠実さ」を貫く経営』日本経済新聞社
高さんは日本におけるコンプライアンス研究の第一人者です。数多くの企業などでコンプライアンス・プログラムの策定などに関わってきています。また、企業
不祥事が起きたときに新聞社から真っ先にコメントを求められていますし、不祥事が起きた会社で改善プログラムを策定する、などという場合にアカデミックな部外者として真っ先に名前が挙がるようなコンプライアンス界の有名人物です。私の多くの論文にも参考文献として使わせていただきました。
高さんは企業がなぜ社会に対して責任を負わなければならないかについて面白い例を挙げています。ひとつめのケースでは、複数の者が共同出資して「虎」を飼っているとします。そして虎が檻から抜け出し近隣住民に危害を加えたとします。もう一方のケースでは、複数の者が共同出資して「化学会社」を操業しているとします。そして工場で爆発事故があり近隣住民に被害が出たとします。
最初のケースでは虎の所有者は被害に対して当然に賠償責任を負います。ところが、工場の所有者の場合はどうでしょうか。工場が近代的株式会社組織であれば、会社の所有者である株主は出資額を限度とする有限責任を負うだけです。では、虎の所有者が負う責任は誰が負うのかといえば、その工場という法人が負うことになります。企業の存在理由は株主利益の最大化にある、とはよく聞かれる理屈ですが、もし上記のようなケースにおいて株主が有限責任を主張するのであれば、企業は虎の所有者と同じような責任を社会に対して負わなくてはなりません。企業は株主利益の最大化だけを考えればよい、株主は有限責任しか負わない、というのでは、責任を負う主体が社会に存在しなくなってしまいます。
ま、そういうことで、コンプライアンスというものが重要になってくるわけです。コンプライアンスを重視しましょう、規則を守りましょうといったところで、掛け声倒れに終わる可能性は結構あります。不祥事を起こして散々批判された企業が同じような不祥事を再発させる例は枚挙にいとまがないではありませんか。なぜそうなるのか、というと、企業の体質がそうだから、としか言いようがありません。
それを改善するにはどうすればよいのか。最も重要なのは経営陣が有言実行することでしょう。高さんは、そのようなインテグリティ(誠実さ)は必ず報われるのだ、としています。論理的根拠?そんなものがあれば誰も苦労しません。
高さんも多くの例を挙げていますが、理論化、という意味ではまだまだです。実はコンプライアンスの議論で最も苦労するのがここら辺の議論なのです。確かにうそがばれて破綻した企業は多くあります。しかし、現在存続している企業は全て潔白なのか?宮仕えをすれば3日で分かることですが、実社会には表も裏もあるのです。
とはいえ、グリーディーな社会が続くことはどう考えてもおかしいとは思いませんか?誠実な人間が損をしないような社会を作ること、たとえ一歩ずつ、半歩ずつでも前進すること、これが我々に求められていることなのではないでしょうか。
私としては、「正直さ」や「誠実さ」が評価される世の中になってほしいと思いますし、21世紀は倫理の世紀になるのではないかと思っています。大國亨の予言は当たるでしょうか。
なぜ日本人が書いた本を日本人が翻訳しているのか、というと、オリジナルは新渡戸稲造が英語で書いたんです。で、私はもちろん翻訳版で読みました。新渡戸稲造が日本を擁護するため古今東西の古典から縦横無尽に引用していますから、私ごときの英語力では原典を読みこなせないでしょうから。
本書は「日本では宗教教育をせず、どうやって道徳教育をしているのか」と外人に尋ねられたとき即答できなかった経験に触発されて思考をめぐらせた結果として生み出されたのだそうです。日本の道徳教育の原典は武士道にあると。
でも、本書でも認めているとおり、武士道ってやつはそう古くからあるもんじゃありませんからね。それ以前はどうだったんでしょうか。
ただ、(本書では触れていませんが)明治になってからの日本は、結構武士道的な規範が全国民に広がっていくことによって出来上がったような気がしますよね。それ以前は身分制の縛りもあり、武士の真似、なんてことはきちんと許されない限り怖くて出来ませんでしたが、苗字を持つこと、なんて決まるとあっという間に日本人はみんな苗字を持つようになっちゃいましたから。まあ、武士への憧れっていうのも結構あったんじゃないですかね。ですから、武士とか明治に入ると軍人なんてのは結構人気があったわけです。戦争に勝ったりしたし。男の子も女の子も憧れの的は軍人さん。で、男の子用の学生服は軍服(もちろん兵隊用じゃなくて士官服です)、女の子用はセーラー服(水兵さんですね。ちなみに欧米にもセーラー服ってあるんですが、男の子用です。セーラー服には大きな四角い襟が付いていますが、あれは襟を立てることによって海上で効率良く音を捉えられるようにデザインされているんです)を真似して出来たんです。これが本書の書かれた時代の雰囲気、ってのは言いすぎでしょうか。
昨今愛国心が話題になっています。新渡戸稲造はキリスト教徒ですから、唯一不可分の忠誠を尽くすべき天皇に仕えながらイエスにも忠誠を誓っていることは大逆にあたる、なんていう非難を受けていたみたいです。これに対して新渡戸稲造は、武士道は私たちの良心を主君や国王の奴隷として売り渡せとは命じていないと言います。「おのれの良心を主君の気まぐれや酔狂、思いつきなどの犠牲にする者に対しては、武士道の評価はきわめて厳しかった。そのような者は「倭臣」すなわち節操なへつらいをもって主君の機嫌をとる者、あるいは「寵臣」すなわち奴隷のごとき追従の手段を弄して主君の意を迎えようとする者として軽蔑された」と。
本書が書かれたのは1898年。ちょうど日清戦争に勝って意気盛んな時代です。その後日露戦争にも勝って日本人がそっくり返るようになる直前の時期です。新渡戸稲造の目に映った理想の武士道は本書に書かれているとおりなのかもしれません。しかしその後の愛国心のあり方はどうだったのでしょうか。
愛国心という言葉のもと、個人の良心もヘッタクレもない時代だったのではないでしょうか。
温故知新。みなさんも本書を紐解いてはいかがでしょうか。
1990年に『日はまた沈む』を書いてバブル崩壊を予測した著者が日本の復活を予言しています。面白いじゃないですか。
本書の中でビル・エモットはいくつかの予言(本書の場合は分析でしょうか)を披露していま
す。そのひとつは、「ウサギのように足の速い中国はアジアの隣人にとって賞嘆の的だが、同時に不安をも呼び起こす。」「イソップの寓話ではカメがウサギとの競争に勝つ。日本も同じように勝利する可能性がある。」「再び日は昇り始めた。さらに競争と効率化と生産性上昇を促す改革が続けば、日本はアジア太平洋
地域の、そして全世界の人々の繁栄と平和に役立つことができる。」とのことです。
バブル崩壊がいつかについては議論もありますが、1990年ごろに起きたとすると、それからはや15年以上が経ったことになります。バブル崩壊の当初、不況脱出に15年もかかる計画を提案したら馬鹿呼ばわりされたのではないでしょうか。この歳月は失われた10年などと言われていますが、別の見方をすれば、(IMFが主導した諸国のように)無理やりドラスティックな改革を実施することなく着実に変革をするために必要な年月であったといえるのかもしれません。
バブルの崩壊によって成長は著しく鈍化しましたが、GDPが大きく減少するような、あるいは巷に失業者があふれるような不況は経験せずに済みました。もしかしたらこれは大変なことなのかもしれません。私たちはなぜもっと早く変革を進められないのか、こんなことで本当に非効率な日本のシステムを変えることが出来るのか、と文句ばっかり言っていましたが、小なりとはいえ1億人以上の国民を擁する日本丸の進路変更には相応の年月が必要であったのかもしれません。
中国ではないのですから、お上がこう決めた、議論はなし、って訳には行きませんからね。
その他にもビル・エモットはいくつかの予言をしています。
まず中国については、「今後10年から15年のあいだにいまの3倍くらい豊かになる中国が、経済的不安定と政治的改革要求の圧力増大の両方に直面するだろう」ということです。「2008年の北京オリンピックのあとに、ある種の危機が起こるかもしれない」と予言しています。
また、朝鮮半島については「これから10年ないし15年のいずれかの段階で北朝鮮の体制が崩壊し、朝鮮半島が統一されるだろう」と予言しています。
このような事態の中、日本の安定性がアジア各国に評価されるようになる、ということです。
ぜひそのようになって欲しいと願います。
ところで、この15年という数字、上に挙げたラビ・バトラも重要なサイクルとして注目しています。15年、その倍の30年、そしてさらに倍の60年。60年はちょうど干支が一回りする期間です。古代人の知恵でしょうか。
2006年6月
ジェームス・M・バーダマン 村田薫訳『アメリカの小学生が学ぶ国語・算数・理科・社会教科書』株式会社ジャパン・ブック
以前ご紹介した『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書』の姉妹版です。その他本書評で取り上げた『あなた自身の社会‐スウェーデンの中学教科書』、『アメリカの高校生が学ぶ経済学』、『東大生が書いたやさしい経済の教科書』、『新しい歴史教科書』、『新しい公民教科書』に続く7冊目です。いや、意外とたくさん出版されているものですね。
本書の原著者・編者のE.
D.
ハーシュは、子供の自主性を育て創造力や批判力を養うことに重点を置きすぎるあまり知識不足で新聞も読めなくなってしまった教育・教科書に対するアンチテーゼとしてCore
Knowledge Seriesという小学校教科書プロジェクトを発足させました。前述の『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書』もそのシリーズです。
世界の宗教、地理、歴史といった異文化理解に多くのページが割かれており、記述も妥当だと思います。まあ、アメリカ人はアメリカ以外のことは何にも知りませんからね。何しろ最近のギャラップ社世論調査でも「聖書の記述にあるとおり、人類は神によって造られた」という考えにアメリカ人の過半数が同意している国ですから。自分たちと違う文化の人間なんてものは人型の獣くらいにしか思っていないのでしょうね。そりゃ、こういう教科書が必要になるわけですねえ。
でも、一寸法師のお話が最初のほうに載っているんですが、挿絵がなんとも中国風なんですね。打出の小槌も中華風の装飾が施されたハンマーにしか見えません。でも、物語の時代の日本はどんなものだったのでしょうか。ひょっとして私の(きっとあなたもそう思っている……多分)イメージが間違っているんでしょうか。異文化理解ってのは難しいものですね。
本書は日英対訳式になっていますので、英語の学習教材としても最適だと思います。英語で足し算と引き算をどう言うかなんて日本の英語の教科書には決して出てきませんからね。
デーヴ・グロスマン 安原和見訳『戦争における「人殺し」の心理学』ちくま学芸文庫
国は我々に実にさまざまなことを教えてくれます。普段は人を殺してはいけない、と教えていますが、戦争ともなればそうは言っていられません。召集令状1枚で招集した新兵にも一人前の兵隊として人を殺してもらわないと戦争に負けちゃいますからね。
ところが、人間というものは同類を殺すことに猛烈な抵抗感を感じるものなのだそうです。ランボーなんか顔色ひとつ変えずにガンガン人を殺しちゃいますが、
あんなのは嘘っぱちだそうです。だもんで、第2次世界大戦までの歴史上の戦闘を詳細に分析したところ、なんと兵士の15〜20%しか戦場で発砲していなかったそうです。残りは撃つふりをしていただけ。もっとも、分析によれば顔色一つ変えずに人を殺す「攻撃的精神病質人格」の持ち主も2%ほど居るそうですが。
ただ、人を殺すといっても、殺される相手との距離が近いほど抵抗感があるそうです。相手の目を見ながら、銃で、ナイフで、素手で殺すのはとんでもない精神的ダメージを殺人者にもたらすそうですが、距離が離れている、あるいは多くの人間がかかわっている場合はさほどのダメージを残さないそうです。何十万人が死のうが原子爆弾で人を殺すのは単にスイッチを押すだけの作業ですからね。たくさんの人が関わっているし。スイッチ押したのだって命令があったからですしね。
あと、将官なども部下を死地に追いやりながらさしたる精神的ダメージも受けないそうです。高貴な人々と下賎なものたちとの社会的距離が将官たちを守っているのです。太平洋戦争後の日本の元軍人(それも偉い人たち)が恬として恥じなかった裏にはそんなメカニズムが隠されていたんですね。
ところが米軍は朝鮮戦争以来「条件付け」というすばらしいトレーニング方法を開発、そのおかげでベトナム戦争における発砲率は90%以上になったそうです。教育の効果ってのはすばらしいものですね。
どういう訓練をしたかというと、繰り返し実戦を想定したシミュレーションで、目の前に人型の的が飛び出してくると発砲する、という行動を繰り返し学習させるのです。そうすると、ああでもないこうでもないと考えるより先に発砲という兵士に要求される行動を取れるようになるのです。これってあの有名な
「パブロフの犬」ではありませんか。
で、めでたく人を殺せるようになった兵士たちはどうなったのでしょうか。ベトナム帰還兵がPTSDに苦しむ率は統計にもよりますが18%から多い例では54%にもなるそうです。条件付けだけでは行動を起こして人を殺せるようにはなりますが、それによってこうむる精神的ダメージまでは癒してくれないのです。特にベトナム戦争においては、帰還兵は帰国後米国内で冷たい仕打ちを受けたので、精神的ダメージを回復する暇がなかったのでしょう。この本ではまったく触れられていませんが、敗戦後の日本はどうだったのでしょうか。帰国した兵隊たちを待っていたのはアメリカ万歳と叫んでいる祖国だったのですからね。
あと、この話で思い出したのは昨今のリストラの嵐で職を失ったわれら中年世代の悲しい姿です。会社のため、家族のためと思って懸命に働いてきたのにちょっと左前になっただけで会社からは不要通告、家族からもさよならで負け組みの烙印。書いているだけで涙が出そうです。
著者は生粋の軍人ですから、ベトナム戦争のように米国が国として戦っているときにそれを非難する国民がいることに我慢がならないようです。合衆国軍が海外で戦っているときに議会がそれに異を唱えるなどもってのほかである、というわけです。軍隊では人を殺すための条件付けをすると同時に命令には絶対服従することも条件付けていることを著者は繰り返し主張しています。良い兵隊とは命令されれば人を殺しますが、命令がなければ何もしてはならない存在なのです。ま、国としては言うことを素直に聞いてくれる国民のほうが都合が良いわけです。
最後の方で唐突に現代の子供たちが明確に意識されないままテレビゲームなどで暴力への条件付けを行われていることに対して警鐘を鳴らしています。しかし、いわゆるゲーム脳などについては賛否があるようです。それに、この主張はその後に続く自由の制限を求める政策を実施すべきだという結論を導くためのためにする議論のような感じがします。
著者は野放図な、例えば犯罪行為における暴力などは否定していますが、軍隊における戦時の管理された暴力は肯定しています。今本当に求められているのはそのような管理の区分ではなく、戦争という暴力を根絶する努力なのではないでしょうか。
しかし、本書は米国の軍人(保守化した現在の米国では一般的米国人といえるかもしれません)が戦争を、暴力をどのように捉えているかを平和ボケしている日本人に知らしめてくれます。読んで気持ちの良い本ではありませんが、読んで考えさせられるものがあります。
A級に対してBC級ということから戦争犯罪行為の重大性に基づいて決められたような気がしますが、A級戦争犯罪とは「平和に対する罪」、B級戦争犯罪とは「通例の戦争犯罪」、C級戦争犯罪とは「人道に対する罪」という類型を表しています。ただ、BC級戦争犯罪裁判という言い方は米国だけで、イギリスやオーストラリアは軽戦争犯罪裁判(Minor war crimes trials)と呼んでいたそうです。東京で行われた極東軍事裁判(いわゆるA級戦犯を裁いたもの)と戦場となった各国で開かれたいわゆるBC級戦犯裁判はやはり性格を異にするものであったといえるでしょう。
BC級戦犯裁判というと、戦争に勝った国が勝手に裁いたとか、命令を受けただけの下級の兵士がろくに弁護の機会も与えられないまま処刑されたかのような印象がありますが、必ずしも正しくないそうです。
まず、そもそも戦争犯罪人を戦勝国に引渡し軍事裁判所で処罰するという方法が認められたのは、第一次世界大戦後のベルサイユ条約が初めてなのだそうです。そしてこのとき日本は戦勝国として賛成しているのです。まさか戦争に負けるなんて考えてもいなかったんでしょうね。
また、陸軍では二等兵、海軍では二等水兵に対して戦犯裁判において死刑判決が下されたことはありますが、その後減刑されていて、死刑になったものはいないそうです。
ただ、捕虜の虐待などを理由として直接虐待に関わった現場の人間が多く処刑されたのも事実のようです。悪名高いバターン死の行進や泰緬鉄道などを含め、日本軍に捕虜として捕らえられた欧米各国の捕虜の死亡率は28.5%に達するそうです。シベリアに抑留された捕虜の死亡率が10%程度といわれていますから、現場での取り扱いが如何に過酷であったか分かります。ただ、現場の収容所の所長などが裁かれた一方、そのような命令を下した上層部の責任は問われませんでした。つまりA級戦犯として裁かれた日本帝国のトップとBC級戦犯で裁かれた現場の士官・下士官クラスの間の立って実質的に軍を動かしていた大本営参謀や参謀本部・陸軍省の幹部たちに対する責任追及が結果的に抜けてしまっているのです。
さらに、満州では日本人入植者をも見捨てて逃げていった関東軍。ま、彼らが戦勝国にとっての戦犯になるわけはありませんが、日本人にとっては立派な戦犯でしょう。しかしながら彼らに対する責任追及がなされたという話は聞いたことがありません。
戦犯裁判が茶番だと決め付けることは簡単です。しかし、その背景には日本軍が、そして日本人が八紘一宇の掛け声のもとアジア協和とは程遠い侵略と略奪行為を繰り返していたことに思いをはせる必要があるでしょう。戦犯裁判は一方的だとかお前らだって同じことをやってるじゃないか、と文句ばかり言い続けているだけでは、子供のけんかと同じことです。日本人は日本人としてもう一度戦争をもう一度きちんと議論する必要があるのではないでしょうか。
2006年5月
E. ナーゲル/J.
R. ニューマン はやしはじめ訳『ゲーデルは何を証明したか』白揚社
私が20年来持っている本です。私のは『数学から超数学へ』という題名ですが、現在は上記題名に改訂されています。原書は1958年、日本語訳は1968年に出版され、長らくゲーデルの定理に関する唯一の入門書の役割を果たしていたようです。もともとの論文は数理論理学の専門家でもなければチンプンカンプンなんだそうです。
ゲーデルが「不完全性定理」に辿りつくまでにも、数学には長い歴史がありました。紀元前3世紀の数学の天才ユークリッドが「幾何学原論」という書物を著し、幾何学の基礎を固めました。いやな思い出を思い出させちゃいましたか?で、彼は以下の5つの自明と思われる公理を用いてあの壮大な幾何学の体系を作り上げました。
第1公理 任意の2つの点を通る直線を引ける。
第2公理 任意の線分を両側にいくらでも延長できる。
第3公理 任意の中心点と半径をもつような円をかける。
第4公理 直角はすべて等しい。
第5公理 任意の1直線 l に対して、その上にない任意の点を通る直線で、交わらないものが必ず1本だけ引ける。
何だか知らないけど星の数ほどある幾何学の定理は、全てこの5つの組み合わせからできているのです。
ところが、このうち第5公理だけが、紀元前3世紀の人々にもそれほど自明とは思われませんでした。それで、その後2000年に渡って第5公理を証明しようとする努力が積み重ねられました。その結果驚くべきことが判明したのです。
「平行線は何本も引ける」としても、「交わらない直線はない」としても、別な幾何学の体系が導き出せることが分かったのです。リーマン幾何学とか双曲線幾何学などといわれる非ユークリッド幾何学がそれです。
つまり、最初に違った仮定を置けば、その後論理的思考を積み重ねたとしても、違った結論が導かれる、ということです。論理は世界共通だとか言いますが、最初の前提が違えば、違った結論が出ちゃいますよ、ということです。論理的、といってもそんなもんだということですね。
問題はこのようなことが普遍的であるのか、幾何学の世界における前提の置き方が間違っていることによって引き起こされたものであるのかというこです。ゲーデルは「不完全性定理」においてこの問題が普遍的なものであることを証明してしまったのです。
分かりました?いやー、私にはさっぱり。
「ゲーデルの証明を絶望への誘い、あるいは神秘主義の擁護と受け取ってはなりません。」「人間の才知の完全な形式化が不可能なこと、そして証明の新しい原理が、発明あるいは発見されることを永久に待ちつづけるという意味でもありません。」「ゲーデルの定理は、人間の心の構造と能力は、かつて生み出されたどんな無生命の機械よりも、はるかに複雑、巧妙であることを示しています。」なのだそうです。少しは興味がわいたでしょうか。
ダグラス・R・ホフスタッター 野崎昭弘、はやし・はじめ、柳瀬尚紀訳『ゲーデル,エッシャー,バッハ あるいは不思議の環』白揚社
この本も20年ほど前に買い、あまりの難しさに読み通すことができなかった本です。何しろ700ページ以上もある分厚い著作です。アメリカでは出版後1980年ピュリッツァー賞を受賞、ペーパーバック版は数ヶ月間ベストセラーをキープしていたそうです。アメリカ人ってみんなそんなに頭が良いのかな。それとも積読か?
著者は、父親がノーベル物理学賞受賞者というサラブレッドの家系に生まれ、この本を書いた時点ではミシガン大学で人工知能の研究に取り組んでいたそうです。また、本書の題名にエッシャー(水の流れを追っていくとなぜか元に還流してしまう不思議な絵や下のほうでは魚が画面を覆っているはずなのに上に行くとだんだん鳥になってしまうといった変な絵を描いている画家です)やバッハ(いわずと知れた音楽の父)が出てくることからも分かるとおり、本書でも手馴れたタッチのイラストを披露していますし、音楽家になろうかと思うほどのピアノの腕を持ったマルチタレントだそうです。おまけに大学時代に(この本を書いたとき著者は40歳)禅に出会って以来興味を持ち続け、本書でも禅問答が随所に出てきます。け、イヤミなやつだぜ。
本書では一貫して「不思議の環」がモチーフになっています。バッハはバロック音楽の大家で、ひとつのモチーフを次々と展開していく対位法を極めたことで有名でしたが、あまりにも複雑になりすぎた対位法はバッハ生存中にすでに時代遅れと見なされるようになっていました。で、その後のモーツァルトのような軽やかな音楽につながるんですね。これは本書とは関係ありませんが。エッシャーもメビウスの帯のような「不思議な環」の絵を多く描いています。
超難しいゲーデルの定理をゼノンのパラドックスで有名なアキレスと亀を狂言回しとしてエッシャーやバッハの作品あるいは禅に関する薀蓄をエピソードとして解き明かしていきます。この本を理解できればゲーデルの定理もばっちり理解できる、という趣向です。
ゲーデルの証明でもカントール(有名な数学者の名前ですよ)の対角線論法に似た方法が取られています。昔、大学で対角線論法を使って無限の二乗は無限より大きいという証明を学びました(従って無限より大きい数は無限にある)。え、高校じゃ無限は無限でそれより大きい数はないって言ってたじゃん、それじゃ今まで勉強してきたことは何だったの、って思った記憶があります。そんなことを学んだからって大した進歩はしてないわけですが。
こんな本を読んでいるとチラッと披露すれば、知的に見えること間違いなしです。でも最近は知的であることを衒うのはあまりカッコ良くないかなー。ま、思いっ切り知的興味をそそる本であることは間違いありません。お時間のあるときにどうぞ。
著者はビスケットを崩壊させずに紅茶に浸す方法を研究したことで1999年のイグ・ノーベル賞を受賞したオーストラリアの科学者です。これだけでも本書が面白そうだと思えるでしょう。
本書はいくつかの科学史に残るエピソードを通じていかにして現代の科学者たちが「反常識的」な信念を受け入れるにいたったかを辿っています。魂の重さなどは現在の常識では否定されていますが、それでは重さ(重力)がどのようなメカニズムで空間を隔てた場所にある物体に影響するかは現在の物理学でも謎なのだそうです。しかし、現象としての重力は大変よく研究され、理論化され、利用されています。われわれだって日常的に重さを体験しているでしょう。私の場合は皆さんより多目かもしれませんが。
科学者がそのような信念を受け入れるには膨大かつ慎重な検証実験が繰り返される必要があります。でも、科学者ならだまされないのかというとそうでもないようです。実験に関して面白い著者のエピソードが披露されています。マッシュルームの栽培実験をしたとき、著者の奥さんがいたずらで買ってきたマッシュルームを培養土に並べておいたのだそうです。でも、こんな簡単ないたずらになかなか気がつかなかったそうです。科学者も信じたいと願っていることについては信じ込んでしまうんですね。
巻末には現在「必要な謎」として受け入れられている信念の例がいくつか挙げられています。これらは人類の知性の進歩によって証明される現象なのでしょうか?それともゲーデルの定理によって証明不能なのでしょうか?あるいはここに挙げられている事例が解明されてもいくらでも新たな謎(数学では
、なのだそうです。だとすると、新しい∞をいくら定義してもそれより大きい数が存在することになります。)が生まれるのでしょうか。
ロバート・アーリック 垂水雄二・阪本芳久訳『トンデモ科学の見破りかた』草思社
トンデモ科学の見破りかた、といっても、最近日本でもよく見かけるようになった超能力やカルトといったサブカルものの見破りかたではなく、もう少しまっとうな科学の装いをまとった、立派な経歴を持ったか学者が主張しているような説が取り上げられています。最後に著者によるトンデモ度4「間違いなく誤り」からトンデモ度0「そうであってもおかしくはない」までの評価が下されています(トンデモ度3は「ほぼ確実に真実ではない」、トンデモ度2は「真実でない可能性はきわめて高い」、トンデモ度1は「おそらく真実ではないだろうが、誰にもわからない」)。
たとえば「石油、石炭、天然ガスは生物起源ではない」はトンデモ度0です。つまり、エネルギー資源は生物起源ではない可能性がある、というわけです。一方、「銃を普及させれば犯罪率は低下する」はトンデモ度3になっています。ところが、その逆の「銃の入手しやすさの増大が暴力的な犯罪を増加させる」という考え方もトンデモ度2の評価を下しています。
銃規制の問題を取り扱った章ではその効果を証明する統計データの取り扱いの評価に重点が置かれています。そしてきわめて慎重にデータを分析すると、銃規制により犯罪が減るとも減らないとも証明できない、ということを最終的に著者は示しています。本文では銃が増えれば犯罪は減る、ということを統計学的に明らかにした、とされる著作に対し、別のデータの取り方(元データは同じ)をするとそのような証明はできなくなってしまうことを示しています。ただ、だからといって反対の主張ができるか、というとそうではないところが面白いところです。
サブ・カルチャーものには拒絶反応を示す人でも権威をちらつかせたトンデモ理論にはころっと行ってしまいがちです。振り込め詐欺も、「俺は大丈夫、絶対騙されない」と思っている人ほど危ないそうです。そういえば大阪は引ったくりの件数も日本一ですが、振り込め詐欺の被害の少なさも日本一なんだそうです。ここはひとつ大阪のおばちゃんの批判精神を学ぼうではありませんか。騙されへんでー。
2006年4月
ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一訳『文明崩壊』上
下
草始社
いや、面白い本でした。
過去に起こった社会の崩壊(日本語の題名は『文明崩壊』ですが、取り上げている事例は文明というよりはより小規模な社会がほとんどです)を紐解くことにより教訓を見出そうとする試みです。本書では特に環境破壊に目を向けています。
社会が崩壊する要因として、環境被害、気候変動、近隣の敵対集団、友好的な取引相手、そして環境問題への社会の対応があげられています。社会の崩壊はこれらのうち複数の要因がすでに起こっており、さらに新たな問題が発生するか、複数の要因が閾値を越えてしまった場合に起こるようです。
で、この本の中でも日本が取り上げられています。まだ読んでいない方はどんな風に取り上げられているか分かりますか?
実は日本は環境問題への取り組みで大成功を収めた国として取り上げられています。ただし、1868年以前の日本ですが。つまり、江戸幕府が日本の環境保全に大変積極的にかかわり、その成果として現在でも先進諸国ではダントツの森林被覆率(74%)を保っていられるのです。こんなこと扶桑社の歴史教科書にも書いてなかったですよ。
そして本書の最後に人類の将来に向けて、「社会が破滅的な決断を下すのはなぜか?」という問いかけをし、さらに「大企業と環境」という章で現代社会において大きな環境破壊の元凶となっている企業に対してどのように環境を守らせるようにするかが描かれています。
筆者の提供する処方箋は意外なほどシンプルなもので、一般市民の姿勢の変化こそが企業の環境に対する振る舞いに変化をもたらすものであるとしています。逆に言えばどんな大企業の行動にも我々一般市民が責任を負わなければならない、ということになりますが、我々も企業と同様に現代社会の住民であり、社会の存続に重大な利害関係(というか致命的な利害関係)を持っているわけですから、我々も主体的に社会に関わっていかなくてはならないのです。このことに関しては、私が研究してきたコンプライアンスにおいても同様の結論が得られました。
著者は学生に最後の一本になった椰子の木を切り倒した人間は何を考えていたのかと聞かれて答えに窮したそうです。でも、似たようなことが最近ありました。最後のトキが死んだとき、日本人はどう思ったのでしょうか?だからどうした、といったところではなかったでしょうか。最後のトキがどうしたこうしたと騒いでいたマスコミも、その後の続報はさっぱりありません。
21世紀は人類の目覚めの世紀になるのでしょうか。それとも人類最後の一人になるまで殺し合い、お互いの肉体をむさぼり合う地獄絵の未来が待っているのでしょうか。その選択は私達が握っているのです。
もうトキが最後の一羽になってから騒ぐのはやめようではありませんか。
早稲田大学を卒業後クレアモント大学政治学部大学院で修士号を取得、ハーバード大学で政治学部大学院助手、同大学国際問題研究所研究員を勤めるなどなど赫赫たる経歴をお持ちの藤井厳喜さんのかかれた著作です。思想の系列としては米国保守派に近いものがあるようです。
従って、競争の結果としての不平等はあるものの、誰にでもチャンスがあり敗者復活も可能なアメリカ型社会を最善と捉えておられるようです。これを藤井さんは「明るい階級社会」であるとしています。
そんなこと言われても、と思ったあなた、あなたは下流層に転落してしまいますよ。
で、最後に本書118、119ページに掲載されている二つの表を転記しておきましょう。
諸外国の貧困率 |
|
諸外国のジニ係数 |
||||
|
国名 |
貧困率(%) |
|
|
国名 |
ジニ係数 |
1 |
メキシコ |
20.3 |
|
1 |
メキシコ |
46.7 |
2 |
アメリカ |
17.1 |
|
2 |
トルコ |
43.9 |
3 |
トルコ |
15.9 |
|
3 |
ポーランド |
36.7 |
4 |
アイルランド |
15.4 |
|
4 |
アメリカ |
35.7 |
5 |
日本 |
15.3 |
|
5 |
ポルトガル |
35.6 |
6 |
ポルトガル |
13.7 |
|
6 |
イタリア |
34.7 |
7 |
ギリシャ |
13.5 |
|
7 |
ギリシャ |
34.5 |
8 |
イタリア |
12.9 |
|
8 |
ニュージーランド |
33.7 |
9 |
スペイン |
11.5 |
|
9 |
イギリス |
32.6 |
10 |
イギリス |
11.4 |
|
10 |
日本 |
31.4 |
11 |
オーストラリア |
11.2 |
|
11 |
オーストラリア |
30.5 |
12 |
ニュージーランド |
10.4 |
|
12 |
アイルランド |
30.4 |
13 |
カナダ |
10.3 |
|
13 |
スペイン |
30.3 |
14 |
ポーランド |
9.8 |
|
14 |
カナダ |
30.1 |
15 |
オーストリア |
9.3 |
|
15 |
ハンガリー |
29.3 |
16 |
ドイツ |
8.9 |
|
16 |
ドイツ |
27.7 |
17 |
ハンガリー |
8.1 |
|
17 |
フランス |
27.3 |
18 |
ベルギー |
7.8 |
|
18 |
ベルギー |
27.2 |
19 |
フランス |
7.0 |
|
19 |
スイス |
26.7 |
20 |
スイス |
6.7 |
|
20 |
ルクセンブルグ |
26.1 |
21 |
フィンランド |
6.4 |
|
21 |
フィンランド |
26.1 |
22 |
ノルウェー |
6.3 |
|
22 |
ノルウェー |
26.1 |
23 |
オランダ |
6.0 |
|
23 |
チェコ |
26.0 |
24 |
ルクセンブルグ |
5.5 |
|
24 |
オーストリア |
25.2 |
25 |
スウェーデン |
5.3 |
|
25 |
オランダ |
25.1 |
26 |
デンマーク |
4.3 |
|
26 |
スウェーデン |
24.3 |
27 |
チェコ |
4.3 |
|
27 |
デンマーク |
22.5 |
出展:OECD「ワーキングレポート22」
貧困率とは、等価可処分所得の中央値の半分の金額未満の所得しかない人口が全人口に占める比率を表しています。ジニ係数とは所得などの不平等度を表すのに使われます。その国や集団の構成員の所得格差が、全体として、平均所得に対してどれだけになるかを表しています。ゼロから1までの値をとり、ゼロに近いほど所得分配が均等であることを示しています。
いずれの統計においてもアメリカは上位にランクされていますし、北欧諸国は下位にランクされています。アメリカ型社会だけが正しい、のでしょうか。
「「下流」とは、単に所得が低いということではない。コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低いのである。その結果として所得が上がらず、未婚のままである確率も高い。そして彼らの中には、だらだら歩き、だらだら生きている者も少なくない。その方が楽だからだ。」
で、上記藤井さんの本にも本書にも“あなたの下流度”を測る質問項目が用意されています。「その日その日を気楽に生きたいと思う」とか「自分らしく生きたい」、「好きなことをしていたい」なんて項目に丸をつけていると下流度が高くなっちゃうわけです。私なんか当てはまっちゃいます。あと、趣味で楽器演奏とか絵画・イラスト制作なんてのは下流層に多い趣味なんだそうです。私、尺八の奥伝(師範免状の一歩手前ですよ)を持ってます。子供は絵を描くのが大好きだし。いやー、アッパー・クラスってのは窮屈な生活のようですね。あ、そんなことを言うのは下流の証拠だそうです。ま、いいか。
藤原正彦さんはお茶ノ水大学教授で数学者です。その数学者が論理だけに頼っていては人間社会は破滅する、と主張していますから、ちょっと目には奇異な感じがします。しかし数学者ですからそのあたりを“論理的”に解き明かしてくれます。
しかし、AであればB、BであればC、という推移律が成り立つ場合、AはCといってよいことになっていますが、では議論の出発点であるAをどうやって選ぶのか、という問題になります。実はこの出発点は論理的には選べないのです。常に仮説なのです。“Aならば”、というわけです。Aを選ぶのはその人の直感に頼ることになります。藤原さんはこれを論理以前のその人の総合力である情緒であるとしています。
分かりやすくいえば、東大出のエリート官僚の言うことが論理的には非の打ち所はないのかもしれないけれど、もうひとつしっくり来ない、なんてことでしょうか。
これを論理化したのがゲーデルの「不完全性定理」です。これは私が今まで出会った理論の中で一番びっくらこいた理論です。この理論を簡単に言ってしまうと、「どんなに立派な公理系があっても、その中に、正しいか正しくないかを論理的に判定できない命題が存在する」というものです。議論の大前提の仮定は証明できないのです。「改革なくして成長なして」とかね。こういう仮定を選ぶ人の“情緒力”が問われるわけです。
ゲーデルの定理はまた別の機会にもっと詳しく紹介することにして、本書の紹介を続けましょう。本書で一番気に入った文章は「日本は「異常」な国であれ」という表現です。二流のアメリカ人になるより、胸を張って一流の日本人になろうではありませんか。
2006年3月
藤岡信勝他『改訂版 新しい歴史教科書』扶桑社
この教科書のテーマは、日本人はいかに優れた民族であったのかをもう一度日本国民に知らしめ、戦後半世紀にわたって続けられてきた、誤った教育によって傷つけられた自信を取り戻させよう、ということだと思います。
紹介されているコラムの中で、20世紀初頭の中国の情勢についての述べている米国外交官マクマリーの見解が印象に残りました。「人種意識がよみがえった中国人は、故意に自国の法的義務を軽蔑し、目的実現のためには向こう見ずに暴力にうったえ、挑発的なやり方をした。そして力にうったえようとして、力で反撃されそうな見こみがあるとおどおどするが、敵対者が何か弱みのきざしをみせると、たちまち威張り散らす。」最近どこかで見たような気がしませんか?
かの有名なパール博士の日本無罪論も引用されています。パール博士は戦争が犯罪であるという法は存在しない、従って戦争をしたことを理由として人を処罰することはできないとしています。しかし、それでいいのかというと全く逆で、国際法の発展により、戦争を未然に防げるような社会の実現を目指すべきだとしているのです。ここら辺も強調していただかないと。
上記マクマリーと同じページに幣原喜重郎の見解も引用されています。「日本は不平等条約の辛酸をなめ、その撤廃をはかるにあたっては、列国を責めるよりもますおのれを責めた。妥当帝国主義などと叫ばずして、まず静かに国内政治の革新に全力をあげた。帝国主義時代において、われわれの先輩の苦労は容易ならざるものがあったが、国内の近代化が達成されると、列国は快く対等条約に同意した。日本は外国人が治外法権を享有した時代でも、列国の帝国主義を呪うことなく国を進歩させた。……われわれは必ずしも日本の先例のとおりにしろというわけではないが、シナ(中国)が早く平等の地位をしめることを望むが故に、同国官民の自重を求めざるをえない。」本当に日本は世界に尊敬される国になったのでしょうか。
田中正明『パール博士の日本無罪論』彗文社
扶桑社の歴史教科書にも引用されているように、東京裁判の欺瞞性を余すところなく暴いた書籍です。ただ、別に日本がやったことは良かったとかすばらしいことだ、といっているのではありません。
歴史の真実を知るためにもご一読を。
なお、彗文社の書籍は楽天ブックスには収録されていませんので、同著者が小学館より出版している『パール判事の日本無罪論』
にリンクしておきます。
八木修次他『改訂版 新しい公民教科書』扶桑社
以前『あなた自身の社会‐スウェーデンの中学教科書』というスウェーデンの公民社会に相当すると思われる教科の教科書をご紹介しました。スウェーデンの教科書と比べると、いかにも大上段に振りかぶって教科書が書かれているのが分かります。もっとも、教科で教える内容は文部科学省で決められているわけですから、勝手に変えるわけには行かないのでしょうが。
とにかく言いたいことは、日本国民が日本を愛するようにするには、日教組の息のかかった教科書ではだめだ、ということのようです。
しかし、今問題になっているのは、社会科の教科書ではなくて、社会そのものなのではないでしょうか。いくらきれい事を並べても、金さえ儲かりゃ人様のことなんか知ったことじゃねーよ、という態度が見え見えでは、子供だって信用しません。
それにしても、いわゆるライト・ウィングの方もレフト・ウィングの方も、イデオロギーに凝り固まっていらっしゃる方々は、他人の悪口は思いっきり並べ立てる割には自省する姿勢がちっとも見られないような気がします。
犬が悪いことをしたときは、その場で叱らないとだめだそうです。何をしたかすぐ忘れてしまうからです。人間は過去を振り返り反省することが出来る動物のはずです。あれっ、違ったかしら。
菊池英博 『増税が日本を破壊する』ダイヤモンド社
日本の財政が諸外国と比べるといかに危機的状況にあるか、ということが最近は教科書にも掲載されています。上記扶桑社の教科書にもちゃんと載っています。しかし、菊池英博さんの書かれた本書は、財務省が宣伝する、教科書にもちゃんと載っている日本財政のお話がいかに欺瞞的であるかを指摘しています。
世界各国の累積財政赤字のGDP比何パーセントに当たるか、というグラフを我々は最近いやというほど見せ付けられています。こんなに大赤字だから増税もやむを得ない、というわけです。
ところが、菊池英博さんの指摘によれば、粗債務とGDPを比較するのではなく、純債務(粗債務から債権を差し引いたもの)と比較してみると、実はそれほどでもないことが分かる、と指摘しています。
年収800万円のサラリーマンが3,000万円の住宅ローンを背負っているとします。飲まず食わずでも返済に4年もかかる大借金だ、とは誰も思いません。なぜ変なのかというと、1年単位の収入と粗債務を比べているから変なのであって、債務にはちゃんと住宅という立派な資産の裏付けがあるのです。だから銀行だって貸すでしょ。
日本の財政状況も同じで、日本国政府も膨大な債権を持っています。これを差し引くと先進各国と比べて日本の財政状況が特に悪い、というわけでもないのだそうです。
それでは、純債務を使った議論が経済学的に誤っている、あるいは不正確なのでしょうか。2002年に日本の国債の格付けが、日本がODA援助をしているボツワナより低いランクに引き下げられたことがありました。このとき財務省は格付け会社に対して粗債務ではなく純債務を見れば、日本の国債償還力にはいささかのかげりもないことは明らかではないかと反論したのです。都合の良いときだけに都合の良い理論や数字を持ってくるという、まさにためにする議論である、といえるでしょう。
上記扶桑社の公民の教科書にはマスメディアがいかにミスリーディングであるかを説明しているページがありました。おまえの教科書はどうなんだ、というツッコミはさておいて、政府財務省も意識的に自分に都合の良い議論を繰り広げていることが分かります。こんな欺瞞を見抜くためにも教育の大切さがよく分かります。
それにしても、政府は国民を絞れば絞るほど水が出る雑巾だとでも思っているのでしょうか。日本の役人に慈しみの心を求めることは無理なのでしょうか。
2006年2月
ヤフオクを使って起業を果たした砂原さんが自身の経験をもとにそのノウハウを公開しています。実は私もある商品の販売方法を研究してくれと頼まれ、そのひとつの方法としてヤフオクに注目、ちょっと勉強してみました。
日本最大のオークションサイトであるヤフオクを利用するメリットにはさまざまなものがあります。出品者としては、何と言ってもアクセス数の多さは魅力でしょう。それこそ新宿や渋谷の駅前に出店するような集客力があります。日本最大であるからお客さんも来る、お客さんが来るから出品も増えるという好循環が働いています。しかし、ヤフオクを起業に活用するメリットはそれだけに留まりません。
ヤフオクで起業するメリットとしては、まず初期投資の小ささがあげられます。従来のように起業方法では、企業を設立するにしろ個人事業で始めるにしろ、大きな初期投資が必要とされました。結果は成功か失敗か、です。ところがヤフオクを利用するオークション企業では、非常に小さな規模で始めることが可能です。商品を少数出品して売れなければ止めてしまえば良いので、損失を非常に小さく押さえることが可能です。
逆に、最初からホームランは狙わず、バントでも何でもして着実に歩を進めていく慎重が要求されます。売れるだろう、という甘い見込みで最初から大量に商品を仕入れたりしてはいけません。大量の仕入れなどは売れてから考えれば良いのです。
もうひとつヤフオクを利用するメリットは決済リスクが小さいことです。個人顧客に直接販売しますので、決済リスクを極小に押さえることが可能です。決済にはさまざまなインフラが用意されていますので、ビジネス形態に合わせた決済方法を取ることが可能です。
その他オークション起業のノウハウが色々と書かれています。
さまざまなメリットのあるオークション起業。うーん、やってみる価値はありそうだな。
袖山満一子『ヤフー・オークション公式ガイド2005-2006』
題名どおりヤフー・オークションの公式ガイドです。オークション・サイトというハード面のサポートだけでなく、使い方のノウハウというソフト面までカバーするヤフー商法。さすがです。トラブルを避けるための具体的方法や、トラブルがあった場合の対処法まで載っています。確かに、トラブル続発ではオークション・サイトの利用者が減る、儲からない、という悪循環が起こってしまいます。ヤフーとしてはオークションでいんちきに引っかからないためにはどうするか、といったノウハウまで積極的に公開する必然性があるわけですね。これも攻めるコンプライアンスの一環でしょうか。
オークションというのは一般的にものを売るには良いが、買うには適していない、といわれています。オークションに入札する側は必要以上に熱くなってしまい、落札価格も通常取引より高くなる傾向があるといわれています。ということは売る側で参加しなきゃ損、ってことでしょう。やってみるか。
林容子『進化するアートマネジメント』レイライン
日本では珍しいアートマネジメントに関する著作です。米国でアートマネジメントを学ばれたようです。アートマネジメントとは、芸術も社会としての生産活動の一環であり、それをマネジメントのプロが芸術をプロデュースするという、いかにも米国流のプラグマティックな手法です。従って作者の林容子さん自身が芸術活動を行っているわけではありません。
しかし、考えてみれば芸術家が芸術家であると意識し出したのはそう古いことではなく、絵画の世界では自画像を多く残したレンブラント(1606-1669)あたりであり、音楽の世界ではベートーベン(1770-1827)あたりだといわれています。
音楽史上最大の天才といわれるモーツァルト(1756-1791)も、ベートーベンよりたった14歳ほど年上なだけですが、恐らく自分は演奏家・作曲家だとは思っても芸術家だとは思っていなかったのではないでしょうか。天才モーツァルトも自分の楽譜を出版社に売り込むことにずいぶんと精力を費やしています。演奏が難しすぎるとか、多人数のオーケストラが必要だとかの売れない作品じゃ数は売れませんからね。
そのちょっと前のバッハ(1685-1750)も二人の奥さんに生ませた18人の子供たちを養育するためにずいぶんと苦労しています。
しかし、別の見方をすれば、当時の“芸術家”たちは自分の作品を売るために自分自身をプロデュースしマネージしていたわけです。そういう意味ではより“プロフェッショナル”であったといえるかもしれません。
昨今は上にも紹介したような自分でも販売活動を行えるパッケージが登場しています。上手く使えばビジネスを展開できるのではないでしょう。ううむ。
2006年1月
ゲーリーE・クレイトン 山崎政昌訳『アメリカの高校生が学ぶ経済学』
アメリカの小学生用の歴史教科書、スウェーデンの中学生用の社会科教科書ときて次はアメリカの高校生用の経済学教科書です。日本語版も370ページほどの本ですが、英語版は626ページもある大部の教科書だそうです。従って日本語版はアメリカ固有の制度などに触れた部分を割愛した抄訳です。ま、それでも結構ボリュームがあります。内容は経済学の基本概念の説明から始まってミクロ経済学、マクロ経済学、国際経済学へと展開していきます。
ミクロ経済学の説明で数学を使わないなど説明が簡略化されていますが、日本の大学における一般教養レベルの経済学教科書と同等、と思えばおよそのレベルが分かるのではないでしょうか。アメリカでは高校生にこんな難しいことを教えてるんですね。ビジネス競争で負けるわけだ。高校生向けの教科書、ということでもっと実社会におけるお金の使い方(最近日本でもファイナンシャル・プランナーなどを中心にお金に関する教育を早い時期から実施しようという活動が始まっています)などに焦点を当てているのかと思いましたが、そんなガキ向けの教科書ではありませんでした。むしろ、実社会に出て経済を理解するために必要な経済学的ツール・概念を高校生のうちから学ばせる、ということのようです。アメリカの高校生は疲れそうだな。
本書の特徴は、強烈なまでに現代アメリカの資本主義、競争原理主義社会を肯定していることです。アメリカではベストセラーの教科書だそうです。若いときから競争主義を刷りこんでいるんですね。内容的にはむーかし勉強したサミュエルソンのEconomics(今も使っているのでしょうか)を高校生向けに書きなおしたような感じですが、サミュエルソンでもこんなにもろ手を上げて資本主義を礼賛していなかったような気がします。ま、あの頃のアメリカの大学といえばリベラルの牙城でしたからね。経済学を取り巻く環境も保守化したのでしょうか。
現在の日本はアメリカ流の競争原理主義社会を目指しているようです。でも、もう少し人に優しい北欧流の社会体制を見習っても良いのではないでしょうか。北欧諸国も前世紀の終わり頃に金融機関の不良債権を巡る問題が起きましたが、早期に解決しました。最近は政治も経済も好調のようです。失われた10年の日本とは大違いです。
立ち直りの鍵は、企業は潰れても人は潰さない社会にあったといわれています。日本じゃ企業にまきこまれて人生を棒に振ってしまったり、あげくは命まで落としてしまう場合があります。消費税を20%にするなら、社会体制もそれに見合ったものにしてくれないと困りますよね。
東京大学赤門Economist『東大生が書いたやさしい経済の教科書』インデックス・コミュニケーションズ
新聞やテレビなどで経済に関するコメントを求められているのはなんとか研究所のエコノミストばかりで、アカデミックな立場からコメントを求められている学者なんて見たことないでしょう、これが日本の経済学の現状ですよ、と他分野の学者が批評していたそうです。うなずけるものはありますね。
本書は「東大生が書いた」シリーズの一冊です。イラストなどもあしらって経済学をやさしく解き明かそうとしています。その分いわゆる経済学の標準的教科書よりはボリュームが少なくなっています。
後半で、経済学のツールを正しく使っても、全く異なった結論が引き出せることを示しているのが大変興味深いものがありました。数学などのツールを使うことによって科学的な装いを身に着けていますが、経済学の議論には大変イデオロギー的な側面が含まれていることを忘れてはならないでしょう。
橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』集英社新書
橋本さんの本を読むのは初めてです。本書は経済学に関連した書籍というよりは橋本さんが最近の世相について考えていることを綴ったエッセイといった方が良いでしょう。この本を読んで、そうだ!その通りだ!という受け取り方をする方はいらっしゃらないでしょう(つまり、そういう書き方をしていない)。最後の文章が「後はよろしく―――。」ですから。つまりボールはこっちに投げられているんです。さ、どうしましょうか。
橋本さんは経済の発展とはフロンティアの発見であった、と言っています。アメリカの歴史など見ると、フロンティアの開発によって経済が発展してきたことが良くわかります。
さて生活に必要なものをすでに所持している現代社会においてフロンティアは存在するのでしょうか?ここで橋本さんは現代社会は「欲望」というフロンティアの上に成り立っていると喝破しています。「いる物だから買う」のではなく、「いるんだかいらないんだか分からないが、しかしそれを“ほしい”と思う」から買うのです。
我々は人間の飽くなき欲望が経済や社会を発展させてきたと思っています。しかし、「欲望」というフロンティアに立脚している経済はそんな甘っちょろい見解を木っ端微塵にしてしまいます。欲望が経済を動かしているのではなく、経済が人の欲望を動かしているのです。何しろそうしないことには経済が成り立たないのですから。
英語のEconomyの翻訳である「経済」という言葉は、四字熟語の「経世済民」(世を治め、民の生活を安定させること)の略から生み出された言葉なんだそうです。全然意味が違うではありませんか。
いや、恐ろしい世界ですね。Economyのもうひとつの意味である倹約(エコノミークラスとかエコノミーカーといった場合の意味)を生かして、今年は倹約を旨とした生活をしてみましょうか。
ジョン・K・ガルブレイス 佐和隆光訳『悪意なき欺瞞…誰も語らなかった経済の真相…』ダイヤモンド社
ガルブレイス・ハーバード大学名誉教授はアメリカ経済学会会長まで勤めた著名な経済学者であり、日本でも良く知られた学者です。またリベラル派として知られ、歴代民主党政権とも親しい間柄にありました。その老経済学者が米国の現状、そして経済学に対して痛烈な批判を加えています。
市場経済において、供給曲線は企業行動を表し、需要曲線は消費行動を表している、経済は価格と産出量はその均衡点で決定される、だから市場において絶対的な力を持っているプレイヤーはいない、としています。しかしこんなものは良く言っても「悪意なき欺瞞」ではないか、と指摘しています。市場の主役は企業ではないか、と。橋本治さん流に言えば、企業が人の欲望を動かしているのですから。
リベラル派は昔は主流だったかもしれませんが、いまや完全に傍流です。私は大変面白いと思ってこの本を読みましたが、米国の経済学のメインストリームではどのように受け取られているのでしょうか。完全に無視されてしまっている、としたら悲しいものがあります。弱肉強食が経済学の基本原則ではないでしょう。
本書の翻訳はガルブレイス教授に大変シンパシーを持っており、著名な経済学者でもある佐和隆光京都大学経済研究所所長が担当されています。佐和さんも、「本書の出版が、過度に保守派に傾きつつある日本の経済学界、政界、経済界に対して反省を促す契機となることを、私は心より祈念する。」と書いておられます。残念ながら、日本語版の出版から1年以上が経ちましたが、ホリエモンやらなんやらの買収騒動、夏の郵政民営化・刺客選挙を鑑みると、日本の保守化はちっとも止まっていないではありませんか。嗚呼。
的場昭弘『マルクスだったらこう考える』光文社新書
年齢的には団塊の世代に属する的場さんですが、中学生時代にマルクスを手にとって以来のマルクス主義者/研究者だそうです。今じゃ珍獣並みの存在でしょうか。
しかし研究するうちに、ソ連(いまや古語)やユーゴスラヴィアの体制は社会主義や共産主義のレベルには達していないのではないかと思うようになったそうです。
ロシアや中国で革命が成功したのはそのときの体制がイモだったからで、人民全部が共産主義者だったわけじゃないだろう、ってなもんでしょうか。
そんな的場さんですが、マルクス主義が忘れ去られたグローバリズム全盛の現代になり、逆にマルクス的(マルクス主義的ではなく)な歴史が展開しているのではないかと問いかけています。的場さん(マルクス)は資本主義とは外部からの搾取で成り立っているとしています。しかし資本主義の進展とともに外部を内部に取り入れていく必要が生じます。外部には搾取対象としての労働力を供給してもらうだけではなく、生産物の市場になってもらう必要があるからです。そのためには民主主義を取り入れ、教育も施し、というわけです。そして新たな外部を開拓していくわけです。
しかし、グローバリゼーションの進展により外部が消滅してしまうとどうなるのでしょうか。米国は巨大な外部として中国に期待を寄せていますが、その後はどうなるのでしょうか。というより、中国15億人がアメリカン・ライフを謳歌したら地球はぶっ壊れてしまうと思いますがどうなんでしょうか。
現代資本主義の次に来るのはどんなイデオロギーなのでしょうか。
ご存知『ナニワ金融道』です。青木さんは以前印刷会社を経営、立派に潰したことがあるので実体験をもとに書いたと思われているそうですが、実際には裏金などにはまる前、従業員には少ないながらも餞別を出せるぐらいのときに見切りをつけて会社を畳んだので、実体験として飯場で借金のカタに働かされる、なんてことはなかったそうです。悪い経営者は見切りをつけられずずるずると引きずった挙句、裏金などヤバイ金にまで手を出し、他人まで巻き添えにしてしまうことがあるそうですので、むしろ引き際を心得た立派な経営者だった、といえるのかもしれません。
そんな青木さんの描くナニワの風景はよくもここまで細かく調べたなと思わせる細かなディテールがとっても面白いです(面白いなんて言っては何ですが)。小難しい金融論ではなく、普通の人が引っかかってしまうようなあくどい手口が満載です。消費者センターの啓蒙書より役立つかもしれませんよ。
でも、あくどい金融機関は漫画の中だけの存在ではありません。何枚もセットになった書類にはんこを押したらそのうちの一枚が連帯保証契約書だったとか、公正証書作成の白紙委任状だった、なんてのもあったそうです。しかも、最近は少しは変わったみたいですが、こんな契約書も裁判で証拠として認められていました。もっとひどいのになると、普通の書類にはんこを押したら、薬品処理で署名と印影を残して消されてしまい、別の白紙委任状を作られちゃうそうです。これじゃいくら気をつけろって言っても無理ですよね。おっかねー。
最近話題の耐震偽造問題でも、住民が二重ローンを負担しなくてはならない問題がクローズアップされています。この事案では公的支援が得られるようですが、神戸淡路大震災など実際に地震などが起きた場合、そのような支援はまず期待できません。東京を大地震が襲ったら政府はどうするつもりなのでしょうか。ま、下々がどうなろうと知ったことじゃないのかもしれませんがね。
日本では一般的ではありませんが、ローンの条件としてwithout recourseというものがこの世にあることは知っておいても良いかも知れません。日本で借金をして不動産などを担保に入れた場合、借金を返せなくなって担保を処分しても足りなかった場合、当然残金は借金として残ります(with recourse、遡及権付き)。これに対してwithout recourse(遡及権無し)のローンでは借金を返せなくなって担保を処分しても足りなかった場合、残金は金融機関の損失となります。借金のカタは処分されて無一文になるけど、もう一度ゼロからのスタートが可能になります。ま、その分査定は厳しくなるし金利も高いんですけどね。
皆さんもお金を借りるときは十分過ぎるほど、くどいほど念入りに調べてください。知らなかった、ではすまさせませんよ。